1 / 3
No1
「ねぇ、ちいちゃん。ご飯、もっとよそってよ!」
「あ、足りなかった?」
子供の成長って早いな…。
ついこの間までミルクを飲んでたこの子が、こんなに大きくなるなんて…
人間って強い生き物なんだな…。
朝の忙しい時間。
俺は毎日この子の世話を焼く。
目の前で俺からご飯を受け取り、モリモリ食べるこの子は俺の姉さんの子供…。
名前は鼓太郎(こたろう)、年は3歳。男の子だ。
この子が産まれたばかりの時に姉は病気で死んで、それから俺と姉さんの旦那とで育てている。
「千景、おはようございます…」
「あ、おはようございます。朝ご飯食べちゃってください。」
ボサボサ頭で現れたこの人は姉さんの旦那さん。
名前は太弦(たつる)、年は35歳。作曲家だ。
俺はこの人を旦那さん、と呼んでる。だって、姉さんの旦那さんだから。
姉さんはピアニストだったから、ここは音楽一家なのかな…
「ちいちゃん、こた、保育園行きたくなぁい…。こたと遊ぼ?ちいちゃん、こたと遊ぼ?」
俺の足元にしがみついて駄々をこねる…またか…
鼓太郎は最近、保育園イヤイヤ期になってしまい、毎朝こうやつってゴネて泣くんだ。
「こた、パパと後で行く?」
旦那さんがそう言うと鼓太郎は嬉しそうに、うん。と頷いた。
「じゃあ、俺、仕事に行きますね。鼓太郎をよろしく。」
「ちいちゃん、やだ!行かないで…!」
リュックを背負うと鼓太郎がまた足元にしがみついてゴネる。
俺はしゃがんで鼓太郎の頬を優しく包んで持ち上げる。
「こた?ちいちゃん、お仕事に行く時間なんだ。また帰ったら一緒に遊ぼ?今日は、お迎えに行ったら公園に寄って、こたの好きなブランコしてあげる。だから、それまでお利口に出来るかな?」
首を傾げて微笑んで聞くと、鼓太郎は少し考えて、うん。と言って頷いた。可愛いな。
「千景、ごめんね。ありがとう。」
「じゃあ、行ってきます。」
旦那さんはそこそこ稼ぐ作曲家だ。
CMソングから交響曲まで…彼の仕事は幅を持って絶えない。部屋に篭って作業するから、在宅とはいえ鼓太郎は保育園に行く事になってる。
俺は旦那さんとは敬語で話す。
年上と言う事もあるが、1番は一線を超えないためだ。同居する時そう約束した。
それが俺達のルールだ。
「今日のご飯、何にしようかな…」
そんな事考えるようになって何年経つかな…。20歳の男が頭を悩ませる内容じゃ無いよな…
嫌な訳じゃ無い…仕方ないから…
姉さんが亡くなって、俺が世話しなかったら…鼓太郎は誰が育てただろうか。
あんなに小さくて脆い生き物を任せられない。
仕方ないんだ…
気持ちの良い風を感じて上を見上げると、もう春めいてる3月の空。
鼓太郎はちゃんと行けたのかな…心配だ。
「店長、おはよう。」
「千景、おはよう。今日も可愛いよ!」
桜並木の通りにあるカフェ…ここが俺の働く場所。店長は男だけど、俺の事を好きだと言って毎日可愛いと言う。最初は嫌だったが、もう慣れた。
「今日はいつもより早いね。こたちゃん保育園行くの大丈夫になったの?」
「ん~、今日は珍しく旦那さんが連れて行くって言い出したから、お任せして来ちゃったんだ。」
「ふぅん…まぁ、あんまり甘やかすなよ。」
「こたを?」
「旦那さんだよ。あの人の子供なんだからさ、お前がそんなに自分を犠牲にするなって事!おいで!千景!ギュってしてあげるからっ!」
全く…やれやれだ。
店の掃除をして開店準備をする。
犠牲になる…か、嫌な言葉だな。
店のテラスを覗くお客さんが来た。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
俺は柔らかい笑顔で案内した。
仕事を終えて鼓太郎のお迎えに保育園へ行く。
「先生、鼓太郎のお迎えに来ました。」
「あ!こたちゃんの?あの、今日はお休みするって連絡があって…」
「……あぁ、すいません、わかりました。ありがとうございます。失礼します。」
あぁ…
行かなかったんだ…
行けなかったんだ…
俺は急いで家に帰った。
「ウエーーーン!!」
やっぱり…
家の前に着くと鼓太郎の泣き声が外まで響いて通行人を驚かせている。
玄関を開けて中に入る。
「コタ!」
俺が呼ぶと泣き止んで飛んでくる。
可哀想に…
顔がぐちゃぐちゃになるまで泣いて、泣きすぎて吐いてしまった跡が床にある…
「もう、大丈夫…。こた、大丈夫。よしよし、よしよし…」
俺はこたを抱っこしながらあやした。
しばらく揺らしていると、泣き疲れたのか鼓太郎は眠ってしまった。
こんなに汗をかいて泣いて怒ってたんだね…。
それでも来てくれなかったんだね…。可哀想に。
俺は鼓太郎をお昼寝布団に寝かせると、吐いたものを片付けて、中庭の見える窓を開けた。
夕方の涼しい風が室内に入って、こたの頬を撫でる。
そのまま奥の部屋に行く。
扉をノックすると奥から歩いてくる音がして、目の前の扉が開く。
パチィン!
思い切り横っ面を引っ叩いてやる。
「何で!何で泣かせっぱなしにするんだ!可哀想じゃ無いか!」
「千景、何で怒ってるの…」
引っ叩かれても平気なんだ…。
小さな鼓太郎を泣かせっぱなしにしても平気なんだ…。
この人には人の気持ちなんて分からないから…平気なんだ。
「こたがずっと泣いてた!可哀想だろ?泣いてたら泣き止ませる努力をしろよ!」
「…分かった。千景、ごめん。」
この人は作曲家としては有能なんだ…
音楽だけ出来る。
でも、人としては最低なんだ…。
頭が痛くなるくらい最低なんだ…
「太弦がこたを連れて行くって言ったんだろ?じゃあ、ちゃんと連れて行ってよ!何で放ったらかしにしたの?」
感情的になった俺が2人のルールを破ると、それにはいち早く気づいて豹変する。
俺の方に手を伸ばして触れようとするから慌てて敬語を使う。
「旦那さん!ちゃんとやってくれないと…!鼓太郎が可哀想です!お願いだからこんな事もうしないでください!」
ハッとした顔になって伸ばした手を引っ込める。
もう…疲れるよ…こんな事。
「ちいちゃん…お腹すいた…」
いつのまにか起きた鼓太郎が、キッチンで夜ご飯の材料をチェックする俺の元に来て足にまとわりつく。
「ん?これ食べて良いよ?こた、お昼ご飯は食べたの?」
「うんん…ずっと1人でいた…」
「そっか…ごめんね、鼓太郎。明日はちいちゃんと一緒に行こう?ごめんね。」
俺は鼓太郎のおやつ用にと店長から貰ったホットケーキを温めて食べさせた。
韓国のホットグを意識して、中にアンコと生クリームの入ったホットケーキ。
コレってほぼどら焼きじゃん…って思ったけど、言わなかった。
「ちいちゃん、美味しい!」
口の端に食べかすを付けて笑う鼓太郎が悲しい。
最近、旦那さんは鼓太郎と遊んでみたり、話してみたりしていたから、任せても大丈夫だと思ったんだ…だって保育園に連れて行くだけなんだから…。
でも、間違いだったみたいだ…
「こた?行きたくない!ってしちゃったの?」
夢中で食べる鼓太郎の髪を、指で撫でて整えてあげる。
「ちいちゃんがいってらっしゃいしたら、パパいなくなった…ぐすん、ぐすん」
太弦……
俺と旦那さんの関係は複雑だ。
簡単に言うと、俺のピアノの先生が旦那さんだった。姉さんが旦那さんに恋して結婚した。
普通だとご縁があったのね…程度の話だろう。
普通ならね…
俺はおやつを食べる鼓太郎を眺めながら、広いリビングの向こうの中庭を見た。
蝶が飛んでいるのを見つけて、指を差して笑って言った。
「こた!ちょうちょが飛んでるよ?みて!ほら!」
「あ!ほんとだ!」
2人でクスクス笑って蝶を眺める。
俺、働かない方が良いのかな…。
鼓太郎がもう少し大きくなったら…
小学生になったらあの人と2人で家に置いておくなんて…出来ないよ。
この子の情緒が心配だ…
リビングの奥、中庭を挟んだ部屋から旦那さんが歩いてくる。手にはマグカップを持って、鼓太郎を放って置いたくせに身だしなみが整っていて苛つく。
俺はこたと中庭の方に歩いて行き、飛び交う2匹の蝶を眺めた。
「ちいちゃん、ちょうちょ歌って?」
鼓太郎にせがまれて、俺は蝶を眺めながらちょうちょを歌った。
作業部屋の窓に俺たちを見て微笑む旦那さんが見えた。
…どうしたら良いんだろうな。とにかく歪だ。
「千景、愛してるよ」
「…じゃあ何で姉さんと結婚したの?」
「ずっと一緒に居たいんだよ…」
「分からないよ…太弦の言ってる事、全然分からないよ…」
うなされて目を覚ます。
体を起こすと汗だくで、枕カバーがびしょ濡れになってしまっている。
頭を触ると滴るくらい濡れていて、このまま再び寝ることを躊躇する。
やな夢見たな…
俺は鍵を開けて自室を出ると着替えを持って風呂場に向かった。
真っ暗な廊下を進むと、まだ作業しているのか…旦那さんの作業部屋には灯りが灯ってる。もう夜中の2:00なのに、仕事、詰まってるのかな…。
気づかれない様に風呂場へ行き、鍵を閉めてから電気をつける。
「はぁ…シャワー浴びよう…」
俺は汗だくの服を脱いでシャワーを浴びた。
何であんな夢見たんだろう…
あぁ…太弦が笑ってるの、見たからかな…
シャワーから出て、新しい部屋着に着替える。
鍵を開けて扉を開けると、目の前に旦那さんがいた。
「ん!ビックリした…!」
恐怖だよ…
「千景、どうしたの…ですか?こんな時間に…眠れないのですか?」
「いえ、汗を沢山かいたので着替えただけです。」
「どうして汗を沢山かいたのですか?」
しつこく聞いてくる旦那さんの脇を通り、廊下を歩いて鼓太郎の部屋の前に行く。
「千景…怖い夢でも見たのですか?」
扉をそっと開けて中を確認すると、鼓太郎の寝息が聞こえる。ちゃんと寝てる。よかった。
「大丈夫です。」
俺はそう言って自分の部屋に向かう。
後をついてくる旦那さんを無視して自室に入ると、お休みなさい。と言って扉を閉めて鍵をかけた。しばらく扉の側で彼が立ち去るのを待つ。
「千景…」
そう言って足音が小さくなるのを確認してからベッドに戻る。
太弦は俺の事がまだ好きなんだ…
中学から個別指導のピアノ講師として俺は彼の指導を受けた。
それなりにピアノが上手かった俺は、コンクールで入賞する回数が増えて行って両親の期待を大きく受けた。有名なピアニストに指導をして貰おうと紹介されたのが、太弦だった。
初めて見た時、この人の弾くピアノに惹かれた。軽やかで洒落てて、楽譜通りに弾いてきた俺の音楽感が崩れた。
話すとぶっきらぼうなのに、ピアノは繊細で…この人は不器用な人なんだと子供ながらに思った。
通い始めて間もなくだ。
指導中に俺の背中に触れる回数が増えて、話す時の顔の近さに緊張した。
俺の弾くピアノに指導するものの、物腰が穏やかになって行き、次第に笑ってる顔しか見なくなった。
「千景、お前のピアノはすごく綺麗だ…」
甘い彼の声を思い出して我に帰る。
もう、やめよう…良くない…
ベッドに寝転がって天井を見る。
頭の中で流れるショパンに指がつられて動く。
良くない…やめよう…
俺は静かに目を瞑って手を握ると、体を横に丸めて寝た。
ショパンが好き。
サティも好き。
ベートーベンも好き。
バッハはあまり好きじゃない…
目覚まし時計に起こされて、6:00にベッドから起きる。
開かない目をこすって隣の鼓太郎の部屋へ向かう。
「こた、おはよう。起きて…一緒に下に行こう。」
声をかけてぐずる鼓太郎を抱っこして階段を降りる。
リビングのソファに鼓太郎を転がして、朝ごはんの準備をする。
「ちいちゃん、こた、たくあん、食べれるよ?」
「ん、たくあん。」
寝起きが良くない俺は鼓太郎の言葉を復唱してやり過ごす。
眠い…眠い…昨日、変な時間に汗を流したから…とても、眠い…
「千景、おはよう…ございます。」
「…んはよう…ます。」
早いな…徹夜かな…
冷蔵庫からたくあんと卵を出して、ボールに入れる。
「千景、眠いの?ですか?」
「眠くない…す…」
そう言って卵を割って、たくあんと混ぜる。
「千景、寝てていいよ。俺が作る…ますから。」
そう言われて、俺は本能に負けて鼓太郎の居るソファまで歩いて行き、つんのめる様に突っ伏すと、そのまま寝てしまった。
「ちいちゃん、ねんねするの?こたも、ねんねする。」
ぷにぷにのあったかい物が近くに来て、俺はそれを抱えて頬ずりする。
わーーー!と鼓太郎が笑って、本当にかわいいな…
「千景、ご飯できたよ…です。」
肩をちょんちょん突かれて苛ついて起きる。
「ちいちゃん、パパが作ったの、上手に出来たよ?」
一足先にテーブルに着いている鼓太郎が俺を見てそう言った。
「…あ、ご飯…作ってくれたの?ですか?」
「はい、作りました。」
「ありがとうございます。」
俺はそう言うとフラフラとダイニングテーブルに着いて鼓太郎を見た。
鼓太郎のスプーン、フォーク、お皿。ちゃんと並んでいて驚いた。
なんだ、出来るんじゃん…
「千景も食べて…ください。」
「いただきます。」
美味しそうなスクランブルエッグとハム、レタスまで乗っててクオリティーが高くて驚いた。…毎朝頑張ってきた俺の努力を一瞬で抜いていくな…。
たった一回二度寝しただけで、鼓太郎はこっちの方が良いと思ってしまうよ。
「ちいちゃんのおにぎり、明日作ってね~」
「うん。作る…」
しょんぼりしたのが分かったの?鼓太郎は優しくていい子だよ。
さりげなく左に座る旦那さんを見ると、眼鏡をかけてコーヒーを持ち、ぼんやりと俺の顔を見ている。
そんな顔して見るなよ…やだな
「パパ、行ってきま~す!」
「行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。」
俺は定刻通りに鼓太郎を保育園まで連れて行く。今日は鼓太郎のヤダヤダもなくて快調なスタートだ。この先の田中さんちの番犬ベンに挨拶して、空き地の野良猫を探して…銭湯の大きな鉄塔を巨大怪獣に見立てて光線を放つ鼓太郎を応援する。
そして、やっと保育園に到着して、担任の先生にご挨拶する。
「こたちゃん、今日はご機嫌だね!変わりはないですか?」
「はい、元気です。」
鼓太郎の着替えを渡して、潤む鼓太郎の目を見ないように…行ってらっしゃいを言う。
これが毎日のスタートだ。
家に戻ると旦那さんがソファで寝ていた。
やっぱり昨日は徹夜だったんだ…
起こさないように洗い物を済ませて洗濯機を回す。
部屋の喚起をする為に窓を開けていく。
中庭の梅は可愛い小粒の花をつけて元気に手を伸ばしている。
「メジロ、来ないかな…」
俺が呟くとソファに眠っていた旦那さんがうっすら目を開けて言う。
「ここで一緒に寝てたら来るかもよ?」
やだな…
俺は旦那さんを無視して、中庭の窓を開けると掃除機を取りに行った。
掃除を終えて、洗濯物を2階のベランダに干す。
鼓太郎の昨日来ていた服。小さくてかわいいな…。これは、旦那さんのか…。
ベランダで洗濯を干していると、下に見える中庭の梅の木にメジロが来た。
鳥の鳴き声を真似て口笛を吹く。
もっとおいで!梅の木が緑になるくらい沢山集まっておいで!
そんな俺の様子を下の作業室の窓から旦那さんが見て笑う。
…やだな
洗濯物を済ませて、仕事へ行く準備をする。
作業室の扉をノックして待つ。
奥から歩いて来る音が聞こえて、扉が開く。
「旦那さん、今日は5時にこたのお迎えに行って、買い物してから帰りますから。」
「うん。千景、気を付けてね。」
…やだな
俺は旦那さんを睨んで見た。
「気を付けて下さいね…」
言い直したのを確認して、俺は踵を返して玄関に向かう。
2人きりの時に旦那さんは敬語を使うのを忘れているようだ。ルールにペナルティを課した方が良いかもしれない。しかし、それではそのことについて話し合わなければいけない…それは、嫌だ。
たまに見せるああいうの…本当にやめて欲しい。
忘れてるものが疼いて来るから、やめて欲しい…
「おはよ!千景、今日も可愛いね!」
店長が今日も同じことを言ってる。
これを3年間も言い続けるって、ある意味凄かったりする。
「おはようございます。」
「昨日こたちゃん、美味しいって言ってた?あれ。」
どら焼きホットケーキの事を思い出して、店長にお礼を言った。
「美味しい、美味しいって食べてましたよ。ありがとうございました。」
良いよ~、と言って目じりを下げて笑う顔が可愛い。
俺は店のエプロンを付けて、椅子を下ろしたりテーブルを拭いて開店の準備をする。
「このまま夫婦になって一緒に店を切り盛りしないか?」
…これも毎日言ってる。ある意味ルーティンワークだ。
「やですよ。」
これでルーティンが終了する。
午前中は主婦のお客さんがワイワイ沢山来てくれて、お昼になるとサラリーマンのお客さんが来てくれる。夕方以降は学生だったり、カップルのお客さんが絶えず来て、このカフェは繁盛している。
特にこの時期は店の前の桜並木が美しくて集客が高い。
「ランチの貸し切り予約、入ったんだ~!」
花見がてらにランチも出来て、なかなか良いお店なんだ。
俺はここに朝の9:00から夕方の4:30まで働いている。
そのあと、鼓太郎を迎えに行って、帰りにスーパーによる。
これが3年間続いて、今に至る。
小学校に上がったら、初めのうちは帰るのが早いらしいから、調整してもらわないとな…。主婦のお客さんがそう言っていた。
今日は夜ご飯。何にしようかな…。
「お先に失礼します~。」
4:30ぴったりに上がって、鼓太郎を迎えに行く。
「こたちゃん、今日はお昼も残さないで食べれたんですよ!頑張ったね!」
保育園の昼食で鼓太郎は食わず嫌いを発揮していたが、今日は珍しく完食したそうだ!偉いな!
「こた、偉いね!」
俺が褒めると嬉しそうに抱きついて抱っこをねだった。
「こた、全部食べたよ!」
そう言って笑う顔がどことなく旦那さんに似てきた。
「雨降りくまの子歌って~」
こたと手を繋ぎながら朝来た道を夕方帰る。
雨降りくまの子はこたの好きな歌で、いつも事あるごとにおねだりされる。
「おやまにあ~めがふりました~、あとからあとからふってきて~」
俺はこたが喜ぶように可愛く歌ってあげる。
スーパーに寄って買い物を済ませて家に着く。
「ただいま~」
玄関で靴を脱いで、洗面所に行き手を洗う。
「こた、お菓子は小さいやつだけ食べるんだよ?」
そう言うと2階に向かって洗濯物を取り込む。
「あ、乾いてる~。これは…まだ乾いてない…」
下を見ると作業部屋から旦那さんが俺を見て微笑む。
…やだな
うっかり手を振ってしまいそうになる自分を抑える。
洗濯物を畳んでいると、こたが2階に上がってきて俺の隣で寝転がる。
「ちいちゃん、雨降りくまの子歌って!」
また?仕方ないな…
「おやまにあ~めがふりました~、あとからあとからふってきて~、ちょろちょろおがわができました~」
俺が歌うと下の作業部屋から俺の歌に合わせてピアノの伴奏する音が聞こえてくる。
鼓太郎が喜んではしゃいで跳ねるから、歌うのを止められない。
…やだな、もう
きっと優しい顔で笑いながら弾いているんだろうな…見たいな、触りたいな…
甘えたい…
ハッと我に返って手元の洗濯物を見る。
彼のシャツを畳んでまとめて置いた。
「こた、ご飯もうすぐ出来るから、パパ呼んでおいで?」
キッチンから鼓太郎に呼びかけるけど、テレビを見ていて聞こえていない。
「こた?鼓太郎?…もう!」
俺は鼓太郎を置いて、奥の作業部屋に向かった。
コンコンとノックをすると奥から歩いて来る音がする。
扉が開いて旦那さんが俺を見る。
「ご飯出来ますけど、一緒に食べますか?それとも後にします?」
「一緒に食べるよ。千景」
「それ止めて」
「何が?」
「敬語を使ってよ」
「くだらないよ」
「俺の考えを下らないって言うの?」
そう言って睨むと黙って微笑んで俺の顔に手を伸ばすから、俺は逃げる様に立ち去る。ダメなんだ、あの人を受け入れてはいけない。
こたの為にも姉さんの為にも、許しちゃいけないんだ。
俺がダイニングテーブルに料理を並べていると、奥からマグカップをもって旦那さんが歩いて来る。
「こた、今日お残ししないで全部食べたよ?」
この子がこんな風に話しかけても、この人には届いてないんだ。
「偉いね、残さず食べたんだよね?偉いね。」
俺がこう言って、彼を見て、伝えないと…
「それは良かったね…」
この人の耳には届いていないんだ…。
褒められて喜ぶ鼓太郎を見て、俺は安心する。
この子が自分が愛されていないなんて…傷つかなくて済むから。
「ちいちゃんのハンバーグ、美味しいね?パパ?」
「美味しい?良かった!いっぱい食べてね?鼓太郎!」
「うん、美味しいね。」
歪だ…歪だと分かっているのに、こうすることしか出来ない。
旦那さんは夕飯を摂ると、コーヒーを入れてまた作業部屋に戻って行った。
「こた、お風呂に入ろうか?」
俺は食器を片付けて、洗い、しまう。
そして、鼓太郎を風呂に入れて、服を着せて寝かしつける。
ベッドに横になる鼓太郎に添い寝してまた雨降りくまの子を歌う。
お腹に手を置いて、ポンポンと優しく叩いて、あの子の目がトロンとして、瞑るまで。
ポン、ポン、ポン、ポンと叩いて…時々一緒に眠ってしまう。
今日みたいに寝てしまう…
「千景、ここで寝るの?お前の部屋は向こうだよ?」
優しい声が聞こえて甘えて手を伸ばす。
指先に誰かの体が触れて、抱きあげられる。
そのまま揺すられて、冷たいベッドに降ろされる。
「千景…キスしていい?」
そう聞かれて、どう答えればいいのか分からなくて寝ることにする。
自分の顔に誰かの息がかかって、唇にやわらかい何かが付いた…
…やだな、もう
そのまま俺の唇を食むようにして離れていく。
頭を撫でておでこにキスを落とされる。
…もう…辛いよ
「やめて…、もうやめてよ…」
目を開けると彼が驚いた顔をして俺を見ていて、オレの目からは涙があふれる。
「泣かないで…千景、ごめん。分からないんだ、ごめん。」
「出てって…」
絞り出すように俺がそう言うと、ごめん…とまた呟いて、悲しそうな顔をして部屋を出て行った。
こんなに眠い時はダメだ…何も考えられなくなる。
眠い時と寝起きは理性が飛ぶ。
子供の頃からそうだ…
遠足に行って、前日に興奮してまともに寝てなかった俺は、欄干の上から寝ながら落ちた。
幸いな事に、地面までそんなに高くない距離だったから口の中を切る程度で済んだけど、落ちた後も眠る俺に、睡眠障害なんじゃないかと両親が大きな病院に連れて行く程、寝る事に関して俺は隙だらけになる。
だから寝室にカギを付けた…それなのに油断した。
油断なのか…分かっててやってるのか…
「ちいちゃん、こた、もうすぐお兄ちゃんだよ」
今日も鼓太郎はグズらず出発出来ました。
保育園に行く道すがら、俺を見上げてそう言ってニコニコ笑う。
「もうすぐで、お兄ちゃんなの?」
「うん!」
そうか…もうすぐ年度が変わって、鼓太郎は年少さんのクラスになるのか…
「本当だ、お兄さんだね!だからお昼も全部食べられたのかな?凄いね、鼓太郎。」
「うん!」
弾ける様な笑顔で鼓太郎は笑うと、空を見上げて雲を数え始めた。
姉さんの忘れ形見。
姉さんは太弦が大好きだった。
俺のピアノのレッスンがある日はよく送り迎えをしてくれた。
俺の為じゃない、太弦に会うためだ。
姉さんが妊娠したと聞いて正直驚いた。
だって、俺は太弦とそういう関係になっていたから…。
太弦は鼓太郎同様に、俺がいないと姉さんと話せないと思っていたから。
とんでもない思い上がりだったようで、彼は姉さんと結婚した。
愛してるなんて囁かれて、優しく微笑まれて、体に触れられて、彼を愛してしまった俺は、ショックでピアノを弾けなくなり、レッスンもやめた。
姉さんのお腹はどんどん大きくなっていき、出産間近のある日、言われた。
「千景、ごめんね。私もうすぐ死ぬの。どうしても好きな人と居たかったの。」
聞くと姉さんは、俺の知らないところで闘病生活を送っていたらしい。
10歳も年が離れた姉弟のせいか、姉さんの事を何も知らなかった自分を後悔した。
当時ピアニストだった姉さんは闘病生活を送りながら、仕事をこなしていたという訳だ。
告白を受けて間もなく、姉さんは入院することになった。
正直謝られたことも、ピアノが弾けなくなったことも、ピンと来ていなかった。
ただ、毎日思い出す太弦の存在に苦しんで、逃避するように姉さんのお腹の子供に執着した。
日々弱っていく姉さんが少しでも楽になる様にしてあげたかった。
きっと可愛い赤ちゃんだよ。
早く会いたいな。
入院した姉さんに一度も会いに来ることなく、産まれたばかりの鼓太郎を抱くでもなく、彼が夫、父親らしいことなど一度もしないうちに、姉さんは亡くなった。
あっという間すぎて悲しみの感情よりも、姉さんの余命を知らなかった事に酷く落ち込んだ。
姉さんの葬式にやっと現れた太弦を両親は詰った。
あいつはまるで両親も、泣いている友人たちも、見えないみたいに…鼓太郎を抱く俺に一直線に近づいて来て言った。
「千景、やっと会えた。」
それが、どうしても許せなかった。
鼓太郎に目をやるわけでもなく、抱っこするでもなく、オレを抱きしめて言ったんだ。
許せなかった。
その後、両親は鼓太郎を施設に入れる話をし始めた。
俺の大切な鼓太郎を…この子は俺の宝物なのに…
「おはようございます。鼓太郎は今日も元気です。」
保育園に着いて、担任の先生にそう伝える。
大きな病気をすることもなく、こんなに大きく育って…姉さんに見せてあげたい。
何としてでも、俺は太弦の傍でこの子を…姉さんの忘れ形見を育ててあげたいんだ。
「おはよう!千景、今日も一段と可愛いね!」
「おはようございます。」
エプロンを付けて椅子を下ろして、毎日のルーティンをこなす。
今日は予約のお客さんが窓側の席を使うからセットしておかないと!
慌ただしく準備する俺と、スイーツの仕込みをする店長。
もう1人誰かいれば楽なのにな…。
学生が目の前の道を往来し始めた。そろそろ上がりの時間だ。
「千景?これ、またこたちゃんに食べさせてみてよ…」
実験なの?鼓太郎で実験してるの?
俺は怪訝そうに店長の差し出した物を覗いた。
「あ!可愛い!」
そこにはチョコペンで“こたろう”と書かれたプレートの乗った、可愛いクマの小さなケーキがあった。
「すごい可愛い!作ったんですか?嬉しい!絶対こた、喜びますよ!」
俺はお礼を言って遠慮なくいただいた。
「鼓太郎を攻略するもの、千景を落とす!なんてことわざがある。」
店長がそう言ってまた目じりを下げて笑う。
「すごいほら吹きですね。」
そう言いながらも、こんなケーキをこたが見たらきっと大喜びするだろうな!と嬉しくなって、店長が少し好きになってしまった。
あながち間違っていないことわざなのかもしれない。
保育園の帰り道。
鼓太郎とスーパーに寄って買い物を済ませる。
「ねぇ、ちいちゃん?そのはこ、なぁに?」
鼓太郎!気付いていたの?
俺は店長からもらったケーキを持ち上げて、鼓太郎に言った。
「これは後でのお楽しみだよ!きっと鼓太郎びっくりするよ?」
「わーーーー!なに、なに?」
可愛いな…もう、このままお爺ちゃんになっても鼓太郎と暮らしたいよ…
玄関の前でキャッキャッ鼓太郎と戯れる。
夕日が差して心地よい夕暮れ時だ。
「ただいま~」
玄関に女性の靴が置いてある。
あの人、また来てるんだ。
俺は察してキッチンに行くと普段通りに買ってきた食材を冷蔵庫にしまった。
太弦のマネーシャー藤森さんが来ているみたいだ。
もともと個人でやっていた仕事が人気と共に肥大化して、手に負えなくなった太弦は中間に入る人を雇った。姉さんの友達の藤森さんをね…
ハッキリ言ってあまり得意なタイプではない。まぁ、俺には関係ないけど…
「ちいちゃん、それ、みせて?」
リビングのソファに乗って飛び跳ねて元気いっぱいの鼓太郎。
「危ないよ、こた降りて。」
注意しながらダイニングテーブルに箱を置いて、手招きして鼓太郎を呼ぶ。
「うふふ、見ててね?じゃーーーーん!」
箱から出したケーキを見ると、鼓太郎は目を輝かせて喜んだ。
「可愛い!雨降りくまの子だ!ちいちゃん、歌って!歌って!」
仕方ない…この場合、そう来ると思っていたよ。
「おやまにあ~めがふりました~あとからあとからふってきて~、ちょろちょろおがわができました~ いたずらくまのこかけてきて~そ~っとのぞいてみてました~さかながいるかとみてました~」
可愛いクマのケーキを見ながら、鼓太郎も一緒に歌って遊んでいると、奥から旦那さんとマネージャーが歩いて来るのが見えて歌うのを止めた。
「ちいちゃん、最後まで歌って?こたも歌うから!ね?」
鼓太郎にせがまれて、嫌だけど最後まで歌うことにする。
ダイニングで歌う俺たちを、旦那さんが立ち止まってじっと見る中、藤森さんは一言二言、彼に耳打ちして玄関から出て行った。
近いよ、距離が…
別に、関係ないけどさ…
「パパ、みて!こたのなまえ!くまのこのけーきだよ?」
「お店の店長さんがくれたんだよね?こたに、どうぞってくれたんだよね。よかったね。今度会ったら、お礼ちゃんと言おうね?」
「そうか、良かったね」
「うん!ちいちゃん、食べたい!」
え?もう?
「こた、食べる時、くまのこ、切っちゃうよ?いいの?もう少し見てたら?」
「こた、食べたい!」
そうなんだ…
俺はキッチンに行って、お皿と包丁を持って戻る。
「旦那さんも食べますか?」
「食べます。」
俺が聞くと俺に向かって微笑みながらそう言う。
…やだな
「ちいちゃんが、くまのこをやっつける!」
鼓太郎、やめろよ、そういう事言うの…
「じゃあ、ここら辺に…ブスッと…あ!かわいそう…えい、えい!」
脳天から包丁を入れられてくまのこは、あっという間にただのケーキになってしまいました…。
3等分したケーキをお皿にもって、フォークを渡すと、鼓太郎は満面の笑顔になって喜んだ。
「こた、お誕生日みたいだね?ちいちゃん、ハッピバースデーして?」
…鼓太郎、リクエストが多いよ。
俺は鼓太郎に頼まれるとほぼ断らない。というか、断れない。
「ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア、鼓太郎~!ハッピバースデートゥー、こた、おめでとう!」
俺が歌うの、楽しそうに見るのやめて…
こたを見てよ…こんなに嬉しそうに笑っているこの子をもっと見てよ。
「千景、上手だよ。」
「こた、おめでとう!食べてみて?美味しいかな?くまのこ、美味しいかな?」
パクリと一口食べて、キラキラした目とにっこり笑う口でこっちを見る。可愛い!
鼓太郎、お前は食レポも出来ちゃう、賢い3歳児だ!
「千景、昨日はごめんね…もうしないから、許して…」
ケーキを食べ終えて、キッチンで洗い物をしていると旦那さんが俺の隣にきてそう言った。許して…都合のいい言葉だ。
「もう入らないで下さいね。あと、言葉遣い、気を付けて下さい。」
俺は短くそう言って洗い終わった皿を拭く。
「ちいちゃん、機関車みたい~!でぃーぶいでぃーして!」
「旦那さん、機関車のDVD、入れてあげてください。」
皿を拭きながら旦那さんの方を向くと、知らないうちに体の触れる距離まで近づいていた旦那さんの胸元に皿を拭く手があたった。
近い…
彼のシャツから覗く首元に赤い痣を見つけて、心臓が跳ねる…
俺を見下ろす旦那さんを腕で押しのけて、鼓太郎の方に向かう。
胸が痛い…
「ちいちゃん、ありがとう!」
「いいよ…」
鼓太郎の機関車のDVDをセットして再生する。
胸が痛い…苦しい
「あ!みて?ちいちゃん、これ、なんていうか知ってる?」
「ん~、でごいちだ!」
「ピンポン!ちいちゃんすごいね!」
鼓太郎と一緒に居たい。
この機関車のDVDを一緒に見ていたい。
もういやだ…あの女の人と…そんな事してるの…
彼の首元のキスマークを見て激しく動揺した。
俺には関係ないのに…
動揺した自分を落ち着かせるように、この綺麗で汚れていない鼓太郎に癒してもらう。
なんで…?
姉ちゃんの時もそうだ。
この人がセックスする理由が分からない…
「ちいちゃん、ディーゼルはきらい?」
「嫌いじゃないよ。ディーゼルはちょっと難しいだけだよ。」
「そっか~パパみたいだね。」
そう言われて固まった。
「どうかな…」
首をかしげて鼓太郎にそう言うと、俺は立ち上がって洗濯物を取り込みに2階へ上がった。
俺を愛してるって言って…姉ちゃんと寝て子供まで作った。
ずっと一緒に居たいと言って…姉ちゃんと結婚した。
昨日だってそうだ…あんなことしておいて…女の人と寝るんだ…
最低だ…
眉間にしわを寄せながら洗濯物を取り込んでいると、下に動く影が見えて視線を落とした。
こちらを見て微笑む旦那さん…
太弦…あんたが分からないよ…
視線を外して洗濯物を取り込む。
作業部屋からピアノの音が漏れて聞こえる。
ショパン…
部屋に入り、窓を閉める。
耳をふさいで洗濯物に前かがみになって突っ伏す。
「綺麗だ…ショパン…弾きたい」
涙がこぼれて乾いた洗濯物を濡らす。
耳の奥に届く微かな音に耳を澄ます。
きっとこんな感じで弾いているに違いない…姿を想像する。
軽やかなトリルが繊細なのに力強くて、素敵だ。
この人のピアノが大好きだ…
「ちいちゃん?お腹痛いの?」
鼓太郎の声がしてハッと我に返る。
涙を拭いて顔を上げて笑って言う。
「眠たくなっちゃって…ちょっと寝てたんだよ。お腹痛くないよ。」
「大丈夫?泣いてたの?」
「泣いてないよ。こた、タオル畳むの手伝って?」
「いいよ。ちいちゃんのお手伝い、するよ?だから泣かないで。」
ふふ、と笑って鼓太郎と洗濯物を畳む。
心配かけさせてはいけない…そのまま風呂掃除をして、夕飯を作る。
「ちいちゃん、今日のご飯なぁに?」
「今日は、お魚です。」
「え…、うん。お魚!」
嫌がったな?知ってるぞ!
鼓太郎はお魚が苦手だ。骨が面倒で苦手みたい。いつも俺がとってあげているけど、信用されていないのか…口に入れた後も、もぐもぐしながら骨を探してる。今日はカレイの煮つけだから骨はそんなに心配する必要はない。
「ちいちゃん、これ保育園で作ったよ?」
園バックからゴソゴソと鼓太郎が何かを出してくる。
折り紙かな?
俺に手渡した1枚の紙には明らかに俺じゃない絵が描いてあって、手には黒いもじゃもじゃが付いていてマグカップだと理解した。
「こた、上手だね?パパを描いたの?」
「うん…」
何でそんなに悲しい顔するの…
鼓太郎は似合わない悲しい顔をして俯いてしまった。
「パパにあげようね?」
「パパ、要らないって言うよ?」
「言わないよ…」
「言う!」
俺は膝に鼓太郎を抱きしめて、体を揺らして話を聞く。
「どうしたの?」
「パパはこたの事嫌いだよ?」
…あぁ…なんて事だろう
「そんな事ないよ?パパはこたの事すきだよ?パパはちょっと難しいだけだよ。ね?」
「ちいちゃん、さっき違うって言った。」
「よく考えたらそうだったんだよ、だから、これ、パパにあげてみよう?」
「…うん」
可愛そうな俺の鼓太郎…。
俺の一番恐れていた事が起こってしまっていた…。
お店に来るママたちが言っていた。
子供は意外と何でも知ってると…。
子ども扱いしてはいけない。対等に接しないと、逆に大人を観察して上手く転がすと…。鼓太郎はそんなことはしないけど、でも、旦那さんが普通じゃないのは多分気付いているはずだ。この絵を作業部屋に貼ってしまおう…。
情緒の育ってきた証拠なの…?
これからお前はもっとあの人に苦しめられそうだね…鼓太郎。
理解しようと思っちゃいけないんだ…多分。そう言うものだと、諦める?受け入れる?認める…事が大事なのか…。
俺は鼓太郎と手を繋いで旦那さんの作業部屋の前に来た。
コンコン
俺がノックすると鼓太郎の手にギュッと力が入った。怖いのかな…。
俺も怖いよ…
奥から歩いて来る音がして扉が開いた。
「入ってもいいですか?」
「千景…もちろん良いよ。」
見るな…見るな…
俺は室内に入ると視線を下に落として、旦那さんが1番よく見そうな場所に鼓太郎の絵をセロハンテープで止めた。
「これ、鼓太郎が今日、保育園で描いた絵です。旦那さんの事を描いてくれたから、ここに貼っておきます。」
久しぶりに入った彼の作業部屋の匂いにクラクラする。
さっきここであの人としたのかな…最低だ
俺の大事なピアノの前で…そんな事するなんて…最低だ
「ね?鼓太郎が描いたんだよね?」
足元の鼓太郎を見ると、初めて入ったであろうこの空間に圧倒されてキョロキョロする。
「ちいちゃん、おっきいピアノがあるよ?」
…うん、知ってる。見ちゃだめだよ。
「ちいちゃん、雨降りくまの子、歌って?」
…いまはダメ、向こうで歌ってあげるよ。
「鼓太郎、パパのお仕事の邪魔になるから…もう行こう?」
そう言って俺が出口に向かうと、旦那さんはピアノの方に歩いて行く。
「あ!雨降りくまの子だ!」
そして前奏を引いて鼓太郎の関心を引く。
繋いだ手を引かれてピアノの脇に連れてこられる。
ピアノを弾く彼を横から見てこみ上げる。
伴奏に合わせて歌う鼓太郎じゃなく、俺の方を見て微笑んで、歌ってって目で言う。
音色が奇麗で死にそうだ…
俺は鼓太郎と手を離して、1人部屋の外に駆け出した。
…あの子を置いてって平気なの?
知らない!もうだめだ!
…あの人は鼓太郎を無視するのに、置いてって平気なの?
いやだ、ピアノは見たくない!太弦も、ピアノも、見たくない!
リビングでソファに顔を伏せて声を上げて泣く。
「ちいちゃん、どうしたの?」
俺の背中を撫でて鼓太郎が震える声をかけてくる。
鼓太郎が心配するじゃないか…しっかりしないと…
でも、声が抑えられなくて泣く。
「ごめん、千景…泣かないで…ごめん…」
太弦がそう言って俺を後ろから抱きしめる。
やめてくれ…もう、やめてくれ…どうしていつもそうやって…俺の心を弄ぶんだ!
「も、もうやだぁ…!!もう、やだぁ!!」
顔を伏せたままブンブン振って体に着いた太弦を追い払う。
鼓太郎を抱きしめて泣く。
「こた、こた、もうお家出よ…ちいちゃん、ここ嫌だ。もう、やだ…!!」
俺の異常事態に鼓太郎が怖がって泣く。
ダメなんだ、この人とピアノとセットで見るのが耐えられない…!!
俺は怖がって泣く鼓太郎を抱っこして玄関に向かって歩く。
「千景、待って!もうしないからっ!待って!」
そのまま玄関を出てひたすら歩く。
抱っこした腕の中の鼓太郎が俺に諦めて眠っても、歩く。
「なんだ、千景、どうしたの?」
「一晩…泊めてください。」
俺は桜並木の店に戻って店長に言った。
カフェは8時に閉まる。
それまで俺と鼓太郎は端っこのテーブルでご飯を食べたり、デザートを食べたり、折り紙をしたりして時間を潰す。
8時なんて、いつもなら鼓太郎は布団に入る時間だ…
「こた、寝ていいよ?」
抱っこしてトントン背中を叩くと俺の体に体を預けて目をつむる。
可愛そうな事をしてしまった。
俺が取り乱して、きっと怖かっただろう…。
「ごめんね、こた…ちいちゃん、怖かったの…ごめんね」
俺が小さく言うと、鼓太郎は体を起こして俺の顔に抱きついて頬ずりしてくれた。
「ちいちゃん、大丈夫…こたが居るからね?」
「うん。」
8:00になり、店長が店を閉めた。
「何があったのか知らないけど…まぁ家でよかったらおいで」
「すみません…」
抱っこした鼓太郎はすっかり熟睡して俺の腕を痺れさせる。
「千景、こた変わるよ。」
そう言って俺からこたを抱き上げると、寝ているあの子を抱っこしてくれた。
「あぁ、手が…痺れちゃった。ははは…」
「ずっと抱っこしてたの?」
「…抱っこ紐、忘れちゃって…」
「もう3歳だし、そんなに軽くないだろ?疲れちゃったな…」
トラックみたいな車の前に来ると、店長は助手席の扉を開けてくれた。
「千景が最初に乗って?こた渡すから、落とさないでね。」
俺がシートに座ると店長が前かがみになって、車内に頭を突っ込み鼓太郎を俺の膝に乗せた。
「千景、連れてっちゃうよ?良いの?」
「え?」
「…扉閉めるよ、気を付けて。」
バタンと扉が閉まって、こたが少し驚いて顔を上げる。
「大丈夫だよ。車に乗っただけだよ…」
俺がそう言って鼓太郎の頭を撫でていると、運転席に店長が乗ってきた。
こんな車に乗ってるんだ…。厳ついな…
今どきの優男顔の店長が…こんなアッパー系の…へぇ。人って分からないな。
店長の意外な一面に驚きながら腕の中の鼓太郎を撫でる。
店長は慣れた様子で車を出して、俺たちを運んでくれる。
太弦からずっと遠い場所まで運んでくれる。
「ほい、着いたよ!」
「わぁ、遠かった。車でどのくらいですか?」
「ん、20分くらいかな~。遠くないだろ?」
車で20分なら遠いになるよ。
店長は車を降りると、助手席側に回って扉を開けてくれた。
「こた、ちょうだい?」
そう言ってまた前かがみになって覆い被さる様にして、鼓太郎を抱き上げていく。
「ちいちゃん!」
途中で起きてしまった鼓太郎が泣きそうになる。
「大丈夫、店長さんだよ?こた、ケーキもらった人だよ。」
「ん…」
「こた、かわいい…」
店長はそう言って俺の顔を見る。
知ってる、鼓太郎は可愛いんだ。
4階建てのマンションに着いて、店長の部屋は4階の角だった。
「汚れてるけど…どうぞ?」
「突然すみません…」
そう言ってお邪魔させていただいた。
迷惑だよな…本当申し訳ない。
「こた、ここに降ろしていい?」
店長はそう言うと、自分のベットに鼓太郎を下ろしてくれた。
「ちいちゃん、ちいちゃん!」
おろすタイミングが悪いと起きちゃうんだよね…
俺は鼓太郎の傍に行って、おでこを触ってお腹をポンポン叩いてあげる。
「ちいちゃん、雨降りくまの子して…」
「ん。良いよ。おやまにあ~めがふりました~、あとからあとからふってきて~、ちょろちょろおがわができました~」
小さな声で…最後まで歌うと、鼓太郎はまた眠った。
「店長、すみませんでした。」
「良いよ。千景も座って…疲れたでしょ?」
疲れた…疲れた…。
俺はソファに腰かけて携帯電話を見た。
もうこんな時間なんだ…。
着信、メッセージ、共に太弦から大量に送られてきている。
見たくない…。
「喧嘩でもしたの?」
店長が俺にビールを渡しながらそう聞いた。
「俺、アルコール飲めないんです…。」
そう言って断って言った。
「店長もお風呂とか、済ませちゃってください。寝る時は、こたはこっちに連れてくるから、いつも通りベッドで寝てくださいね。」
分かったよ、と言って店長はシャワーを浴びに行った。
逃亡してしまった…。
太弦から逃亡してしまった…鼓太郎を巻き込んで。
一気にドッと疲れが襲って眠たくなる。
せめて店長が寝てから…寝ないと…失礼だ…
体と意識は別物なんだね。おれはソファにぱたりと倒れてそのまま眠ってしまった。
「千景?千景、こんな所で寝たら風邪ひくぞ?」
眠い…起きれない…
俺の足と背中を支えて店長が抱きかかえてベッドに運んだ。
こたの隣に寝かせて布団をかけてくれる。
「こた…」
「こた、隣にいるよ。千景…眠いの?」
「ん、ねむ…い…」
「可愛い…千景は本当に可愛いよ。」
店長が俺の後ろに添い寝するのが分かった。
まずい事にならないで…何もしないで…お願い…
「おやすみ…」
店長はそう言って俺の髪にキスすると、そのまま後ろで眠った。
良かった…
ショパンのワルツ第7番嬰ハ短調Op.64が聞こえる。
こんな風に弾くのは彼しかいない…
「今までこんな風に弾く人見た事ないよ?」
「そう?」
「どうやって?」
「ん?」
「どうやったら、そんな弾き方になるの?」
「ん?分からないよ。どういうこと?」
「綺麗なんだ。とっても。軽くて…緩くて…でも、強い」
「千景、おいで」
「太弦…俺もお前みたいに弾けるようになりたい…」
「千景は俺よりも上手だよ」
「上手じゃなくて…そんな風に弾けるようになりたい…綺麗な音色がコロコロ転がるみたいな…弾いてるんじゃなくて、音が転がっていくみたいな…」
何言ってるんだろう…俺。
でも、分かるよ。
太弦のピアノは弾いてる感じがしない…まるで歌ってるみたいなんだ。
こんなに美しく弾く人を見たことがない…一度聞いただけで官能的で痺れる。
また聞きたい…お前のピアノ、また聞きたい。
2人で、一緒に座って、隣で聞きたいよ…。
太弦…なんでなの…分からないよ…
アラームの音で目が覚める。
「ごめん、もう少し寝てていいよ」
店長の声が後ろからして、俺はまどろんで目の前の鼓太郎を見る。
気のせいか、鼓太郎の胸の動きが深い気がする。
手を伸ばして鼓太郎を触る。
…熱い
「店長、ごめんなさい。今日はお休みしても良いですか?」
「ん?良いよ。それにしても、千景、髪の毛の寝ぐせすごいね。」
髪の毛を手で整えながらベッドから降りてぼんやりする。
目の前に店長が来て俺を見下ろす。
「鼓太郎が熱出しちゃった…」
「病院連れて行く?」
足に力が入らなくなりしゃがみ込む。
「千景、どうした」
両手で顔を抑えて呻くように言う。
「俺が…俺が家を飛び出したから…鼓太郎が…かわいそうだ…」
「お前のせいじゃないよ。」
そう言って俺の背中を抱くこの人と、もう…やっちゃおうかな…
もう疲れた…
自分の感情を出したばかりに、何も悪くない鼓太郎に無理をさせてしまった…。
隙を見せると、奈落に落ちるような…緊張感に疲れた…。
楽になりたい…。
「店長…俺の事、抱いてみます?」
目の前の男の顔を覗いて聞く。
「千景…鼓太郎はどうするんだよ?」
戸惑ってそう言う店長の口にキスして舌を入れる。
俺の肩を掴んでくるけど引き剥がさないって事は良いって事だよね…
もう、全部どうでもいい…
姉さんが死んで、両親は生まれたばかりの鼓太郎を捨てようとした。
守っても…俺1人じゃ無理だ…
守るどころか、ひどい目に合わせている!!
「千景、やめろ!」
散々堪能したじゃないか…
「お前、自暴自棄になっている…しっかりしろ!俺が一緒にやってやるから少し落ち着け!鼓太郎が落ち着いて、それでもまだその気があるなら、その時したい。今は、嫌だ。分かるよな?」
店長はそう言うと、パートのおばちゃんに電話して店を任せた。
「まず、何する?」
「家に…家に送ってください。こたの…ひっく、保険証が…置いてあるから…ひっく、ひっく…取りに戻らないと…。」
俺がそう言うと、店長はこたを抱っこして車のカギを掴んでいった。
「千景、行くぞ。」
「…うん」
ダメだ、心がぽっきり折れた。
車の中で鼓太郎を抱く手がどんどん熱くなっていく。
「店長…こた、死んじゃったらどうしよう…」
「風邪くらいで死なねぇよ。全く、千景は大げさなんだよ。」
こんなにはぁはぁして、頬っぺたも赤くなって…熱い。
家の前に着いた。
店長が下りて、助手席のドアを開けて鼓太郎を抱っこしてくれる。
「こた、病院行こうな…。もうちょっと我慢してな…」
なんで、この人はこんなに落ち着いてるんだろう…
玄関を開けるとソファに太弦が寝ていて、飛び起きてオレの傍に来る。
「千景、誰?」
店長を見てそう言う太弦を無視して、店長を家に上げる。
「ちょっと待ってて…保険証持ってくる。」
俺はそう言って2階の自分の部屋に向かう。
ベッドサイドのローチェストの1番上に、鼓太郎の大切な書類を入れている。
保険証と医療証を取り出して階段を降りる。
鼓太郎を抱きかかえた店長が太弦と対峙している。
俺は店長の腕を掴んで玄関に誘導する。
「待てよ!千景!」
俺の腕を掴んで振り返らせると、両手できつく抱きしめて店長に怒鳴った。
「俺の千景に触るな!それが欲しいならくれてやる!千景はダメだ!」
…あぁ、太弦…お前は本当に…
「何言ってんだよ!お前の子供が熱出してんだよ!これから病院に連れて行くんだよ!千景が自分を犠牲にして頑張ってるのに、お前…マジでむかつく!」
頼むよ…鼓太郎を病院に連れて行かせてくれ…
腕の中でもがくオレを見下ろして、キスして腰から手を添わせてズボンの中に手を入れて尻を弄る。
本当に…こいつは最低で最悪だ…
「お前!やめろっ!嫌がってんだろっ!」
店長が鼓太郎を床に寝かせて太弦を殴った。
人が殴られるの、初めて見たよ…
必死の形相で俺を離さないで…お前は何やってるんだよ…
人なんて殴ったこともない手を固く結んで振りかぶって…その手は、ダメだ。
「太弦、やだ!もうやめて!手はダメだ!お前の手で殴ったりしないで!この人は店長さんだ、鼓太郎が熱を出したから病院に連れて行く。一緒に付いて来てくれただけだ。いい加減にして!俺を離せ!」
力の限り強く怒鳴ると、太弦の力が緩んだ。
すかさず腕から離れて鼓太郎を抱き上げて店長と玄関を出る。
ともだちにシェアしよう!