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No2

「千景…」 「店長、ごめんなさい…今は何も聞かないで…」 俺は店長の車に乗って病院へ連れて行ってもらった。 病院に行くと風邪からくる発熱だと言われ、薬と解熱剤をもらった。病院に着くころには汗をかき始めて、解熱してきた気がする。 家に送ってもらう途中、ずっと黙っていた店長が俺に話しかけた。 「いつから?」 「…姉さんが結婚する、ずっと前…」 「今は?」 「鼓太郎を育てる為に一緒に居た…というか姉さんが妊娠した時点でそういう関係は終わってるんだよ。なのに、あの人は違うみたいだ。」 「離れた方が良い」 「鼓太郎が…鼓太郎の為になると思ったんだ…父親と暮らして成長していくことが…良い事だと思った…でも、違った…」 “それが欲しいならくれてやる!” 太弦の言ったそれって…鼓太郎の事だよな… 最低だ… 本当に最低だ。 家の前に車がついて、俺は何度も礼を言って鼓太郎を抱えて車を降りた。 「本当に大丈夫なの?さっき襲われてたじゃん!」 「太弦は…俺が怒ったら…もうしないんです。だから、多分、大丈夫…」 もしダメなら、また逃げます。と笑って言うけど、店長はドン引きしている。 普通の人から見たら、太弦は気が狂ったように映るんだろうな…。 あれがデフォルトなんだ…慣れって怖いな。 「何か困ったことがあったらすぐ電話しろ?良いな?」 普通の人って、こんな感じなんだな…頼りがいがあって、引っ張ってくれる。 でも、あんな風にピアノは弾けない。俺みたいに…程度が知れてる。 何度も礼をして店長と別れる。 あの人には頭が当分上がらない…俺の嫌な所、沢山見せてしまったから… 玄関を開けると、目のまえに太弦が立っていた。 「千景…あいつ誰だよ。」 「あの人は俺の働いてるお店の店長さんだよ。」 鼓太郎を抱いて階段へ向かう。 太弦は俺の後を付いて回る。 「何したんだよ…あいつと何したんだよ。」 「鼓太郎が熱を出した。病院に付き添ってもらった。」 鼓太郎をベッドに寝かせて服を部屋着に着替えさせる。 「昨日は何処にいたんだよ…何回も連絡したのに…なんで」 俺は立ち上がって太弦の正面に行くとあいつの頬を撫でた。 殴られた跡が赤くなって少し熱を持っていた。 「鼓太郎を“それ”なんて言うな」 俺がそう言うと視線を外して口端を下に下げた。 アイスノンを頭の下に敷いて鼓太郎を寝かせる。 朝よりも大分解熱したように感じて安心する。 鼓太郎の看病をする俺の背後に、ぴったりとくっついて太弦が離れないでいる。 「動きづらい…」 「じゃあ、動くな…」 背中を覆われてあったかくなって、眠たくなってきて焦る。 今日は朝から感情も体力も激しく消耗したから…眠たい… 今はダメだ… 「太弦、下に行きたい」 「千景、何で出て行ったの?」 俺の体を強く抱きしめて、首元に顔を寄せて鼻を摺り寄せてくる。 眠たくなって瞼が落ちそうで頭がコクリと揺れる… 「眠いの…?」 答えられない… 太弦は俺の寝入りと寝起きの事を知っているから、下手に答えられない。 「千景、おいで」 瞼の堕ちる顔を確認され、抱きかかえられ階段を下りていく。 眠い…あったかい…眠い… 瞼が降りて目が開かない。 作業部屋の匂いがして、ピアノの前に降ろされる。 椅子に座らされ、後ろに座る太弦の足の間に挟まれた。 「やだ…」 「千景、弾きたい?」 「ん…やだ」 「千景のショパン、聞きたい。ワルツ第14番、弾いて?」 俺の手を取ってピアノの鍵盤に触れさせる。 「ああ…、やだよ!太弦!なんで!もう弾きたくない!」 「じゃあ、聴いてて…」 こんなの拷問だ。 眠くて彼の体に体をもたれさせる、顔を彼の胸に埋めて匂いを嗅ぐ、太弦。大好きだ。 彼の体が揺れてピアノの音が耳に入る。 ずっと頭の中で聞いていた音がダイレクトに耳に届いて身震いする。 美しくて悲しげな旋律が大好きでよく弾いた。 あの旋律が、お前が弾くとこうなるんだ… 高音、低音、弾くたびに太弦の体が前に動いて俺を揺らすから、両手でしがみ付いて離れないようにする。 彼の背中を手のひらで撫でる。大きくて丸まった背中…大好きだ。 「千景、次は何が聞きたい?」 「ワルツ…7番嬰ハ短調…64の2…」 目をつむって背中を抱きしめて待つ。あの綺麗な旋律を待つ。 彼の体がまた揺れて、美しい音を響かせる。 どうしてだろう…こんなに軽いのに一音一音確実に当ててくる。的確な位置に。 凄い人… 背中を抱きしめる手に力が入る。 あっという間に終わってしまった。 「千景、連弾しよう?」 俺の頬を右手で包んで持ち上げる。 親指の腹で俺の涙を拭いて、反対の手で反対の涙をぬぐうと顔を落として口にキスする。 もうどうでもよくなるよ… 「華麗なる大円舞曲…」 俺がそう言うと太弦は微笑んでピアノを弾き始める。 俺はピアノに向かって座る。 鍵盤の上を太弦の手が駆ける様に動いていく。 綺麗だ… 太弦の腕に自分の手を滑らせて手のひらまで降ろして手を上から合わせる。 弾いてる感覚を思い出して鳥肌が立つ。 涙が落ちて声が漏れる…のどが震える。 でも、手は震えないんだ… そのまま太弦から手を離して旋律を引く。 俺が右を弾いて彼が左を弾く。 跳ねるような音色が胸をつんざく… ペダルもぴったり合って、まるで一人で弾いているみたいだ。 綺麗な音、このピアノが大好きだった。 スタンウェイ…久しぶり…相変わらず君は綺麗な音がする。 この曲のクライマックス…前から一度試してみたかった。 俺は合わせない。太弦が合わせるの?…俺に。 思いのままに弾いていく。 ぴったり合う連弾に身震いする。 最後までズレることなく、俺の右手の強弱まで感じて合わせてくる。 この人は…本当に…音楽だけは最高に素晴らしいんだ… 「千景、愛してる…」 そう言って俺の口にキスして舌を入れて絡める。 もういいかな…もう俺が我慢できないよ。 絡まる舌に痺れてトロけて身を任せてしまいたくなる… 「ちいちゃん!ちいちゃん!」 鼓太郎の声が聞こえて我に返る。 立ち上がろうとする俺を、太弦が抱きしめて離さない。 「千景、行くなよ。もっと一緒に弾こう?次は何を聞きたい?」 「ちいちゃん、どこに居るの?ひっく、ひっく…」 か細い声に動揺して、俺は絡みつく太弦の腕をほどこうともがく。 「こたのところに行かせてよ。あの子は今熱が出てる。心配なんだ。」 そう言うと腕の力を抜いたので、俺は彼の腕から抜けて部屋を出た。 …触ってしまった…ピアノに…彼に。 ずっと我慢してきたのに、ずっと耐えてきたのに、あっけないな… 俺の鼓太郎や姉さんへの気持ちなんて、そんなものだったのか… 眠くなっていたせいか…もともと、限界だったのか… 最低だな…俺 「こた?こた?ここだよ」 階段を上ると鼓太郎が俺を探していた。 「ちいちゃん、居なくて怖かった!」 「ごめんね、ごめんね…下に居たんだよ?ごめんね。」 ひと眠りした鼓太郎は熱もだいぶ下がって、食欲も出てきた。 俺は遅めの昼食を作って食べさせて、薬を飲ませた。 「こた、寝る?」 「眠くない!」 そう言うと思ったよ…。 リビングのソファに毛布を持ってきて鼓太郎を寝かせる。 「なんのテレビにする?」 「機関車!」 お気に入りのDVDを再生し、寝ながら眺めるこたの髪を触って一緒に見る。 今回はすぐ解熱してよかった…前は熱性けいれんを起こしたから、怖かった。 「ちいちゃん?トントンってなぁに?」 ぼんやりしていると鼓太郎に言われて、自分が頭の中でピアノを弾いていたことに気付いた。指が勝手に動いて、鼓太郎の頭を走っていたようだ。 「ふふ、こしょこしょしようとしたら、間違えてトントンしちゃった。」 「ふふ~、ちいちゃん、変なの~!」 明日には保育園、行けるかな…。まだ早いかな…。 旦那さんが作業部屋からマグカップをもって出て来た。 ソファに座る俺の後ろに立って、体を屈めて髪にキスする。 …確実に良くない方向に行っている。 「ちいちゃん、こた、今日ちいちゃんと寝たい。」 「良いよ。一緒に寝よう。」 夕飯を作っていると鼓太郎が甘えてきた。 おでこを触ると、少しまだ熱い… 子供は夕方からまた熱が上がるって、お店に来たママさんが言ってたな…。 本当なんだ…。 夕飯を作り、こたに食べさせて薬を飲ませる。 体を拭いてあげて新しい下着を着せて部屋着を着せる。 やっぱりまだ少し熱っぽい… 「こた、ちいちゃんシャワーしてくるから、ちょっと働く車見て待ってて?シャワーしたらもう今日は寝ようね。」 「分かった…」 お利口さんだ…。偉いな鼓太郎…。 俺は急いで着替えを取ってくると、シャワーを浴びに行った。 シャワーを浴びて体を拭く。鏡で自分の顔を見ると疲れた顔してる…。 部屋着を着て、ドライヤーで髪を乾かす。伸びた前髪が目に入り痛い。 「こた、お待たせ…」 まだ乾ききっていない髪でソファに急いで向かう。 横になって眠る鼓太郎を見る。 手を伸ばしておでこに触れるとさっきより熱い… 冷蔵庫からアイスノンを取り出してタオルでくるむ。 作業部屋から旦那さんが歩いて来るのが見えた。 俺にまっすぐ近づいて来る。 優しく微笑んで、手を広げて… 「鼓太郎が、また熱が上がってしまいました。」 目を反らして鼓太郎を抱きかかえる。 片手にアイスノンを持って階段の方へ行く。 「病院へ行くの?」 「…夜は行けないです。一緒に寝て様子を見ます。おやすみなさい。」 腕が痛い… 旦那さんが近づいて鼓太郎を俺から持ち上げる。 「あ…」 「手伝おう…」 うそ… 「あ、ありがとうございます。」 「パパ…抱っこ…」 鼓太郎の呟きに涙が出そうになる…もしかしたら初めてかもしれない この人が鼓太郎を抱いたの…3年間で初めてかもしれない… 俺の部屋に来て壁側に鼓太郎を寝かす。 アイスノンを頭に敷いて、寝かせると少し楽そうな表情になった。 「旦那さん、ありがとうございます。じゃあ、おやすみなさい。」 俺はそう言って自分もベッドに入った。 旦那さんは椅子を持ってきて俺の隣に置いて座る。 「電気…消しますよ?」 「あぁ、良いよ」 俺は電気を消すと、鼓太郎の方を向いてあの子の頭を撫でた。 そのままウトウトして目をつむる。 明日には熱が下がりますように… 旦那さんが俺の手を握って指を触る…俺はそれを無視して眠った。 「初めまして。よろしくお願いします。」 中学1年生の春、俺は初めて太弦と出会った。 前年度のコンクールを終えて、俺の両親は姉同様、俺にピアノの才能が有るのかもしれないと期待をかけだした。俺自身は、ただ楽しいから弾いている程度で、毎日何時間も何時間も練習するような子供ではなかった。だから、入賞しても、評価を受けても、ピンとこなかった。ある程度の規定はあるにしても、ピアノや楽器などは、テストと違い、正解がある訳ではないから… 初めて会った太弦は不機嫌そうな顔をしていて最悪だった。 「じゃあピアノ、どうぞ…」 こんな感じで、ハッキリ言って俺は不安を感じた。 特に指定も無く、どうぞ…と言われ差し出されたピアノの椅子。 俺はそれを持ってピアノの前に行くと、高さを合わさた。 その時、ちょうど中庭の梅の木に鶯が止まったのが見えて、俺はそちらに気を取られて口笛を吹いて鳥を呼んだ。 「あの梅の木はメジロも来ますか?」 「…さぁ、メジロが何なのか知らない。」 太弦はそう言って戸惑った表情を浮かべたのを覚えている。 俺は椅子に座って両手を膨らませて合わせカップのようにして見せて言った。 「これくらいの小さな小鳥で、目の周りが白いんです。だから、メジロッて言います。」 「…今度、見てみよう…」 その時の笑顔が可愛く見えて、俺はリストの愛の夢を弾くことにした。 別に愛していたわけではない…ただ、その曲がぴったりだと思ったんだ。 スタンウェイのグランドピアノ。綺麗な音が出そうだ… 弾き始めると、このピアノが俺の予想以上に美しい音を奏でることに気が付いた。 俺は愛の夢を弾くことよりも、音の響きを楽しむことに集中してしまった。こんなに美しい音色のピアノを弾いたことが無くて、もしも相性があるとするならば、俺はこの子と相性がぴったりだと、直感的に思ってしまった。 こんな演奏をしたら、きっとピアニストの先生には相手にされない…そう思いながらも止めることが出来なかった。 色んな曲を弾いてみたくて、良いよと言われてもいないのに、立て続けに次の曲を弾いた。このピアノで見せる表情が知りたくて、幻想即興曲を弾いた。 いつものピアノよりも丸くてコロンとした音が可愛くて、すっかり夢中になった。 次は子犬のワルツを弾いて、悲愴の第1楽章も弾いた。 散々弾いて俺が言ったひと言はこれだ… 「ショパンが好き。サティも好き。ベートーベンも好き。バッハはあまり好きじゃない…」 すると太弦が大笑いして言った。 「でも、まだサティ、弾いてないじゃないか。」 だから俺は言った。 「今から弾こうと思ってました。」 口の立つ子供だった訳じゃない。なんだかこの人なら、怒らないで分かってくれるかなって思ったんだ。 「サティの何を弾くの?」 太弦の後ろに見える梅の木に緑色が見えたから、指を口元にあてて後ろを指さした。 「メジロ…あれがメジロです。」 小さな声で教えると、太弦が後ろを振り返ってメジロを確認した。 サティのジュ・トゥ・ヴを静かに弾く。 だってメジロがつがいで居たから。 「お前はジャズが向いている。」 俺の隣に座ってクスクス笑いながら言った。 それが最初のレッスンでの思い出だ。 「ちいちゃん…おトイレ行きたい…」 俺は無言で起きて鼓太郎をトイレに連れて行く。 当たり前だが、もう旦那さんの姿はなかった。 「こた、お熱測ってもいい?」 37、6度…さっきよりは下がったみたいだ。 鼓太郎にお水を飲ませて汗を拭いて、また寝かせる。 「ちいちゃん…雨降りくまの子歌って…?」 今?今なの? 俺は前も言った通り寝入りと寝起きが色んな意味で最悪に悪い…。 「…こた、明日じゃダメ?」 「ん~、ちいちゃん!雨降りくまの子歌って!!」 溜息をついて小さい声で歌う。 「おやまにあ~めがふりました~、あとからあとからふってきて~、ちょろちょろおがわができました~」 何とか歌い終わっても鼓太郎が満足しない。 …ダメだ、本当に…眠い… 「ちいちゃん!ちいちゃん!」 鼓太郎が呼んでるのに起きれない… 「パパ~!、パパ!」 旦那さん…来たの? 俺の髪に誰かが触れて耳元で低い声がする。 「千景、眠いの?」 「ねむい…」 小さくそう言って事切れる様に眠る。 6:00 目覚まし時計で起きる。 隣に寝ている鼓太郎のおでこを触る。 「あ…下がってる。」 一安心してベッドを降りようと後ろを振り返ると、旦那さんが椅子に座って寝ている。体をベッドに乗せて寝ている顔が可愛くて、今だけ眺める。 子供みたいな顔して…やっぱり鼓太郎に似ている気がする。 触れてみたくて手を伸ばして、止める。 髪の毛なら…気付かれないかな…。 そっと伸ばして癖っ毛の髪を指で掬って落とした。 「ちいちゃん、昨日、パパ、うたったよ?」 後ろで鼓太郎が目をこすって体を起こしながらそう言った。 俺は驚いて、ホント?と聞くと、鼓太郎は満面の笑顔で頷いた。 …俺が寝てしまった後、歌ってくれたんだ…。 この人が… 鼓太郎の為に… 嬉しくて涙がボロボロ落ちる。 眠ってる旦那さんの顔を見ると目をうっすら開けて顔を持ち上げた。 「千景…何で泣いてるの」 「嬉しくて泣いてます。旦那さんが鼓太郎に優しくしてくれて…嬉しい」 そう言って太弦に抱きつく。 嬉しかった。初めて鼓太郎を抱いたことも、ダメな俺の代わりに歌を歌ってくれたことも…、この人は俺が睡眠関係が苦手なのと同じように、人の気持ちを察することが苦手なだけなんだ。 優しい気持ちもあるんだ…。 そう思うと、嬉しくて…鼓太郎の笑顔を見たら、もっと嬉しくて涙が出た。 「千景…愛してる」 そう言って俺の体を抱き寄せて抱きしめる。 「ちいちゃん、お腹空いた。」 鼓太郎に言われてハッと気付いて、旦那さんから離れようとするけど、離してくれないからお願いする。 「旦那さん、ご飯を作り位に行きたいので、もう離してください。」 「嫌だ…このまま抱いてもいいか?千景…もう我慢できないよ…」 信じられない… 「旦那さん、ご飯を作りたいから離してください。」 大きな手で体を手繰り寄せる様にして俺を自分の方に持っていく。 俺の足の間に体を入れて、そのまま覆い被さってくる。 俺の上に体が乗って…顔がすぐそばに見える… 「ちいちゃん…パパと遊んでるの?」 最悪だ! 俺は旦那さんの腹に足を付けて思いきり蹴飛ばした。 後ろに転がって椅子から落ちる旦那さんを無視して、鼓太郎を抱いて階段を降りる。 最悪だ…! せっかく喜んでいたのに、気分が最悪になる。 …鼓太郎が居なかったらそのまま抱かれてたのかな… 最悪だ!! あのマネージャーにもどうせ同じ事したんだ。 姉さんにも… 同じ事したんだ… 「ちいちゃん、怒ってるの?」 俺は鼓太郎の方を向いて笑った。 「旦那さんがプロレスしたから、ちいちゃんが蹴飛ばして、ちいちゃんの勝ちになったんだよ?でも、危ないからこたはしちゃダメだよ?」 「ちいちゃん、強いね!こたもやっつけて!」 こたがそう言ってソファの上に立つから 「こら~~!あっぶないだろ~~!」 とふざけて言ってこたを捕まえてソファに降ろしてこちょこちょの刑にした。 「あははは!ちいちゃん!あははは!」 「まいったっていって?こた、まいった?」 「やだよ~!まいってないもん!」 そう言って逃げるこたを追いかける。 「千景、痛いよ…」 階段から旦那さんが下りてきて俺に言う。 「わ~、パパだ」 こたがそう言って旦那さんの足元に隠れる。 「ん!ズルいぞ!こた~!」 俺は鼓太郎の熱が下がったのが嬉しくて、この人が少しでも鼓太郎に優しくしてくれたのが嬉しくて…最悪な気分になっても、機嫌がよかった。 「店長、おはようございます。千景です。はい。あ、大丈夫です。ふふ、すみません。こた、熱は下がったんですけど、念のため今日も休ませてください。はい、すみません。よろしくお願いします。失礼します。」 朝ごはんを済ませて片づけをして、店長にお休みの連絡を入れた。 電話を切って、こたを見ると小さな折り紙で何かを折って遊んでいる。 「こた?今日は保育園お休みするね。明日から行こうね。」 「わ~い」 …わーい、なんだ。 「ちいちゃんの、てんちょ~さん、やさしいから、こた、大好き~!」 確かに、こたを自然に抱っこしてくれて、凄く頼りがいがあった。 女の人はああいう人と結婚した方が良い。 店長にはシングルマザーとか、しっくりくるんじゃないかな… 目の端に緑の鳥が見えて梅の木を見る。 チョンチョン可愛い小鳥がとまっている。 「こた、見て!メジロがいるよ。ほら、可愛い!」 俺が言うと一緒に中庭の方に視線を向ける。 「ちっちゃい鳥さん、可愛い!」 「こたみたいだね?」 「ふふふ~」 ホント、可愛い!! 俺たちが中庭の梅を見ていると、作業部屋の窓から同じように旦那さんもメジロを眺めていた。 目が合うと、彼は微笑む。 俺はそれを無表情で受けて流す。 中庭の緑が激しく暴走してる…先生は庭の手入れをした方が良い。 蝉の声がうるさいくらいの7月。 俺は10月開かれるコンクールの課題曲を練習していた。 「コンクールで評価を受けるには、楽譜通りに弾かなきゃダメですか?」 「さぁ、知らないよ」 返答があまりにも適当で、おかしくて笑った。 「先生、酷いな。俺はその為にレッスン受けてるのに…」 課題曲の練習をしなくちゃいけないのに、先生はいつもおしゃべりばかりだ…。 「千景、何か美味しい物でも食べに行かないか…」 「…先生…。俺、課題曲の練習したいです。」 「そうか…でも、お前の嫌いなバッハだな。」 そうなんだ、嫌いじゃない…苦手なんだ。 この意識を克服したい…じゃないと、弾いていて楽しくないんだ。 「何で?何で嫌いなの?」 俺の隣に座って尋ねてくる。 何で嫌いか…。 「顔が…嫌い」 隣で盛大に笑われてちょっといらっとする…。 ファーストコンタクトって重要だと思うんだ。しかもカツラが似合っていない。 「あと、バッハの曲は怒られることが多くて嫌い。単調で、硬くて、退屈…」 好き勝手言ってるけど、全部負け惜しみだって分かってる。 上手な人が弾けばとても美しい旋律なんだ… 俺が弾くから、単調で、硬くて、退屈になってしまうんだ… 「じゃあ、俺が弾いてみよう。」 俺の隣で突然先生が弾き始める。 「インベンション」 手がしなやかで、大きいのにすごく繊細に動く。 単調で…まるでテレビゲームのお城用の音楽に聞こえていたインベンションが、全く別の曲に聞こえる。 問題は、俺がこの壁を越えられるかって事だ…拒絶反応が半端ない。 「先生が上手いのは知ってる。だって先生だから。俺はそんな風に弾けない。」 「じゃあ、千景の好きになるインベンションはどんな物なの?」 俺の好きになるインベンションは面倒くさい事言われないやつ…。 「チェンバロの音が嫌い、バリバリしていて嫌い、スーパーの袋みたいな音。」 身も蓋もない事を言って、ごねる。 …ごねても意味ないのに、馬鹿みたいだな… あっという間にレッスンの時間が終わる。 「千景、面倒なこと言わないから、次は弾いてみるんだよ?」 くぎを刺された。 「はい…」 両親は太弦の所に通いだした俺がサボってばかりいると思っている。姉さんが説得して未だに通い続けているけど、家での練習も、特訓の様な物もない。怒られることもないし、ピアノを弾かない日だってある。 これで入賞したら先生は神様か何かだな… 姉さんが迎えに来るまで先生の家で過ごす。 「先生のお父さんとお母さんは?」 「いないよ」 「いつから?」 「小さいころに亡くなったみたいだね」 「…そうなんだ、でもピアノが上手なのはどうして?」 俺が聞くと先生はまた大笑いして言った。 「別に親が居なくてもピアノ位弾けるようになるだろう?」 「そうなの?俺は親がやれって言うから始めた。姉さんが上手だったから、ついでに始めた。今になってもてはやされてるけど、命令されて弾くのは好きじゃない。縛られて楽しむものじゃない。」 審査員と波長が合ったのかな、今でもまぐれだと思ってる入賞ラッシュに俺自身が付いて行けていなかった。期待されればされるほど、ピアノを楽しめなくなるのが嫌で嫌でたまらなかった。 「音が好きなだけじゃダメなのかな…綺麗な音が出せて、嬉しいだけじゃダメなのかな…訳の分からない楽譜を渡されるより、好きで気に入ったものだけ弾いていたい…」 俺の話をじっと聞いてる先生がずっと笑ってる。 「面白いですか?」 「ん、面白いし、可愛いやつだなと思った。」 今まで誰にもそんな風に言われたこと無い…ほかの先生とは喧嘩ばかりして、両親に怒られて、姉に説得されて…続けてきたピアノ。 「課題曲が好きなやつだけ出てみれば?」 「それが出来たら悩まないで済むのにな…」 ピンポンと音が鳴って先生が玄関を開ける。 ワンピースを着た姉さんが立っていて先生を見上げて微笑む。 そうだ、姉さんは先生が…太弦が大好きだった…   「ちいちゃん、鳥さんいなくなったね…」 本当だ、いつの間にかいなくなった。 「こた、お散歩行こうか…」 「良いの?行く行く~!」 近所なら平気だろう… コンコン 近づいてくる足音がして扉が開く。 「旦那さん、鼓太郎とお散歩に行ってきます。」 「俺も行くよ。千景」 先生は…太弦は俺が好き… 「こた、あれなんだ!」 近所の公園に来て空を見上げる。 細切れの雲が流れてくるから、形を見ながら遊んでる。 鼓太郎の言うことが面白くて、何回も聞いてしまう。 「ちいちゃん、あれは…」 わくわく 「猫のうんち」 「あははは!!こた!すごいぞ!本当だ!猫のうんちに見える!」 子供ってすごいな。 病み上がりだからあんまり激しくは遊ばないようにしている。 ブランコに乗せて後ろを押してやる。 「こた、手を離しちゃダメだよ?」 「うん!もっと、もっと押して!」 落ちるんじゃないか怖くてこれ以上押せないよ…。 「押してるよ!」 嘘を付く。 旦那さんがベンチに座って遊ぶ俺たちを見てる。 「パパ~!」 鼓太郎が走っていくと旦那さんは困ったように俺を見るから、頷いて抱きとめてもらう。 歪だ… 砂場で遊ぶ鼓太郎を2人で並んで見守る。 「千景も砂遊びする?」 こちらを覗いて旦那さんが言ってくる。 腰に感じる温かさが心地よくてつい長居をしてしまった。 「こた、トンネル掘る?」 「ほる~!」 腕まくりをして砂の山を作り、腕まくりをさらに上げて腕の根元まで突っ込む勢いで掘る! 「こたも、そっちから掘って!ほら、掘って!」 いやだ~、と言って急に砂に汚れるのを嫌がりだした。 「俺が遊んでやろう」 旦那さんがそう言って、砂の山を挟んで俺の向かいにしゃがむ。 鼓太郎が喜んで自分の父親を応援し始める。 ボタンを外してシャツの袖をまくって砂の山にトンネルを掘り始める。 丁度、山の真ん中で開通して旦那さんの手が触れる。 砂だらけの手で俺の手を掴んで指を絡めてくる。 最低だ… だから、俺は旦那さんの手を握って思いきりこっちに引っ張って転ばしてやった。 「あはは!」 「こら!千景!」 「ちいちゃん!パパかわいそう!」 鼓太郎に怒られてしょげる… 俺が相手すれば、太弦は鼓太郎と仲良くできるのかな… 姉さんにしたことも、鼓太郎を捨てようとしたことも、許して… 前みたいに…したら上手くいくのかな… こんなに楽しそうに鼓太郎がしている。 …俺もこっちの方が楽しい。 太弦もそうでしょ…? 彼の顔を見る、目が合って微笑んでくるから微笑み返す。 心があったかくなって溶けていく。 太弦、好きだ。 「千景…大好き…」 俺が高校に入ると、先生は事あるごとにそう言って俺を抱きしめた。 初めはただの親愛の意味だと思っていた。それくらい俺と先生は仲良くなっていたから… 「先生?調律するのいつだっけ?俺も見たいな。」 「良いよ、今週の土曜日だよ。おいでよ、千景」 「良いの?」 「もちろんだよ」 グランドピアノの調律に立ち会えるのが嬉しくて俺は素直に喜んでいた。 その頃になると、俺のバッハ嫌いは少し緩和されていて、インベンションもファンタジアも何となく自分好みに弾けるようになっていた。 先生の指導も、無理矢理弾かせるのではなく、おしゃべりしながら本人の苦手を聞き出して、良い方向に誘導してくれているのだと、勝手に解釈していた。 「千景、学校は楽しい?」 「楽しいよ。友達も沢山出来た。」 「お前ならすぐ出来るだろうな…」 「そんな事ない…俺は人見知りだから」 プッと吹き出して俺を後ろから抱きしめて言う。 「お前が人見知りなんて.絶対信じない」 背中に当たる先生の体温が温かくて、変な気持ちになった。大好き、と言われ続けたせいなのか、意識してるのか…この人は男性なのに、まるで女性に対する様に自分を誘ってる様な…そんな気になってしまう。 ドキドキ勝手にして、固まって、抱きしめられた先生の手を手で触る。 「なんか…女の子って…こんな気持ちなのかな?」 「ん?どんな?」 「わかんない。でも、すごくドキドキするんだ…」 「千景、ドキドキするの?」 俺を自分の方に向かせて、顔を見下ろして優しく聞いてくるから、やけに素直になって答えてしまう。 「先生にされると、ドキドキする…」 「嫌じゃない?」 「嫌じゃ…ない」 俺を正面から抱きしめて腰を締め付ける。 これって…これってもしかして… 「先生、俺の事好きなの?」 ふふっと耳元で笑われて、顔が熱くなる。 体を離して見上げる俺のおでこに自分のおでこをつけてくる。 …近い… 俺の目を見ながら言ったんだ。 「ずっと、そう言ってるじゃん…」 耳が…顔が…熱くなる。 恥ずかしくなって体を離そうと両手で先生の体を押すと、逆に背中に手を回されて抱きしめられる。 「千景…大好きだよ…お前が欲しい…」 そう言って、腰を引き寄せられて仰け反る首元にキスされた。 「あ、先生…待ってよ。待って!そんな!」 俺が事態の展開に焦ってパニくると、先生は一旦離れて俺の顔を覗き込んだ。 「千景は…俺の事好きじゃないのか?」 大好きだよ。大好きだけど… 「先生…俺は女じゃない、どちらかと言うと男だ。男と男はそうならない。」 俺がそう言うと先生は悲しそうな顔をして俺から離れた。 やめちゃうの?なんて一瞬思った事。 密着した身体が離れた時に、出来た空間に風が入って寒く感じた事。 このまましていたら…と思う気持ちを抱えて悶々とした中、レッスンした。 それからはトントンだ。 なし崩し的に告白されていた事に気付いて、その気になった俺は先生を男性だと認識しながら意識した。 「ここは楽譜通りに弾いた方が綺麗だ。」 そう言って譜面を見ながら前屈みになって、俺の背中に当たる先生の体にドキドキする。 「千景はどう思う?」 顔を傾げて俺を見下ろす先生に顔を赤くしてしまう。 家に帰っても、布団に入っても、そのことばかり考えて悶々とする。 この気持ちは、寝入りの間の時間に顕著に現れる。 自分のを触って、先生で抜く。 間違ってる… 分かってるけど、止められなかった。 「あっあっ…先生!…はぁはぁ…あぁ…また…またやっちゃった…はぁはぁ…」 手に着いた自分の精液を見て落ち込む。 「千景、いらっしゃい。今日は、どこから始める?」 我慢できなかった… 悪戯に刺激された俺の恋ごごろは急に加速して止まらない。 先生の後ろ姿に…たまらなくなって抱きついた。 「先生…ねぇ…俺おかしいんだ。先生が好き…」 先生の腹を両手で抱きしめて、服を掴む俺の手に手を添わせて指を絡めて先生が言う。 「はは…俺の事が好きだと、おかしいの?」 おかしいよ…だって俺は男だから… そんなことも分からないの… 目を瞑って先生の温もりを感じる。 ずっとこうしたかった… 今俺の腕の中に居る。 「先生が好き…」 「俺も千景が大好きだよ…」 そう言って体の向きを変えると正面から俺を見下ろす。だめだ、すごくカッコいい… 顔がどんどん降りてきて、これはキスするの…?俺は顔を見上げて先生の瞼が降りていく瞬間までうっとりと見つめる。 「先生…!なに、なにするの…?」 雰囲気もへったくれも無い、怖かったから我慢できずに聞いてしまった…。 おでこを付けて笑う顔に釘付けになる。 「千景に…キスしても良い?」 そう聞かれて…小さく頷くしか出来なかった。 人生で…初めてのキスを最高に好きな人と出来た…柔らかくて、繊細で、温かい。 顔を離して俺の頬を撫でる手にうっとりとしてトロける。 骨抜きにされた。 俺は男を好きになった… 「お昼ご飯、ハンバーガー食べたい!」 病み上がりにきつくないか? ラッキーセットのおまけが欲しいのか… 仕方なく家に帰る途中、バーガーショップに寄って3人分買う。 「こた、3番のおもちゃがよかった!」 分かるよ…でも、もう品切れしてたんだ。 「こた、4番のおもちゃもかっこいいのに…」 「先生…」 歩く俺達の後ろから声をかけられて振り返る。 旦那さんのマネージャーの藤森さんだ。 「お散歩ですか?仲が良いですね。」 俺は振り返った体を戻すと、鼓太郎を連れて先を歩いた。 微かに聞こえる話声に耳を澄ます自分が嫌になる。 「先日の件で、お伺いしました。先方からやはり指揮の依頼をお願いしたいと言われまして、先生?いかがですか?5月10日、ご予定が無いようでしたら、今後のキャリアも考慮して一度お受けするのが良いと思いますが…」 あぁ…5月10日は俺の誕生日だ。 「その日は無理ですね」 「でも、スケジュールには空きがありますよ?」 この人…太弦と寝たのかな… 勝手に俺がそう思ってるだけかな… チラッと後ろの2人を見る。 藤森さんが太弦の腰を触っている…普通そんなことしない。 「ちいちゃん、4番のおもちゃのどこがかっこいいの?」 「ん~、4番のおもちゃは赤いでしょ?赤はね、リーダーの色だよ?」 こたを抱っこして回す。 お前が居れば、それでいい…抱きしめて前を向いて歩く。

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