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君のためなら

 うっすらと目を開けて見ると、すぐ側に苑梨の寝顔。  満足そうな、憎いくらいに格好良い顔をしている。  そして自分は。  人には言えない場所がずきずきと痛かった。  いくら何でも酷すぎる。  どうして男の自分が、同じ男である苑梨にこんな事されないといけないんだろう。  意識が戻って最初に考えたのはそんな事だった。  いきなり抱かせろと言われて、半ば脅されるように無理矢理抱かれて。  全く、冗談じゃない。  とりあえず、事の原因であるらしい久住粋は一度シメておかないと気が済まない。  見かけに寄らず凶暴な事を考えながら、樹乃はゆっくりと上半身を起こした。  直後、鈍い痛みが背中を突き抜ける。 「う⋯⋯」  思わず口から呻き声が漏れた。 「ん⋯⋯」  横で眠っていた苑梨が眉をしかめる。  どうやら目を覚ましたらしい。  樹乃は、寝ぼけ眼で自分を見る苑梨をきつい目で睨んだ。 「苑梨、何て事してくれたんですか。いくら僕がマネージャーだと言っても、やっていい事と悪い事がありますよ」  怒気をはらませた低い声でそう言う。  苑梨は樹乃の怒りに気付いて、気まずそうに視線を逸らした。 「う。無理矢理やっちまった事は謝る。ほんとごめん」  やはり悪かったという自覚はあるのか、しゅんとしている。  それを見て樹乃の怒りも少し削がれた。 「久住君に何を言われたかは知りませんけど、今後こんな事はやめて下さいよ?」 「うーん⋯⋯」 「何ですかその煮え切らない返事は」  はっきりと返事をしない苑梨を、樹乃はじとっとした眼差しで睨む。  どこまで反省してるんだか。  そう思ってため息をついた。 「いや、だって俺、なんか樹乃の事好きみたいだし」  苑梨はうつむき加減でぼそぼそと言う。 「何を寝ぼけた事言ってるんです。少し頭を冷やしてください」  しかし樹乃は苑梨の言う事など聞こうとしなかった。 「寝ぼけてなんかないって。ほんとに俺⋯⋯」 「帰ります。明日はオフですからゆっくり休んで下さい。明後日は9時に迎えに来ます」  尚も言い募る苑梨を無視して、ベッドから立つ。  まだずきずきと痛むのに顔をしかめながらも、床に落ちている服を拾って着た。 「ちょっと待てよ。話を聞いてくれって」 「話なんか聞きたくありません」  苑梨が呼びとめるが、樹乃はそう言って振り向く事なく部屋を出る。  何となく、これ以上苑梨の顔を見たくなかった。  やっと自分のマンションに戻り、すぐに留守電をチェックする。  業界仲間からの飲み会の誘いの他に、ライバル関係にあるプロダクションの社長から直々に引き抜きの誘いのメッセージも入っていた。  樹乃を引き抜いてモデルかタレントとしてデビューさせようと考える人間は意外と多いらしく、このメッセージを残した社長以外にも声をかけてくる者が何人かいるのだ。  しかし樹乃は今の会社を辞める気はないし、マネージャーの仕事は自分に合っていると感じていた。  マネージャーをやっているからモデルやタレントがどれだけ大変かもよく知っている。  売れればもちろん、売れなければもっと大変なのだ。  モデルにもタレントにもなる気はなかった。  見た目はよく褒められるが、見た目だけでこの業界を生きていけるほど甘くない事はよくわかっている。  苑梨にあんな目に遭わされても、彼のマネージャーを辞めるという考えは湧かない。  とんでもない事をされたにも関わらず、嫌いにはなれそうになかった。 「はぁ⋯⋯」  背広を脱ぎながら、樹乃は大きくため息をつく。  口の上手い粋の事だから、苑梨も巧みな口術にはめられたに違いない。  飲み会の席で耳にした噂では、粋には男の恋人がいると言う。  完全に信じた訳ではなかったが、本当だとしても不思議ではないと思っている。  実際、この自分でも男に口説かれる事があるのだ。  苑梨のように無理矢理迫って来る者はいなかったのだが、それとなく食事やホテルに誘われる事は多かった。  入浴を済ませて、ベッドに入ってもまだ考えていた。  嫌悪して当然の事をされたのに嫌いになれない。  そして、どうして嫌いになれないのかわからない。  だが、嫌いになれない理由を深く考えたくなかった。  今まで気付かなかったものに気付いてしまいそうで、それが怖かった。 「はあ⋯⋯」  何度目かわからないため息をつく。  知識では知っていたが、男同士での性交渉などこれが初めてだ。  苑梨だって初めての筈だ。  しかし粋の入れ知恵なのか、やり方は知っていたらしい。  まさか自分がその相手にされるとは思わなかったのだが。  ショックは大きかった。しかしそれで落ち込んだりはしない。  好きな女性がいる訳でもないし、細かい事にはこだわらないつもりだ。  だが、怒りはまだあった。  興味本位でこんな行為に及んだ苑梨に対する怒り。  苑梨をけしかけたと思われる粋に対しての怒り。  明日は粋のマネージャーに連絡して、粋のスケジュールを押さえよう。  そしてどうしてノーマルの苑梨をけしかけたりしたのかきっちり吐かせてやろう。  そう考えながら樹乃は眠りについたのだった。  翌日、たまたま粋がオフだと聞いて樹乃は早速粋を呼び出した。  苑梨は公私ともに粋と付き合いが深い。  マネージャーである樹乃も、彼と彼のバンドのメンバーとはわりと親しかった。  そんな粋のスケジュールを知るのは簡単な事だ。  苑梨が作詞した歌に、曲を付けて粋のバンドで発表しようと計画しているらしく、オフの日には打ち合わせがてら会う事も多いのだ。  樹乃が指定したのは、あるテレビ局の1階のロビー。  粋がレギュラーを勤める番組を製作しているテレビ局だ。 「もしかして、苑梨の事?」  樹乃の待つテーブルに着いた途端、粋が訊いてきた。  苑梨が樹乃に何をしたか察したらしい。 「ええ」  樹乃は冷たい眼差しで粋を睨む。 「ごめん。けしかけたのは僕」  粋は反省した顔で素直に謝った。  それを見て樹乃はため息をつく。  一体、どこまで反省しているのだかわかったものではない。 「どうしてそんな事したんです」 「だって苑梨、女には興味なさそうだったし。だったら男とか行けるんじゃないかなって」  樹乃に睨まれて、粋はうつむき加減でそう答えた。 「だからって何も煽る事はないでしょう」  バツが悪そうにしている粋を、樹乃は相変わらず睨んでいる。  周囲の人間が興味津々な眼差しで眺めて行くのも、樹乃の視界には入っていなかった。 「とにかくごめん」  粋はぺこりと頭を下げる。 「謝って済む問題じゃありません」  樹乃は睨んだままだ。 「でも新谷さん、苑梨の事は嫌いじゃないよね?」  粋は上目遣いで樹乃を見つめる。  その気のある男ならこの目で落とされる所だが、相手は樹乃なのでそうはいかなかった。 「嫌いじゃなければああいう事をしてもいいって事にはならないでしょう」  自分にそんな目を使ってどうするんだと思いながらも、怒った表情は崩さない。  確かに粋の言う通り、苑梨の事は嫌いではなかった。  単純に好き嫌いで言うなら、もちろん好きの部類に入る。  しかし、だからといってこういう行為をするしないの感情─恋愛感情の好き嫌いで考えた事は一度もないのだ。 「まさか本気で新谷さんに迫るなんて思ってなくって。ほんとごめんなさいっ。もう絶対に煽ったりしないから」  粋は再び身を縮こまらせて頭を下げる。  樹乃はそれを見て小さくため息をついた。  粋の言葉など信じていない。  無邪気そうな外見とは裏腹に、粋は計算高いところがある。  苑梨ならけしかければ行動を起こすだろうと見越した上で煽ったに決まっているのだ。  そして、その相手にマネージャーである自分を選ぶという事も。 「今後、苑梨を煽るような真似は止めてくださいよ?じゃないと⋯⋯」  樹乃は冷たい声で詰め寄る。 「じゃないと⋯⋯?」  粋は青褪めて樹乃を見つめた。 「各テレビ局に根回ししてこの業界から干しますからね?本気で」  樹乃は青褪める粋に冷たく言い放った。  粋はその冷たい迫力に息を飲む。  プロダクションの社長にしても各局の番組プロデューサーにしても、樹乃を口説こうとしている権力者が意外と多い事は、樹乃本人よりも粋の方が良く知っていた。  樹乃が本気になれば、彼らを利用して本当に粋を芸能界から干す事ができるだろう。 「まあ、冗談ですけどね。でも、今後また苑梨を煽るような事をしたら、あなたのレギュラー番組には一切苑梨を出しませんからね?苑梨が作詞した歌に曲を付けて発表という話も白紙に戻してもらいます」  息を飲む粋を見て、樹乃はぴしゃりと言った。  粋を業界から干すというのは本当にただの脅しで、本気でそんな事ができるとは思っていない。  しかし、粋はそうは思わなかったようだ。 「新谷さん、超怖い⋯⋯」  まだ青褪めたまま樹乃を見つめている。 「そりゃ、怒ってますから」  つぶやく粋を冷たい目で睨みながら、樹乃はあっさりと言った。 「本当にごめんなさいっ」  粋は心底反省した様子で頭を下げる。 「今回は許しますよ。ですが、もう一度言いますけど、今後絶対に苑梨を煽るような事はしないでください。次こんな事したら、本当に、本気で怒りますから」 「わかりましたっ。もう二度としませんっ」  樹乃が再び睨むと、粋は肩を縮めて再び頭を下げた。  このくらい釘を刺しておけば当分は大人しくしているだろう。  粋の様子を見て、樹乃はそう思っていた。  粋も苑梨と同じで懲りない性格だという事はわかっている。  この程度で粋が懲りるとは思っていなかった。 「約束ですよ?」  しかし念のため、ともう一度確認する。  粋は青い顔で必死にこくこくとうなずいた。 「それじゃ、用はそれだけですから。失礼します」  樹乃は冷たい目で粋を見つめてそう言うと椅子から立つ。  そして粋を振り返る事無く、ロビーを出て行った。 「本気で怖かった⋯⋯」  樹乃が見えなくなってやっと息をついた粋は、冷や汗をかきながらそうつぶやいていた。  翌日。  樹乃は苑梨を迎えに来ていた。  どんな顔で会えばいいのか戸惑ったが、とりあえずいつもと変わらない態度でいればいいかと思いながらドアの前に立つ。  合鍵は預かっている。  そしてその合鍵を使って中に入った。  朝8時半。この時間、苑梨は大抵まだ眠っている。  寝室を覗くと、やはり苑梨はまだ眠っていた。  昨夜は酒でも飲んだのか、室内にアルコールの匂いが漂っている。 「苑梨、起きてください。仕事に遅れますよ」  樹乃はベッドに近付き、苑梨の身体を揺すった。 「頭痛い⋯⋯水くれ⋯⋯」  苑梨はだるそうに眉をしかめるが目を開けようとはしない。  随分と酒を飲んだのか、声が掠れているようだ。 「自業自得ですよ。昨夜は散々飲んだんでしょう?」  ため息をつきながら苑梨を睨んだ。  きっと二日酔いだろう。  だるそうに眉をしかめたまま布団を抱きしめている。  仕方なく樹乃はキッチンへ向かった。  苑梨は自炊しないせいか、キッチンは生活感のかけらもない。  使っていないから汚れてもいないガスコンロ。  食器を使わないから洗い物で濡れた跡もないシンク。  冷蔵庫にはミネラルウォーターと酒類以外の物が入っているのを見た事がなかった。  苑梨に水を飲ませるため、戸棚からコップを取り出す。  食器も、必要最小限のものしか置いていなかった。  その必要最小限の食器さえも使った形跡はない。  ミネラルウォーターはペットボトルから直接飲むのだろう。  コップにそれを注ぎながら、半ば感心してしまった。  本当に生活感のない部屋だと思う。  一人暮らしとは言っても、ここまでひどいのはやはり特殊な仕事をしているからなのか、それとも苑梨が不精なだけなのか。  樹乃も一人暮らしだが、ここまでひどくなかった。  得意とまではいかないまでも、大体の家事はこなせる。  ミネラルウォーターを入れたコップを持って寝室へ戻った。 「苑梨、水ですよ」  そう言ってコップを差し出す。  苑梨は目を開けるとゆっくり上半身を起こしてコップを受け取った。  顔はまだ眠たそうに歪んでいる。 「サンキュ」  苑梨は短くそう言うと、コップを口に運んだ。 「急いで洗面を済ませてください。外で待ってます」  樹乃はそう言い残して寝室を出て行く。  車の脇に立って待っていると、頭痛に顔をしかめた苑梨が出て来た。  後部座席のドアを開け、苑梨を乗せる。  そして自分は運転席に乗ると、車を発進させた。  後部座席でまだ顔をしかめている苑梨に、樹乃がコンビニの袋を渡す。  パンとおにぎり、そしてお茶のパックが入っていた。  毎日朝寝坊する苑梨の事を考え、収録が午前中にある時はいつも樹乃がコンビニで朝食を買って来る。  経費ではなく、樹乃の自腹でだ。  苑梨はこれにはいつも感心していた。  前のマネージャーはここまでしてくれなかったからだ。 「なあ、まだ怒ってる?」  樹乃の機嫌を伺うように苑梨は訊いた。 「もう怒ってませんよ。ただ、あんな事はもうしないでくださいよ?」 「⋯⋯」 「どうしてそこで黙るんですか」  樹乃は黙り込んだ苑梨をミラー越しに睨む。 「俺、ほんとに樹乃の事好きなんだよ。信じてくれよ」  苑梨はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとそう言った。  今度は樹乃が黙り込む。  苑梨がどこまで本気で言っているのかわからない。  今後もああいった行為の相手をさせたくて言っているだけなのか、本当に自分の事を好きだから言っているのか。 「苑梨、しばらく頭を冷やしてください。興味本位からあんな事をしたせいで、自分の気持ちがわかってないんじゃないですか?」 「何だよそれ。信じないのかよ」  苑梨は口を尖らせた。  樹乃はそれをミラー越しにちらりと見てから視線を戻す。 「信じられる訳ないでしょう。とにかく、少し頭を冷やしてください」 「俺、かなり本気だぞ?信じてくれよ」  前を見たまま言う樹乃に、苑梨は尚も言い募った。 「だから、しばらく頭を冷やしてください」  樹乃は取り合おうとしない。  今、苑梨の言葉を信じる訳にはいかなかった。  苑梨の本心がわからないまま、自分の気持ちを認めてしまうのが怖いのだ。  やがて車は仕事場であるテレビ局の駐車場へ到着した。  今日はバラエティー系のトーク番組の収録だった。  ルーレットで話すテーマを決めて、それに沿った内容の話をするという単純な番組だ。  その日のゲストによって、ルーレットのテーマを視聴者から募集していたりする。  どんなテーマがあるのかは、番組が始まるまで判らない。  樹乃はスタジオの隅の方から収録の様子を眺めている。  苑梨はやはり人気があるようで、番組観覧の女性客から黄色い声援が上がっていた。  番組の進行に従って、苑梨がルーレットを回す番になった。  そして、ルーレットが示したのは「今ハマっている事」。 「さあ、苑梨君のテーマは“今ハマっている事”ですね。何かハマっている事がありますか?」  司会進行役のタレントが苑梨に質問する。 「えっと、今は作詞にハマってるんですよ」  苑梨はにこやかに答えた。 「へえ。それはどんな歌ですか?」  いかにも興味津々といった顔で司会のタレントが訊く。 「その時の気持ちをそのまま詞にしてます。昨夜も勢いで書いたんですよ」  苑梨は無難な笑みを浮かべていた。  昨夜はアルコールを飲みながら徹夜でそんな事をしていたのか、と樹乃はため息をつく。 「誰かに曲を付けてもらったり、自分で歌ったりはしないんですか?」 「音痴だから自分で歌う気はないんですけど、バンドやってる友達がいるんで」 「ああ、久住君ですね。公私共に仲が良いそうですね」 「はい。それで、彼のバンドに詞を提供する事になってるんですよ」 「そうなんですか~。どんな歌になるか楽しみですね~」 「ええ。近いうちに発表があると思うんで、楽しみにしててください」  苑梨は得意のテレビ用スマイルで司会のタレントを見た。  人の良さそうな中年の男性タレントは、やはり人の良さそうな笑みを浮かべて応えていた。  何事もなく進む収録に、樹乃はほっとしてスタジオ隅の溜まりへ移動する。  収録直前のタレント達や番組アシスタントが控えるスペースだ。  椅子のひとつに腰掛けると、この後のスケジュールをもう一度確認した。  雑誌の取材が数件入っているだけだ。  人気タレントとは思えない仕事量の少なさだった。  樹乃は苑梨を変わり者だと思っている。  せっかく人気が急上昇しているのに、売れる事にもそれによる収入の増加にも興味がないようなのだ。  必要な収入を得られれば、無理に仕事を増やす必要はないと思っているらしい。  だから彼が今ハマっていると言っている作詞にしても、それで収入を得るつもりはない。  人気が全てと言っても過言ではない職種なのに、その欲のなさは確かに変わり者と言えるだろう。  変わり者で言えば、上司であるプロダクションの社長も変わり者と言える。  人気タレントにはどんどん仕事をさせるのが普通なのだ。  それを社長は苑梨の好きにさせている。 「みんな変わり者ばかりだ⋯⋯」  そうつぶやいて、樹乃は妙に納得した。  しかし、そんな変わり者のマネージャーでいる事にある種の生きがいを感じている樹乃も、充分に変わり者かも知れないのだが。  そして、収録は何事もなく無事に終了した。  徹夜で苑梨が書いたと言う歌は、誰にも見せないまま粋の手に渡ったらしい。  どんな詞なのか、もちろん樹乃も知らなかった。  番組では「その時の気持ちをそのまま詞にしている」と言っていたが、アルコールが入った状態でどんな歌を書けると言うのか。  とんでもない歌にならなければいいが、と樹乃は少し不安になった。  そのうち曲が付いて、粋のバンドのライブで発表されるだろう。  バラエティー番組で作詞の事を話して以来、苑梨は樹乃に対してかなり真面目に接するようになっていた。  今までは樹乃が迎えに行くまで熟睡していたのに、最近ではきちんと起きて洗面を済ませて待っている。  樹乃に誠意を示しているつもりらしい。  しかし、樹乃のほうは頑なに態度を変えなかった。  冷たく接する事はなかったが、例の一件についてはなかったものとして対応している。  態度は変えなかったが、樹乃の心理に多少の変化は起こっていた。      久し振りにオフになり、樹乃はひとり、スケジュール調整のため事務所に出ていた。  最近の苑梨は以前よりも仕事を選り好みしなくなった。  お陰で、樹乃も随分と楽に仕事ができる。  相変わらず過密スケジュールだったが、ひと月に1回はオフの日を取る事ができた。  オフの時、苑梨は大体は粋と共に歌作りをしているようだ。  頻繁にメールでやり取りをして、曲や詞について色々と意見交換をしている。  樹乃はその事には一切口出しをしなかった。  これは苑梨がプライベートでやっている事であって、マネージャーの自分が介入する部分はないからだ。 「はあ⋯⋯」  自分のデスクで大きなため息をつく。  仕事はハードだが、それほど苦しくない。  やりがいのある充実した内容の仕事だった。  しかし、苑梨に無理矢理抱かれてから、どうも胸が苦しい。  あんな事をされたが、何故か嫌いにはなれなかった。  苑梨が本気かどうかわからない今は、彼の気持ちに応えてやる勇気もない。  だがきっぱりと断るのも気が引けた。  どちらを選んでもこれまでの関係が壊れてしまう気がして怖いのだ。  これまで築いてきた関係が壊れるのは嫌だった。  壊さないためには、今のような危なっかしい状態を維持しなければならない。  それがいつまで続くのか、考えただけでも憂鬱になってしまう。  自分の情けない部分を思いがけない事で自覚してしまい、再びため息がもれてしまった。  苑梨が本当に本気で自分の事を好きだと言う保証はない。  真面目に応えてから、苑梨が本気ではないと知らされたら。  そんな事をぐるぐると考えてしまって、ついつい悩んでしまう。  傷つくのが怖いから、苑梨の気持ちに応える勇気が出ない。  苑梨の気持ちを、信じる勇気がない。  信じて裏切られるのが怖いのだ。  どうして怖いのか、自分でもわからない。  今までだって、誰かを信じて裏切られた事は何度もある。  その度に立ち直って、強くなってきたつもりだ。  それなのに、苑梨に裏切られたら立ち直れない気がした。  苑梨には裏切られたくない。  マネージャーとしてではなく、ひとりの人間として。  裏切られないためには、苑梨の気持ちを信じないのがいい。  苑梨の気持ちに応えないでいれば、裏切られる事はないだろう。  だが、それでいいのだろうか。  ずっとこれまで通りの関係でいられるだろうか。  苑梨がそれを許してくれるかどうかわからない。 「情けない⋯⋯」  樹乃はつぶやいて立ち上がった。  スケジュール調整は終わっている。  もう用事はなかった。  会社を出ようとしたところで、携帯電話が鳴る。  電話は粋からのものだった。  苑梨が作詞した歌が完成したので、今夜ゲリラ的なライブをすると言う。  客の反応を見てアレンジなどを変えていくという事だ。  もちろん、苑梨もゲストボーカルで出演するらしい。  きっと苑梨がオフの日にライブの日を合わせたのだろう。  時間と場所を告げられて電話は終了した。 「誰からだったんだい?」  携帯をポケットにしまった後で、背後から声がかかる。  振り向くと、樹乃と同じくマネージャーの仕事をしている石川がいた。  30代半ばくらいの男で、売り出し中のアイドルのマネージャーを務めている。  樹乃の先輩にあたる人物だ。 「ああ、久住君からですよ。ライブをやるから見に来てくれって」 「へえ。苑梨君と仲良しだったよね、彼」  石川は目を細めて樹乃を見た。  樹乃はこの男の事が苦手だった。  何か企んでいるような感じがして、彼に見つめられるとどうも居心地が悪い。 「今、一緒に歌を作ってるんですよ。今日完成したらしくて」 「ライブは夜から?」 「ええ」 「それじゃ、夜までは時間がある?」 「あると言えばありますけど」  どうして石川がそんな事を訊いてくるのかわからず、樹乃は首を傾げた。 「それならこれから食事でもどうだい」  石川はそう言って時計を見た。  もうすぐ昼だ。 「いえ、申し訳ないんですがちょっと一旦帰りたいので」  樹乃はそう言って頭を下げる。  石川と食事だなんてとんでもない事だった。 「そうか。それは残念」  つまらないといった口調で石川は肩をすくめる。  どことなくきざな仕草も、樹乃は好きになれなかった。  だが、性格はともかく石川は仕事ができる。  仕事振りは見習うべき部分が多いのだが、人間的にはあまり好きになれない。  しかし石川の方は樹乃を気に入っているのか、ちょこちょこ食事に誘って来る。  いつも断ってばかりもいられないので、時々は一緒に食事をするのだが。  もう一度石川にお詫びを言うと、樹乃は事務所を出た。  数時間後。  昼食を摂り、買い物やその他雑用を済ませて樹乃は帰宅した。  ライブは夜だ。  まだ数時間の余裕がある。  部屋の掃除でもしようかと思っていたのだが、いざ帰って来ると何もする気になれなかった。  スーツからルームウェアに着替えると、そのままベッドに横になる。  考えるのはやはり苑梨の事ばかりだった。  しかし、いくら考えても胸が苦しいのは変わらない。  なにかもやもやとした不安な気持ちが胸の中で渦巻いている。 「考えても仕方ないんだけどね⋯⋯」  わかってはいるのだが、どうしても勇気が湧かない。  うだうだと考えている間も、時間は容赦なく過ぎていった。 「ん⋯⋯あれ?」  どうやら考え事をしながら眠ってしまっていたらしい。  時計は午後6時を少し回った所だった。  ライブは7時から始まる。  今すぐ出て、丁度間に合うくらいの時間だ。  樹乃はすぐに外出の支度を始めた。  まだ迷いはあったが、ライブハウスに着いてから入るかどうかを決めても遅くはないだろう。  仕事ではないのでスーツは着ない。  白いコットンシャツに紺のコットンジャケット、ボトムスはオフホワイトの麻混パンツという軽装だ。  小ぶりのリュックに財布や携帯電話を入れ、樹乃はマンションを出た。  苑梨は一体、どんな歌を書いたと言うのだろう。  ゲリラライブをするほど良い歌になったのか。  自分に聴かせたい歌とは。  ある想像が浮かんだが、それはあまりにも容易に思いつく事だった。  歌で愛の告白。  トレンディドラマでありがちな展開だ。 「まさかね」  呟いてから、気を取り直して足を運んだ。  そして7時前、ようやくライブハウスに到着した。  仕事で苑梨を迎えに行く時以外、樹乃は車を運転しない。  自分はタレントではないので、1人で行動する時は公共の交通手段を使う方が勝手が良いのだ。  ライブハウスの前は、ゲリラライブの噂を聞いてやって来たファンが集まって賑やかだった。  少し離れた場所で、樹乃は様子を伺う事にする。  この期に及んでもまだ迷っていた。  苑梨の歌を聴いて、どうなると言うのだろう。  聴けば、苑梨を信じる勇気が湧くだろうか。  信じる事よりも、裏切られる事の方が怖い。  だから信じる勇気が湧かない。  裏切られるくらいなら、今の曖昧な関係でいた方がましだと思った。  それがいつか壊れる関係だとしても。 「新谷さん。来てくれたんだ」  考え事をしていると、背後で嬉しそうな声がした。 「久住君。どうしたんですか、その格好」  振り向くと、そこにはグレーの作業服を着て作業帽を被った粋が立っていた。  ぱっと見ただけでは粋だとはわからない。  変装しているのだろうか。 「ファンの子たちにバレないようにね」  粋は楽しげにそう言って、集まっているファンをちらりと見た。  樹乃もちらりと見た後、粋に向き直る。  粋は思いの外真面目な顔で樹乃を見てきた。 「いつだか、苑梨が夜中に電話してきたんだ。それでね、僕に煽られたとは言え、新谷さんを傷つけちゃった事、すごく後悔してるって言うんだ」  そして唐突に話し始める。  樹乃は複雑な表情で粋の顔を見た。 「いつもクールで余裕綽々なあの苑梨がね、珍しく弱気なんだ。ずっと“樹乃に嫌われたらどうしよう”ってそればかり気にしてるの」  粋はそう言ってくすりと笑う。  いつもクールな苑梨が弱気な所を初めて見たのだろう。  そんな苑梨の事を話す粋は少し楽しそうな笑みを浮かべている。 「苑梨が⋯⋯」 「それでね、どうしようって言うから、歌でも書けばって提案したんだ。それで酒の勢いで苑梨が書き殴った詩を手直ししてアレンジして完成したのが今日お披露目の“君のためなら”」 「君のためなら⋯⋯」 「そう。僕が歌うから歌詞の中の“俺”を“僕”に変えてるけど、間違いなく苑梨から新谷さんへのメッセージだよ。苑梨ね、新谷さんがマネージャーになってから、本当に活き活きと仕事するようになった。プライベートで会った時なんていつも“樹乃が”って新谷さんの事ばかり話すんだよね。自覚なかったみたいだけど、苑梨は新谷さんの事、好きなんだなって思った」 「⋯⋯」  粋の真面目な言葉に、樹乃はうつむいた。 「今のままでいいの?このままだと、2人の関係壊れちゃうよ。苑梨に気持ちを自覚させるためとは言え、煽った僕が言うのも変な話かも知れないけど」 「⋯⋯」 「新谷さんも苦しんでるみたいだけど、苑梨も苦しんでるんだよ。イエスでもノーでも、どっちでもいいんだ。苑梨の気持ちに応えてあげて。気持ちに決着つけなきゃ駄目だと思う」 「⋯⋯そうですね。答えを先送りにしてばかりもいられませんね」 「じゃあ、ついて来て。特等席が用意してあるから」 「いえ、後ろの方でいいです」  粋が手招きするのを断って、樹乃はライブハウスの入り口を見た。  もう開場されていて、集まっていたファンの姿も見えなくなっている。 「最後まで見なくてもいいから、苑梨の歌だけでも聴いて。歌の中の“僕”の気持ちに嘘はないから」 「ええ」  粋の言葉にうなずくと、樹乃はライブハウスの入り口に向かった。  安心したような笑みを浮かべた粋は、裏口から中へ入る。  それから数分後、ライブは始まった。  樹乃は出入り口に近い片隅でライブの舞台を見ていた。  客の熱気でホールは暑い。  メンバーたちへの声援も煩かった。  粋のバンドのメンバーがそれぞれのポジションに着き、ゲストボーカルとして苑梨が現れる。  客の声が一層煩くなった。  苑梨はふと客席の後方を見る。  樹乃の方からは、苑梨がどこを見たのかわからなかった。  しかし樹乃が来ている事は粋から聞いているだろう。 「ゲストの槙原苑梨君です。今日発表する曲の詩は、苑梨君が書いてくれたんだ。かなりの自信作みたいだから、僕も気合入れて曲を作ったんだ。みんな聴いてね」  粋が簡単に苑梨と新曲の事を紹介した。  そしてすぐに演奏をスタンバイすると、耳を突き刺すような音量で演奏が始まった。  しかし曲自体はミドルテンポなものだ。  イントロが終わり、苑梨と粋のデュエットで歌が始まる。  傷つけてから  自分の気持ちに気付くなんて  僕は何てバカだろう  好きになってくれなんて  そんな事言う資格ないけど  僕の気持ちをなかった事にしないで  どんな答えも受け止めるから  「NO」でもこれまでの関係でいたいよ  君が許してくれるなら  「YES」ならどうか僕に口付けを  僕の事が嫌いになったなら  君の前から消えるから  僕の気持ちをなかった事にしないで  どんな答えも受け止めるから  これだけは信じて  僕は本気で君が好き 「苑梨⋯⋯」  樹乃は苑梨の歌う姿を見つめながら、小さくつぶやいた。  歌の中の“僕”の気持ちに嘘はないと言うのなら。  苑梨の気持ちにどう応えるか、樹乃の気持ちは決まりつつあった。  真面目な顔で歌う苑梨の、樹乃に対する気持ちは本当に真剣なのだろう。  真剣な思いには、真剣に応えなければならない。  例えそれが苑梨や自分を傷つける結果を招いたとしても。  だが樹乃は、苑梨を傷つけたくなかったし、自分も傷つきたくなかった。  苑梨を傷つけず、自分も傷つかないためにはどうすれば良いのか。 「真面目に考えて応えないとね⋯⋯」  樹乃は苑梨の歌を背中に聴きながら出口に向かった。  ライブハウスを出ると、そこには後から噂を聞きつけて来たファンやマスコミの連中が集まっていた。  樹乃はカメラから隠れるようにその場を離れる。  そして真っ直ぐマンションへ帰った。  翌日。  樹乃はいつものように苑梨を迎えに行った。  今日もちゃんと起きて待っているだろうか。  樹乃がどんな返事をするのか、不安げにしているのだろうか。  どんな顔で自分を見てくるだろうかと想像しながら苑梨の部屋に向かう。  エレベーターを待つ間も、エレベーターに乗ってからも、樹乃の頭は苑梨の事で一杯だった。  気付くのを恐れていた気持ちに、半ば無理やり気付いてしまった。  粋のおかげで、気付かざるを得なくなってしまった。  この責任は、全て苑梨に取ってもらうしかない。  考えながら、苑梨の部屋の前まで来た。  合鍵で開ける前に、チャイムを鳴らしてみる。  予想通り起きていたようで、苑梨はすぐにドアを開けた。 「おはよう」  苑梨は少し不安げな顔だったが、それでも笑顔で挨拶した。 「おはようございます。スケジュールの確認をしたいのでちょっと上がらせてもらいます」  樹乃はそう言うと玄関に踏み込んだ。  背後でドアを閉める。 「昨日のライブ、来てたんだろ?」 「ええ。苑梨の歌、聞かせてもらいました」 「それで⋯⋯どう?」 「自分で言うだけあって、あまり歌は得意じゃなさそうですね」  樹乃はそう言ってくすくすと笑った。  確かに真面目に歌ってはいたが、粋のフォローがなければまともに音程を保っていられなかった筈だ。  もちろん、苑梨がそんな事を聞きたい訳ではないという事はわかっているのだが。 「そうじゃなくて。俺が聞きたいのは樹乃の気持ちだよ。俺の気持ちはあの歌の通りだ。樹乃の事、本気で好きだ。今度は樹乃の気持ちを聞く番だ」 「僕の気持ちは⋯⋯」  樹乃は苑梨の服に手を伸ばした。  襟首を掴み、自分に引き寄せる。 「わっ」  苑梨はバランスを崩してよろめいた。  樹乃の顔がくっつきそうなくらいに近付く。  そして、近付いた苑梨に、樹乃は目を閉じてキスしていた。  唇を軽く押し当てて、すぐに離す。 「“YESなら口付けを”⋯⋯でしたよね」  まだ状況が飲み込めない苑梨を見て、樹乃はにっこりと笑った。 「樹乃っ」  我に返った苑梨は、樹乃の体をきつく抱きしめる。 「ちょっ、苑梨、苦し⋯っ」  樹乃は突然強く抱きしめられて目を白黒させた。 「すっげー嬉しい」 「苑梨⋯⋯」 「もう絶対傷つけないから」 「ええ。裏切ったらただじゃおきませんからね。僕が気付かなかった僕の気持ちに気付かせてくれた責任はきちんと取ってもらいますよ」  真面目な顔の苑梨を見て、樹乃は意地悪な笑みを浮かべた。 「責任取るよ。樹乃のためなら何だってしたい気分だからな」 「それじゃ、今日の仕事きっちり責任持ってこなしてくださいね」  再び抱きしめようとした苑梨をひらりとかわすと、樹乃はそう言って逃げて行く。 「おい、何だよそれ。ちょっと待てよ」  苑梨はぶつぶつと文句を言いながらも、この上ない嬉しげな笑みを浮かべてその後を追った。  壊れかけていた関係は、新しい形となって2人の間に築かれた。  ドラマやバラエティーだけでなく、映画界でも活躍し始めた苑梨の傍には、見かけに寄らずしたたかな敏腕美人マネージャーの姿が常にあったと言う。  終。

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