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冷たい空気に身体が震え、呻き声とともに、賢人は目を開いた。頬に感じる冷たく堅い床の感触。キッチンの方から聞こえる蛇口から溢れる雫の音と、時計の針が進む音がやけに鮮明に響いた。
部屋は暗く、カーテンを開けたままにしている窓からは月の明かりだけが差し込んでいた。
どのくらい眠っていたのだろう。時計を確認しようとしたが、身体がうまく動かない。それならば、と手に取ったスマートフォンは充電切れで、賢人は静かに溜息を吐いた。
あの後、廃工場から出た後、賢人は急に身体の調子が悪くなった。やはり薬の効果が切れていたらしく、やっとの思いで部屋に戻ったのだが、そのまま気絶する様に眠りについてしまったのだ。
食事もせず――最近まともにとっていないからもはや食事ともいえないのだけれど――薬も飲まずだからだろうか。本格的に身体が動かない。
起きたばかりだというのにもう朦朧とし始めた賢人の脳内では廃工場で聞いた勇吾の「捨て犬」という言葉が木霊していた。「捨て犬」。その言葉を頭の中で繰り返せば繰り返すほど胸が締め付けられる。浮かぶ言葉を否定し続けても、もくもくと広がり続ける靄に押しつぶされる。うまく息が出来ず、餌を求める金魚の様にはくはくと口を動かせば、冷たい涙が頬を伝った。
捨てられてなんかいない。千隼は自分のことを捨ててなどいない。
いくらそう信じていたとしても、気怠い体が、鉛の様な重たい手足がその意志さえも阻害する。
――もう、ダメかも知れないな。
そう呆然と思えば自然に口が動いた。
「ち……はや、ちはや……」
腕へ何とか力を込めて何も無い宙へ手を伸ばす。ふらふらと冷たい空気を掴んでは放すを何度も繰り返した。
どれだけ手を漂わせても欲しい熱に触れてくれない。わかりきった答えにやっと納得したのか、賢人はスッと瞼を閉じて腕の力を抜いた。
腕が床へたたきつけられる――その寸前で、何かが賢人の手首を掴んだ。
「――?」
暗闇がゆっくりと明るくなっていく。先ほどまではそこに無かったはずの何か。その輪郭が次第にはっきりしていって、賢人は口元を緩めた。
神様は意地悪だ。最後にこんな夢を見せるなんて。
「……夢じゃ無いよ」
酷く懐かしい声。融解していたはずの頭の中が次第に形を取り戻していく。涙があまりに邪魔で瞬きをすれば、急に世界がクリアになって、その世界には死んでしまいそうになるほどに求め探していたその人がいた。
「ちゃんと、いい子で待てたんだね、ケン」
「ちはや?」
「うん」
「ほんもの?」
「本物だよ」
「……いっぱつ、殴らせろ」
「なんでさ。まあ、理由は痛いほどにわかるけど……ごめんね。でも、殴られるのは勘弁。やっと、傷が癒えてきたところだからさ」
ほら、と千隼は賢人に顔を寄せる。賢人は寄ってきた、青痣が張り付いている頬に自らキスをした。
「び……っくりした。ケンからしてくるなんて。そんなにご褒美が欲しいの?」
「見てわかれ。お前のせいで……飯も、まともに、食えてねぇんだよ……こっちは。ペットは……責任もって世話しろって、テレビCMでも……言ってるだろーが」
「本当だ。腕、細くなってる。顔も、頬骨……俺のせいだね。全部。俺のせいだ。ケンのために、姿を消したのになぁ……それが、結果、君をここまで……」
「……後で聞く。後で全部聞くから……なあ、はやく、俺、頑張ったから」
いつまで拷問を続ける気だ。そう言って千隼の身体を抱きしめると、一瞬彼は痛みを堪える様な声を上げ、静かに、懐かしい笑顔を見せた。
「そうだね。いっぱいご褒美あげるからね。ほら、口開いて。ケンが好きなのしてあげる……そう、いい子」
一ヶ月ぶりに与えられたご褒美は、甘くて、優しくて。夢中になって頬張れば、じわじわと賢人の身体を拘束してた重い鎖がほどけていった。
「もっと」と強請れば、腕が身体の方へ伸びてくる。いつもなら、「求めすぎだろう」なんて言葉が頭を過ぎるが、今日は、今回はどれだけ与えられても、強請っても、やり過ぎなんて事は無いはずだ。
それに、自分以上に千隼がそうしたがっている。辛かったのは、きっと自分だけでは無い。この一ヶ月、欲求を、本能を満たせていなかったのは「Sub」も「Dom」も同じだ。
――きっと千隼もずっと苦しかったんだろうな。「俺」がいなくて。
そう思うと、何故か嬉しくて仕方が無くなって、賢人はそのまま千隼から与えられる甘い蜜に爪先から頭まで浸り続けた。
「最初は、いつも通り、人助けのつもりだったんだ」
たくさんのご褒美を与えられ、ついでに風呂に入れられ、その上久しぶりにお腹いっぱいご飯を食べさせてもらった賢人は、千隼とともにシングルベッドに潜り込み、千隼失踪の理由を聞いていた。
初めはそう、賢人と同じように――恐らく、勇吾や悠馬とも同じように――人を助けたつもりだった。
ヒーローは悪を倒しました。それだけで終わるはずだった。
大学の帰り道。路地裏から聞こえた争う声に、光りに誘われる夜光虫の如く近づくと、そこにいたのは大柄な男性と、その男性に暴力を振るわれている女性。とっさの判断で、女性をかばい、男性を押さえつけた千隼は、直ぐにそれが「出過ぎた真似」であることに気がついた。
男性から感じるGlareと女性の首にはまった首輪。彼等が「Dom」と「Sub」のカップルであることを察した千隼は直ぐに詫び、その場を離れようとした。だが、千隼の腕を掴む女性の手がそれを許さなかった。
よく見れば、女性の首元や顔には複数の痣がある。プレイを邪魔されたことにたいして腹立っているとは到底思えない、見慣れた助けを求める瞳に、千隼はやはり自分は間違っていなかったのだと確信し、女性の手を引いた。
追いかけてこようとした男を、自分のGlareでねじ伏せて、警察へ向かう。途中で倒れそうになった女性を何度も支えながら交番にたどり着いた千隼は、警官に事情を説明し、女性を保護してもらう様に頼んだ。
女性から、何度も「一方的に暴力を振るわれていた」「怖かった」「逆らえば殺されると思った」「助けてくれてありがとう」と言われながら、千隼はもう何千回と、何万回と感じた満足感に浸り、交番を出た。
その後だ。あの「Dom」の男に、背後から襲われたのは。
頭に衝撃を感じ、次に目を覚ましたときには、千隼は手足を拘束され、自分の巣とは違う廃工場の床に転がっていた。周りをあの男を含め、数名の男に囲まれ、目を覚ますと同時に複数名から殴られ、蹴られる。
自分が最強の「Dom」だと思っていたのに、自分より遥かにひ弱そうな男にねじ伏せられ、ペットを連れ去られた上に、その男から受けたGlareに負けてしまった。それが腹立たしかった。それだけの理由で、男は千隼を拉致したのだ。
「よく、死ななかったと思うよ。ボコボコにされて。でも、日頃の行いが良かったからかな。不意に縄がほどけたんだ。その後は、良く覚えてないんだけど、俺も精神的に来てたんだろうね。本当に恥ずかしいんだけど、Glareが暴走しちゃって。拳を振るう事無く、その場にいた全員の戦意を喪失させていたよ。流石に、自分が怖く感じたね、あれは。
その後は、そこから全力で逃げて……意外とその廃工場の場所が家と近かったから、家に帰ろうともしたけれど……このまま、家に帰れば、ケンを危険にさらしてしまうんじゃ無いかって思ったんだ。戦意喪失させたとはいえ、あんなの一時しのぎだし、そもそも、最初に逆上して平気で人を拉致していく様な奴らだ。しぶとく追ってくる可能性は大いにあった。だから、」
「俺の――俺達の前から姿を消した」
「今思えば、帰れないなり何なり連絡を入れるべきだったよ。スマフォを奪われてはいたけれど、それも逃げるとき、相手から取り戻していたわけだし。でも、ケン達に心配かけたくなくて。ケン達を危険な目に遭わせたくなくて。馬鹿だよね。そっちの方が倍心配をかけたし、ケンも、危険な目に遭わせてしまった。
ごめんね。本当にごめん。俺はダメな飼い主だよ。でも、もう大丈夫。俺を集団リンチしてきた奴らは、無事お縄にかかったらしいから」
「……捨てられた訳じゃ無くて良かった」
「捨てる? そんなことする訳無いでしょう。俺にはケンしかいないのに」
千隼は賢人の身体をぎゅっと抱きしめ、彼の頭に顔を埋めた。熱い息が頭皮に染みこむ。くすぐったくって笑い声を上げれば、千隼も一緒になって笑った。
「苦しかった。ケンに会えなくて。耐えられそうに無くて、一回だけ、周りに十分気をつけて、家に戻ったことがあったんだよ、実は」
「……俺に「待ってて」って、言った日?」
「起きてたの?」
「ぼんやりと。夢だと思ってた……俺さ、そのときのアンタの言葉をずっと信じて待ってたんだぜ」
「……君は本当に健気というか、愚直というか。あれ、命令でも何でも無かったんだよ。唯のお願い。それなのに、どうして君は待っててくれたの。待たずに、一方的に切ってもよかったんだよ、パートナー契約。そうすれば、ここまで体調を崩すことも無かったはずだ」
「……お前もそれを言うのかよ」
驚く千隼をほったらかしに、賢人は頬を膨らませてから「あのなぁ!」と久々に大声を出した。だが、まだ本調子には遠く、声を出した後に何度か咳き込み、やっと賢人は苦笑いを浮かべる。
「俺は、「命令」だからとか「Sub」だからとかの理由でお前のことを待ってた訳じゃねぇんだよ。そりゃ、お前に会えなくて、命令もご褒美ももらえなくて体調崩して、今も正直全然本調子じゃねぇけどよ。そういうの抜きにして、俺は「Dom」のお前を待ってたんじゃ無くて、「恋人」の一ノ瀬千隼を待ってたんだよ。恋人として、お前のことを、待ってたんだ」
自分で言っていて恥ずかしくなってきたらしく、賢人はそう言ったきり黙り込む。そしてそのまま千隼の胸に顔を埋めた。
「そっか……そっか。恋人として……ふふふ」
「きもい笑い方すんな」
「ごめん、ごめん。そうだよね。ケンは俺の事ダイナミクスとか抜きにして好きだもんね」
そういう千隼の腹を賢人は拳で軽く突く。それに顔を顰めた千隼は溜息を吐いて「明日、病院行こうね」と賢人の頭を撫でた。
「明日も、いてくれるのか?」
「当然。ずっと一緒にいるよ。もう、君をあんな目には遭わせないし……ペットは責任持って面倒見なくちゃいけないんだろう?」
「飼い主としてはもちろんだけど、」
「勿論、恋人としてもだよ」
その言葉に、賢人は心を撫で下ろした。気絶したときよりも遥かに柔らかく、優しい眠気が身体を、頭を包んでいく。頭を撫でられる心地よさに微睡むと、愛おしい声が鼓膜を撫でた。
「おやすみ。俺の可愛い賢人」
飼い主としてでは無く、恋人としてのその言葉。それが、どんなご褒美よりも嬉しくて、温かくて――賢人は静かに目を閉じた。
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