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「男」だの「女」だのという性別だけでも面倒くさいのに、何故この世界には「ダイナミクス」等という力関係に関する性別なんて存在しているのだろう。 昔町工場だった廃墟に築いたはぐれ者の溜まり場。その場所にある、クッションが朽ち、バネが飛び出たソファに腰を下ろしながら、賢人はそんなことを考えていた。 染色された茶色い髪に、耳に幾つも開けられたピアスの穴とその穴を埋める銀色のピアス達。小さな身体には大きすぎる服から覗く身体には打撲痕が目立つ。不機嫌そうに空虚を見つめる鋭い瞳からは威圧感以上に戸惑いや不安の色が滲みだしていた。 ぼんやりと口を開き、首元に手をやるとそこに巻かれた冷たいフェイクレザーが指先に触れる。それを引き千切りたくて、出来なくて、あの人が自分にそうしてくれたように優しくそれを撫でることしか出来ず、空しくて、目を閉じた。 心なしか身体がだるい。じわり、じわりと腕から力が抜けていくような心地がして、気がつけば腕がだらりと下へ垂れていた。 吐き気がする。鼻で出来ていた息がいつの間にか口でしか出来なくなり、無様極まりない声が漏れ出してきた。無意識のうちに眉間に皺が寄る。奥歯をぎゅっと噛みしめたところで、入り口の方から足音が聞こえた。 反射的に身を起こす。だが、そこにいたのは賢人が待ち望んだ人物ではなく、この廃工場を利用している悪友の勇吾と悠馬だった。 「なんだ……お前等かよ」 「悪かったな、千隼じゃなくて」 「別に、あいつを待ってる訳じゃねぇ」 「そんなこと言っちゃって、かなり体調悪そうだよ。やっぱり、それって千隼からの「命令」がないから、」 「うるせぇ」 吐かれた悪態は勢いも覇気も無い。言葉を出すと同時に胃酸まで吐き出しそうになっていた悪友の姿に、勇吾と悠馬は溜息を吐いた。今どれだけ強がり虚勢を張ったって意味が無いと言うことは賢人が一番よくわかっているはずなのに。どうして依然、毛を逆立て威嚇し続けるのか。別にそうするように飼い主に言いつけられた訳でもないだろうに。 呆れが一周回って心配になり始めた悠馬に対し、勇吾はかなり苛立っている様子でジーンズのポケットに手を突っ込みながら、再び首輪を撫で始めた賢人を睨みつけた。 「なあ、賢人」 「……なんだよ」 「千隼はいったいどこに行ったんだ。いつになれば帰ってくる」 「知らねぇよ」 「なら!」 賢人は眉をひくつかせて勇吾を見上げる。眉間に深い皺を刻み、勇吾は声を震わせた。 「千隼はどうして消えたんだよ……」 その言葉に、三人は唯々黙って俯くことしか出来なかった。 一ノ瀬千隼が消えた。 彼は、この廃工場の王様で、賢人、勇吾、悠馬の恩人で――「Sub」である賢人とパートナー契約を結ぶ「Dom」だった。 千隼は賢人達より三つ年上で、賢人が千隼に出会ったのは賢人が十四歳、千隼が十七歳の時だった。 当時賢人が通っていた学校からの帰り道にある公園。そこで高校生に絡まれていた同級生を助けて逃がした後に、機嫌を悪くした高校生二人から返り討ちに遭っていた賢人を、その場に通りかかった千隼が助けてくれたのだ。 自分よりも体格の良い高校生二人組を一人でなぎ倒していく、強く、それ以上に美しい千隼の姿に抱いた圧倒的な眩しさと憧れ。それを自分の小さな身体に押さえ込むことが出来ず、賢人は高校生二人組をねじ伏せ、手に付いた土をはらっている千隼に駆け寄ると自分よりも三十センチ近く背の高い千隼を見上げながらに「弟子にしてください」と叫んだ。 その必死さと自分を見つめるあまりにも輝いている瞳に心を撃たれたのか、千隼は一瞬目を丸くしてからケラケラと笑うと、賢人の頭を優しく撫でる。賢人はそのときに感じた足の指がもぞもぞとするような感覚を今でも鮮明に覚えていた。 「君、可愛いなぁ。豆柴みたいだ。名前は?」 「駒井……駒井賢人」 「じゃあ、「ケン」だ。俺は一ノ瀬千隼。よろしくね、ケン」 千隼に差し出された手を握ったその日から、賢人は彼と同じように千隼に救われ、彼に憧れた少年少女達の集いの一員になった。 学校が終われば街の廃工場に集まり、そこで出会った同い年の勇吾と悠馬、その他数名の「仲間達」、そして千隼との時間を過ごすようになった。その場所では、特に何か決まったことをしなければならないという訳ではなく――唯一、千隼の言いつけで絶対に学校の宿題だけはやらされていた――各々が好きなことをしながら時間を過ごしていた。 賢人は「弟子にして欲しい」という申し出通り、千隼へ近づくため、彼に強くなる方法を指南してもらっていたが、ずっとゲームをしていた者もいたし、仲間達と唯々喋ったり、どこからか持ってきたボールとグローブを使ってキャッチボールをしたり、何もせず壁にもたれて眠る者もいた。 千隼が帰ればみんな家へ帰るというルールはあったものの、賢人を始め「家に帰りたくない事情がある」者も数名いて、特に賢人、勇吾、悠馬の三人は千隼が解散の合図をして皆が帰路についても、工場の床に座り込んだままということが多くあった。 そういうとき、千隼は決して怒らず、少しだけ困ったように笑いながら、自分の自宅まで三人を連れて帰る。親が滅多に帰らないという立派な一軒家。千隼のことを「坊ちゃん」と呼ぶお手伝いの女性数名に「私どもが作りますので」と止められながら千隼が作った料理をお腹いっぱい食べて、広い風呂に四人で浸かって、少し話して、帰れそうだったら家へ帰り、無理なようだったら客室に泊まる。 家に帰れば、酒に酔った父親に殴られる賢人や、出来の良い兄弟と比較され冷たい視線を浴びせられ続ける勇吾、毎晩違う男を家へ連れ込み帰ってきた息子のことなど気にもしない様子でことを続ける母親がいる悠馬に千隼は居場所をくれた、「ここにいてもいい」と「生きてもいい」と許してくれた唯一の人間だった。 そんな恩人であった千隼との関係が変わったのは、賢人が高校に入学した春。健康診断で行った「ダイナミクス検査」の結果が返ってきた後だった。 この世界には「ダイナミクス」と呼ばれる第二の性が存在する。思春期になった頃に顕在化すると言われているこの「ダイナミクス」は力関係を表しており、主に支配する「Dom」と支配される「Sub」に分けられる。「Dom」には「Sub」を支配したい、護りたい、お仕置きしたいという欲求があり、「Sub」には「Dom」に支配されたい、褒められたい、お仕置きされたいという欲求が本能的に存在しているのだ。 本能的に、つまり三大欲求である「食欲」「睡眠欲」「性欲」と同じように「支配したい」「支配されたい」という欲求が「Dom」と「Sub」の頭の中には組み込まれているのだ。 本能に由来したものであるが故、この欲求が長期間満たされなければ、体調を崩すこともあるという。一番良いのは「Dom」は「Sub」の、「Sub」は「Dom」のパートナーを持ち、その欲求を満たし合うことなのだが、唯でさえ全人口の約二割しかいないと言われているダイナミクス持ちを、しかも自分が信頼できる相手を見つけることは難しい。その為、ダイナミクス持ちの欲求を抑える抑制剤が開発されており、ダイナミクス持ちはその抑制剤を医師によって処方された場合に限り、少ない自己負担額で薬を購入できる制度が制定された。 だが、制度が整ったところで自分がダイナミクスを持っていることを知らなければ知らず知らずのうちに身を滅ぼしてしまう。そのような事態を避けるため、ダイナミクス持ちの心身の健康を保障し適切な支援をするために、ダイナミクスが顕在する思春期、特に高校入学した際の健康診断で「ダイナミクス検査」を行う学校は多い。 賢人が入学した学校もそんな多くの学校の一つだった。「Dom」がどうとか「Sub」がどうとか言う話は中学時代の保健体育だか人権学習だかの授業で聞いた記憶はあったが、今ひとつ何なのかはわかっておらず、「そもそも人口の二割程度かいないなら自分は該当すらしていないだろう」などと楽観的に考えていた賢人は返ってきた結果に目を丸くした。 検査結果。その欄に印刷されていたのは「Sub」の文字だった。 背筋が凍る感覚。真っ先に頭に浮かんだのは酒瓶を振りかざす父親の姿だった。 自分が父親から力によって支配されていたのは、「そういうゴミみたいな環境のせい」ではなく、「自分がそういう人間だったから」なのかと思うと吐き気がした。しかも、自分はそれを望んでいて、それを喜んで―― 「それは違うよ、ケン」 いつも通り溜まり場に行き、いつも通り時間を過ごし、解散の合図を告げた千隼に、助けを求めるように、縋るように「家に泊めてくれ」と懇願した賢人は、大学に入り、一人暮らしを始めた千隼の下宿先に転がり込むと検査の結果を千隼に告げた。そして、肺に溜まった不安と恐怖を吐露すると、千隼は首を振ってそう言った。 「ケンの親父さんはダイナミクス持ちじゃないんだろう? 「Sub」が従いたいのは「Dom」と、「Dom」と「Sub」の両方の性質を併せ持った「Switch」のいずれかだけ。 それに、一方的に、理不尽に暴力を受けて良い理由なんて無い。「Dom」と「Sub」の関係は信頼関係が結ばれていることが大前提だし、暴力的な行為も互いの同意を元に行われる。だから、ケンは悪くない。悪いのは酒を飲んでは暴力を振るケンの親父さんだよ」 顔を真っ青にした賢人を抱きしめ、千隼は優しく彼の頭を撫でる。それに安心したらしく長い息を吐いた賢人に千隼は優しく何処か甘い視線を注いだ。 木漏れ日のような優しい瞳。この頃、賢人は千隼にこの目で見つめられるとなんだかよくわからない、形容しがたい感覚に包まれるようになっていた。初めて千隼に会ったときと同じ、足の指がもぞもぞとするような感覚に加えて、身体がぽかぽかするような心地がする。 ずっとこのままこうしていたい。こうされていたい。そんな言葉が頭を過ぎり、賢人はハッとすると首を振った。 「どうかした?」 「いや、別に……それより、俺、これからどうしたらいいんだ。その、抑制剤? も飲まなくちゃいけねぇんだよな? 薬もらうために病院も行かねぇと……でも、俺、金が……親父も、俺のためになんて金出してくれるはずかねぇし……母さんにも、唯でさえ学校行く金払ってもらってるんだから、これ以上負担はかけたくねぇ、それに、」 口に出せば出すほど不安が増えていく。完全に迷宮の中に堕ちてしまった賢人に千隼は少しだけ口を閉ざすと、何かを強く決意した様に目を光らせた。 「ねえ、ケン。君に二つの選択肢をあげよう。安心して、どちらを選んでもケンに損は決して無い」 「選択肢? なんだよ」 千隼は賢人を撫でていた手を離し、立ち上がると、部屋の隅に置いてあるチェストの方へ足を進めた。確か、千隼がいつも「絶対に開けてはいけない」と強く釘を刺していたチェストだ。その一番上の段を漁りながら千隼は話を続けた。 「まず、選択肢その一。俺に抑制剤を買うお金と医者にかかるお金を全額払ってもらう。知っていると思うけど、俺、お金だけは持っているんだ。お金だけはね」 「なっ!? んなの、選べるわけねぇだろ! 恩人のアンタから、金借りるなんて、」 「君はそういうと思っていたよ。次、選択肢その二」 「お、あった」と引き出しの中から何かを取り出すと、千隼はゆっくりと賢人の方へ向き返った。 「俺のパートナーになる」 「え、」と口にした賢人の目には今まで見た中で一番美しく笑う千隼の顔と、彼の右手に握られている黒いフェイクレザーのチョーカーが映っていた。 「パートナーって、どういうことだよ」 「難しいことは何も言っていない。そのままの意味だよ。ずっと、親とお手伝いさん達以外、誰にも言っていなかったのだけれど、実は俺「Dom」なんだ。パートナーはいないから今は抑制剤を飲んでいる。ほら、泊まりに来たとき、眠る前に薬を飲む俺にハルが気付いて、ケンとユウが凄く心配してくれたときがあっただろう」 「そういえば……でも、アレはビタミン剤だって、」 「嘘だよ。あれ、抑制剤だったんだ。知られたくなかったんだ、君たちには。 欲求を満たすために暴力事件を起こしたり、自身が威嚇なんかのために発する「Glare」と呼ばれる目力で集団ヒステリーを巻き起こしたり……そういう「Dom」がいるせいで「犯罪者予備軍」っていう偏見を持ってる人も少なくないからね。俺に懐いてくれている可愛い弟分達が、俺が「Dom」だって理由で離れていくのが、嫌だったんだ」 千隼は「笑えるだろう」と目を伏せる。弱々しい千隼。そんな彼を見るのは初めてで戸惑う。しかし、それ以上に「千隼が俺だけに秘密を話してくれた」という優越感に賢人の脳は浸されていた。 「……こんなこと、急に言われても困るよな。急に「俺は「Dom」だ」「俺とパートナーになってくれ」なんて。でも、悪くないアイデアだと思うんだ。まあ、ケンにパートナーにしたい相手がいるなら、話は別だけれど」 「……アンタは、俺でいいのかよ」 「それは、どういう意味?」 「パートナーって恋人と同じくらい大切な存在なんだろ? 俺は、千隼の特別になれるの嬉しいけど、お前は、いいのかよ。俺が、お前の特別で」 千隼は優しいから。困っている人がいたら助けないと気が済まない体質だから、困っている自分に救いの手を差し伸べてくれているのだろう。でも、だからこそ、そんな理由で千隼の人生を縛りたくはない。 千隼は大切な人だから。師匠で、恩人で、家族の様な人だから。 だから、千隼にはちゃんと心に決めた相手とパートナーになって欲しい。 賢人は口の中でガムを噛む様に言葉を咀嚼し飲み込む。自分が言いたいことはちゃんと頭の中にあるのに、それがうまく音に変換されない。 急に顔が熱くなって俯いた賢人の上にゆっくりと影が出来る。「賢人」と名前を呼ばれて上を向くと、火照った頬を冷たくて大きな手が包み込んだ。 「ち、はや?」 「あのね、ケン、良く聞いて。俺はね、きっとユウやハルが「Sub」だって言っても、選択肢なんて与えなかったと思うんだ。抑制剤のお金は俺が出してあげるとだけ言って、自分が「Dom」であることすら明かさなかったかも知れない。でも、君には「パートナーにならないか」なんて提案して、おまけに自分が「Dom」だと明かした。どうしてかわかるかい?」 「どうして、」 「……鈍いなぁ、ケンは」 溜息を吐きならが睨みつけられる。降り注がれる視線が肌や胸の奥へチクチクと刺さった。 数カ所を同時に熱せられ、痛め付けられている様な感覚。それに賢人の口からは思わず謝罪の言葉が漏れた。 ごめんなさい。ごめんなさい。何度も漏れるその声に、千隼は驚き、悔しそうな顔をして、そのまま賢人の口からこれ以上言葉が出ないように自分の口で賢人の口を塞いだ。 声が止む。シンッと空気が静まった後、千隼がゆっくりと賢人から顔を離した。離れる温度が名残惜しい。切なげな声を漏らした賢人の肩を掴んで、千隼はできるだけ優しく微笑んだ。 「好きだよ、ケン」 「え?」 「俺にとっての特別は、君なんだ。ずっと、君を俺だけのものにしたい、恋人にしてずっと傍に――って思っていたけれど、まさか、君が「Sub」だったなんて、ね」 熱くなった賢人の首元を千隼の指が這う。生唾を飲み込むと同時に上下する賢人の喉仏を愛おしそうに指でなぞり、千隼は口元に弧を描いてこてんと首をかしげた。 「ケン、どうする。抑制剤を飲むか、俺のパートナーになるか。さあ、「答えて」」 血が駆け巡る音が耳の奥で響いた。先ほど感じたチクチクとした痛みと熱が脳を直接刺激している様な感覚。それがどうしようもなく気持ちが良くて。 もっと刺激を得るためには、もっと気持ちよくなるにはどうすればいいのだろう。そう考えたところで、賢人は自分が「Sub」で千隼が「Dom」であることを思いだし、さっき千隼が言った言葉は「命令」であることにやっと気がついた。 口を開こうとすればやっぱり想像したとおりの感覚が身体を包んでいく。それに完全に飲み込まれない様に意識し賢人はやっと声を出した。 「千隼の、パートナーに、千隼だけの「Sub」になりたい」 賢人の言葉に千隼の目が輝く。そのとき見せた彼の顔は今でも賢人の脳裏に鮮明に張り付いていた。 「よく言えました。いい子だね、ケン」 千隼の熱っぽい指が頭皮に触れ、そう言葉をかけられた瞬間、目の端で線香花火の様な光りが散った。足がガクガクと震える。だが、それが恐怖から来るものではないと気がついたときには、賢人の身体は千隼の腕の中に収まってしまっていた。 圧倒的な安心感。今まで必死でもがいて手に入れようとしていたものが急に全身を包み訳がわからなくなる。 この状態を言葉で表すのならば、きっと「幸せ」と表現するのだろう。頭の中がとろとろと蕩けていき、身体まで溶けそうな賢人の首に黒いフェイクレザーの首輪を巻きながら、千隼は小さく、出会ったあの日のあの言葉と同じ声色で囁いた。 「よろしくね、俺の可愛いわんちゃん」 その日から二人はパートナー同士になり、賢人は千隼の下宿先に寝泊まりする様になった。 二人で済むのには決して広いとはいえない1LDK。 酔っ払っては定期的に家へ殴り込みに来る賢人の父親。 「Dom」と「Sub」への強い偏見と固定観念を基に賢人の幸せを説き続ける母親。 首輪をすることで賢人のことを「Sub」だと感づいた同級生からの執拗ないじめ。 「千隼とパートナーになった」事に対する溜まり場の仲間達からの嫉妬の目。 辛いことは沢山あったけれど、それでも千隼と過ごす毎日は賢人にとっては幸せでかけがえのないものだった。 毎日が幸せだった。 そのはずなのに。 ある日突然、千隼は廃工場の少年少女達の前から、そして賢人の前から姿を消した。 大学に入ってから廃工場に来る回数が減った千隼が廃工場に来なかったその時点では誰も違和感を覚えてはいなかった。だが、夜の十二時を過ぎても千隼が家に戻らない。 そのことに言い知れない不安に襲われた賢人は何度も携帯の通知を確認した。帰りが遅くなるとき、千隼は律儀にいつも連絡をくれるのだ。だが、千隼からの連絡は一件も無い。それどころか、電話を鳴らせばコール音の後に機械的な女性のアナウンス音が鳴り、メッセージを送っても既読さえ付かなかった。 直ぐに賢人は勇吾と悠馬に連絡を入れ、いつもの廃工場に一旦集まった三人は、朝日が昇り、同級生達が学校へ登校し始めるまで。太陽が真上へ昇ってそれが西へ沈んでも、町中を駆け回って千隼を探し続けた。 千隼の実家。彼が通う大学。もしかして、帰ってきているかも知れないと下宿先へ帰ってもみた。 だが、千隼が見つかることはなかった。 そのうち帰ってくるだろう。最初抱いていた希望は日を経るごとに風化して行き、賢人の身体にはある変化が現れ始めた。 まず、朝起き上がるのに時間がかかるようになった。身体が鉛の様に重く、動かない。早くなる鼓動を抑えようとゆっくり行きを繰り返し、やっと汗だくの身体を起こしたとしてもベッドから出るのにさらに時間がかかった。 次に感じたのが肩にのしかかる倦怠感。 それに加えて、やっとキッチンへ向かい、腹に入れたヨーグルトはものの数秒でトイレへ吐き出され、胃が食べ物を受け付けなくなる。牛乳だけ飲んで、千隼を探そうと外へ出た瞬間、予告も無しに涙が溢れ出しその場から動けなくなった。 当然学校どころか千隼の捜索へ行くことも出来ない。待つことしか出来なくなった賢人は、連日、目を覚ませばスープだけを飲んで腹を満たし、玄関に座り込んで千隼の帰りを待ち続けた。 これが「Sub」の特徴の一つである、「Dom」からの命令が長期間与えられないことによる体調不良である事に気がついたのはそれからしばらく経ってからのことで、賢人は「念のため」と言って千隼が用意してくれた抑制剤を飲み、何とか外へ出歩ける様にはなった。 例え千隼がいなくなったとしても、賢人は千隼の言いつけを守り続けた。平日はちゃんと学校へ行く。千隼を捜すのは放課後と休日。町中を捜したり、廃工場でしばらく待ったり。日が暮れれば家に戻り、リビングの床に座り込んで千隼を待ち続け、そのまま床の上へ丸くなって眠る。 そんな日を繰り返し初めて、一ヶ月が経った。 結局、賢人達三人は、千隼の居場所どころか彼がいなくなった理由さえもわからないままうなだれることしか出来なくなってしまっていた。警察に捜索を頼もうかとも考えたが自分たちの行いや、この廃工場のことを知られるリスクが頭を過ぎる。 どうすることも出来ない。何も出来ない。ふがいなさばかりが肩へ降り積もっていった。 「どうして、どうして……」 冷たい空気が張り詰める廃工場。譫言の様に、責める様に勇吾はそう賢人に呟き続けた。 「賢人、お前、本当に何も知らないのか。パートナーのくせに」 「ちょっと、ユウちゃん、」 「……知ってたら、お前等にこんな醜態晒してねぇ、し……それに、あんなに必死に探し回ったりしねぇよ」 薬が切れてきたのだろうか。それともまともに食事を摂れていないせいか、賢人は自分の身体が次第に重くなるのを感じた。舌打ちをして無理矢理に立ち上がれば、足がもつれる。思わずコンクリートの床に膝を付けそうになったところで、急に昔の記憶が引っ張り出された。 「俺以外の前で跪いたらダメだよ」 「お仕置きだからね」と囁く千隼の声が蘇る。 床に膝をついて座り込む「kneel」「おすわり」と呼ばれている、「Sub」が「Dom」の前でする基本的な姿勢。 勇吾と悠馬がダイナミクス持ちではないことはわかってはいたが、賢人は脳裏にこびりついた「「千隼以外の前で」跪いたらいけない」という、他でもない千隼との約束に従い、どうにか脚を踏ん張り体勢を立て直す。その間も脚が震えて脂汗が額に滲んでいた。 「クソッ……!!」 無意識のうちに漏れた悪態を叱る主人はここにはいない。それなのに、何かいけないことをした様な気がして、千隼がお仕置きしに来てくれる様な気がして、さらに胸が締め付けられた。 いっその事、膝をついてしまおうか。 そうすれば、千隼は自分を叱りに来てくれるのでは無いだろうか。 どんなお仕置きを受けてもいい。暴力を振るわれたっていい。 千隼に命令されたい。千隼に支配されたい。 千隼に会いたい。 賢人は不意に脚の力を抜く。その瞬間、悠馬の手が目の前へ伸びてきた。 「ケンちゃん、ほら、俺に捉まって。一旦ソファ座ろう」 「……わりぃ、悠馬……でも、そろそろ家に帰らねぇと。今日は、千隼帰ってくるかも知れねぇし」 「……そう、だね。じゃあ、俺達が送るよ。ケンちゃんが倒れたら、千隼きっと悲しむし。ね、ユウちゃん」 「俺は行かない」 腕を組み貧乏揺すりをする勇吾に悠馬は溜息を吐いて首を振る。 勇吾は、賢人が千隼の「特別」になったことを妬む仲間達の一人だ。 元々、千隼に可愛がられている賢人をライバル視していた勇吾だったが、千隼と賢人がパートナー契約を結んだことを――しかも自分を出し抜いて「恋人同士」になったことを――知ってからというもの、彼は明らかに賢人に対して敵意を向けるようになった。 今も千隼を捜すために賢人と仕方なく協力しているが、身体が不調を引き起こして碌々聞き込みさえ出来ない賢人の存在は勇吾にとって正直「邪魔」以外の何物でも無い。とっとと家に帰って寝ていれば良い。しかし、その帰る家が千隼の下宿先であることを考えると非常に腹立たしかった。 ならばいっその事―― 「道端でくたばっちまえよ、捨て犬」 「あ?」 思わず出てしまった言葉に勇吾は悪びれる様子も一切無く冷たい視線を賢人へ向ける。いつもならキツく睨んだ後に直ぐに飛びかかってくるはずの狂犬は、信じられないくらい大人しく、ただ弱々しい睨みをきかせてきただけだった。それがさらに勇吾を苛立たせた。 「なあ、賢人。どうすればお前の体調が良くなるか、教えてやろうか」 「止めなよ、ユウちゃん」 「千隼とのパートナー契約を切ればいい」 冷たい声。勇吾のその提案に、賢人は驚きもせず小さく鼻で笑った。 勇吾がそう思っているのは、「さっさと千隼とのパートナー契約を切って、違うDomのパートナーを見つければいい」と思っているのはなんとなくわかっていた。勇吾だけでは無い。悠馬も、他の仲間達だって、そう思っていることはわかっていた。 そこには千隼と賢人の関係に対する妬みもあったが、それ以上にあったのは諦めだ。 「千隼に帰ってきて欲しい」その願いは消えないままで、「千隼はもう帰ってこない」と、皆がそう確信し始めているのだ。 だから、お前も諦めろ。そう言いたげな勇吾の目を見つめながら、賢人はふらつく脚でゆっくりと立ち上がった。 「わりぃけど、それは出来ねぇよ」 「なん、でだよ。詳しくは知らねぇけど、「Dom」と「Sub」の契約には、どちらかの意思で契約を切れる強制解除ってのがあるんだろ? それなら、千隼がいなくても契約の解除は、」 「千隼は帰ってくる……「待ってて」って、言ったんだ。あいつ」 「……は?」 上ずった声でそう言った勇吾は賢人の肩を掴み大きく揺さぶる。 「いつ、どこで、千隼にそう言われたんだよ!」 「ちょっと、止めなって!」 「わからねぇ」 「んだよ! わからねぇって!」 「離せよ!」 悠馬が怒鳴り声とともに二人を引き剥がす。肩で息をし、爛々と輝いた目で互いを見つめあえば、賢人は静かに首輪を撫で、思い出す様に目を閉じた。 思い出すのは暗い部屋。月明かり。ぼやけた影。 とても遠くの方で微かにだが、あの人の声を聞いた。 「……正直、あれが千隼だったのかも、そもそもあれが夢だったのか現実だったのかもわからねぇ。いつ、どこで言われたのかさえも――。だけど、はっきりと覚えてんだ。千隼が俺の頭を撫でながら「絶対に帰ってくるから」「いい子にして待ってて」て、俺にそう言ったのを……でも、だから、俺は待つ。千隼が帰ってくるのを待ってる。だって、俺は、」 賢人は勇吾と悠馬に背を向けると、依然千隼が良く言ってくれていた言葉を口にした。 「「利口で賢い犬」だから」 そのまま賢人が廃工場から出て行くのを、勇吾と悠馬は唯無言で、悔しそうに、悲しそうな顔をしながら見送ることしか出来なかった。 ――その次の日、賢人は廃工場に姿を現さなかった。

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