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最終話

緊張したり不安な事があると、左腕に嵌めた時計を触ってしまうのは、この五年の間に染み付いた癖だ。 以前はあ上がり症でもなければ、人見知りでもなかったはずなのに、いつのまにかなるべく他人との接触を避けるようになっていた。 衝動にまかせ無理矢理 他人の体に触れてしまった罪悪感が人と距離を置くようにさせていた。 あの晩、俺の裏切りにショックを受けたであろう彼を置き去りに、初雪の街を逃げ帰った。己のしてしまった事におののき、頑なに彼を避け続け、彼が日本を去るその日も、独り善がりに部屋に籠っていた。 「暁、ユウリ行っちゃったよ」 あれからユウリは、何度も電話やメールをくれたけれど、俺は頑なに彼を避けた。彼に向き合って非難される事も、彼と離れ離れになる現実を直視する事もしたくなかったんだ。 「これ、クリスマスプレゼントだって。置いとくから」 日本を去るギリギリまで、ユウリは俺に会おうとしてくれた。酷い仕打ちをした俺を、許そうと考えていたのかもしれない。 彼からのプレゼントを受け取る資格はないと思ったけれど、ユウリに繋がる最後のよすがだと、俺はその包みを開いた。 『この体は離れても、同じ時を過ごしている。また、同じ時を刻むその日を楽しみにしているよ』 手書きのカードが添えられた腕時計が指し示すのは、イギリス時間…… ユウリが、俺をどう思っていてくれたか、解りすぎるプレゼントだった。 「ユウリ、ごめん。ごめんなさい…」 溢れだす涙を堪える事も出来ず、俺は謝り続けていた。 ※ ※ ※ 「卒業おめでとう」 「来なくていいって言ったのに」 講堂から出てきた俺に一葉が駆け寄ってくる。 「来るわよ。今日はあたしにとっても卒業式みたいなもんだし」 「ハァ?お前はとっくに短大卒業しただろーが」 相変わらず訳の解らない事を言い出す幼馴染みとは、今でも仲良くやっている。俺が避けようが無視しようが、一葉は常に側に居てくれた。 「それにさぁ、ここまで守って来たのに、最後の最後に変な奴に持ってかれるのも嫌だなって思うし」 「だから、意味わかんねーって」 一葉と会話が噛み合わないのは、いつもの事だ。また、何か妄想してるんだろう。妄想が高じてBL作家になった奴だし。 一葉の腐った妄想に付き合ってる暇もないので、俺は正門目指して歩き出した。いつもなら最寄り駅方面に近い東側の通用門から出入りしていたが、最後ぐらいは正門を通ろうと思った。 正門付近には、卒業を祝う人溜まりが幾つも出来ている。それを避けつつ正門を潜った俺は、振り返り一礼した。学生からの卒業、これからは一人の大人として生きていく。 そんな俺の様子を笑顔で見ていた一葉の表情が不意に険しくなる。何があったんだと一葉の視線の先を確認し、俺は驚きの声をあげた。 「桂木先輩」 「やぁ、暁くん。卒業おめでとう」 そう言って近づいてくるその人は、この大学の卒業生で俺の二つ先輩にあたる。この大学生活で友人と呼べるのは何人かしかいなかったが、サークルで知り合った桂木先輩とは、卒業後も連絡を取り合う程には親しくしてもらっていた。 まだ学生の頃に起業し、卒業後は小さいながらも東京にオフィスを構えたため、地元にはなかなか帰って来られないはずなんだけれど。 「ありがとうございます。でも、先輩、仕事忙しいって言ってませんでした?」 「そう、とっても、忙しいよ。だから、暁くんを迎えに来たんだよ」 「えっ?」 「あれ、覚えてない?卒業したら僕の会社に来てねって、お願いしたよね」 そう言えば、桂木先輩が卒業する間際、サークルの飲み会でそんな事を言われたっけ。 「本気だったんですか? 俺、冗談だと思ってました」 「酷いな、僕は本気だよ。じゃぁ、もう一つのお願いも冗談だと思ってた?」 そうだ、あの時は『暁くんが仕事だけじゃなく、個人的にも僕の側に居てくれたら嬉しいんだけど』って事も言ってて、俺は冗談だと思ってたから『なんか口説かれてるみたいですね』って返したんだ。 「あー、その」 「まぁ、そっちの返事は今日じゃなくてもいいよ。仕事の方は出来ればいい返事を貰いたい。まだまだ小さい会社で、不安に思うかもしれないけど、君を後悔させるような事態にはしないから」 就職先も決まっているし、先輩の気持ちを受け入れる事も出来ないと思うのに、何故か断りきれない自分がいる。 それって、先輩に対して嫌われたくないって思ってるからだよな。って事は俺は先輩の事が好きなのか? 突然の展開にうまく頭が回らない。そんなプチパニック中の俺の代わりに、力強い声が先輩の申し出を断っていた。 「申し訳ないが、暁の答えはNOだ」 その声に振り向いた俺の目の前にいたのは…誰? 見上げた先にある顔は、彫りの深い整った顔立ちだった。ダークブラウンの髪と瞳。意思の強そうな眼差しに、忍耐強さを表しているかのような四角い顎。薄い唇は優しく笑うことが出来るのだろうかと心配に成る程ひき結ばれている。 どこからどうみても外国人紳士そのものの、その人は明らかに機嫌が悪そうだった。 「わが社の新入社員を引き抜かれては困りますね」 「えっ、わが社って、あなたは?」 「失礼、私は暁の上司で…」 俺そっちのけで、名刺交換が始まったのを、呆気に取られて俺は見ていた。 何が起きているんだ。俺の上司って言うけど、この人は、まさか違うよな。だって、あまりにも見た目が違う。俺よりでかいし、髪の色や目の色も彼の金色がかった柔らかい栗色とは全く違うではないか。 「暁、行くよ」 俺が呆然としている間に、桂木先輩との話がついたのか、彼は俺の腕を取って歩き始める。何故か抵抗する事なく、彼に従った俺だったけど、乗せられたリムジンが動き出したところで、はっと気がついた。 「待って、一葉が」 「一葉なら彼が付いていますので、大丈夫です」 慌てて窓の外を見ると、一葉の隣に見覚えのある男性が立っていた。 一葉は笑顔で右手を振っていたが、その左手は隣に立つ彼の手を握っていた。 「あれ、マークだよね」 「ええ」 俺の呟きに答えが返る。その答えが正解なら、その答えをくれた人は、 「ユウリ…なの」 声が震えた。正解だと解っていても、答えを聞くのが怖かった。 「うん。ユウリだよ、暁」 膝の上で震えていた俺の手を、彼がそっと握った。 「嘘だ。違うユウリじゃない」 その手を慌てて振り払った俺は、彼から距離を取った。 「どうして?」 そう尋ねながら、俺が取った距離を彼は詰めてくる。 「だって、髪も瞳も色が違うし、俺よりでっかいし」 ドアにくっつくまで距離を取った俺に呆れたのか、彼が大きなため息をついた。 「イギリスに戻ってから、遅い成長期が来たようで背が伸びると同時に、容姿も祖父に近付きました。思春期に容姿が様変わりする事はよく有るんですが…」 そこまで言って、彼は俺が取った距離を一気に詰めて来た。殆ど顔がくっつきそうな距離で、彼が聞いてくる。 「今の私の姿は嫌いですか?」 耳元で吐息を吹き掛けるようにして囁かれる。 身震いしつつ首を振れば、ドアから引き剥がすように、腕の中に囲い込まれた。 「ユウリ」 抱き締められたまま彼の名を呼んだ。 「ユウリ、ユウリ」 いつの間にか逞しくなっている胸に頬擦りした。 「ごめんね、ごめんなさい」 あの晩、己の思い込みと、離れ離れになる事に耐えられず、自ら彼との関係を断ち切ろうとした事を。自分本意な欲望で、彼を汚してしまった事を俺は詫びていた。 「謝らないで。謝る必要はないんだよ、暁。あの晩の暁がしてくれた、あの行為は私にとって嬉しいものだったんだから」 「えっ、」 「あの頃も今も、私は暁を愛しているからね」 「ユウリぃ」 ユウリの首に腕を回して抱き付いた。これまで抱いてきた罪悪感を洗い流すように涙が溢れだした。それが、再び巡り会えたユウリと同じ気持ちだったという喜びの涙に変わる。 「ユウリ、これからは一緒に居られる?」 「そうなるように、準備してきたから大丈夫。というより、暁が嫌がっても側にいるつもりだからね」 そう言って笑うユウリの顔が自信に溢れていた。きっと離れ離れになっていた間も、ユウリは同じ刻を過ごせるよう努力してくれたんだろう。 「ユウリ、好きだよ」 しゃくりあげながら、しがみついた俺をユウリが膝の上に引き上げる。 大きな手のひらで、宥めるように背中をさすってくれる。 「何だか俺、甘えん坊の子供みたいだ」 照れ臭くて呟いた俺に「甘えるのは構わないけど、子供になるのは止めてくださいね」とユウリが笑った。 どうして子供じゃ駄目なのかと聞いた俺に、ユウリは笑いながら口付けてきた。 「今から、あの晩、暁にしたくて出来なかった事をするつもりですからね」 微かに離れた唇の先で、ユウリがそう告げるのを俺は夢見心地で聞いていた。 あの日、俺の初恋は終わった、はずだった。 それでも、想い続けた日々があった。 そうして再び会えた今、この恋が確かな絆で結び付いていたと知った。 切ない独り善がりの初恋は終り、これからは二人で歩んで行く、そんな恋が始まる。 また、新しい初恋を君と一緒に ーーー完ーーー

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