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No3
家について玄関を上がって、洗面に行って手洗いうがいをする。
「おなか、すいた~」
鼓太郎がごねる前にハンバーガー出しちゃおう…。
「あれ?どこいった?」
旦那さんがハンバーガーの袋を持ったまま作業部屋に行ってしまったのか…
…嫌だな
作業部屋の扉の前に立つ。
中から声が聞こえて立ち尽くす。
絶対やってる…そんな声が聞こえる。
心のうろこが逆立っていく。
痛くて、心臓が止まりそう…
コンコン
ノックをして待つ。
奥から慌てて歩いて来る音がする。
太弦…分からないよ
ドアがいつもより遅く開いて、髪の乱れた旦那さんが顔を覗かせる。
「鼓太郎のお昼、返して」
分かってる。俺には関係ない。
俺の言葉に後ろを振り返って袋を探す間、その女がいる場所は俺が昔いた場所だよね…
逆立ったうろこがまた1枚剥がれる。
全部剥がれたらどうなるんだろう…
下を向いて待つ俺の手元に袋を差し出して、ごめんと言った。
「俺の…俺のピアノの前でやめてよ…」
小さく言ってその場を立ち去る。
この人は誰とでもエッチするのかな…
俺の事だって、そこに居たから誘っただけで…
特別な訳でもなく…ただ、そこに居たから…愛しただけなんだ…
ダイニングテーブルに渡された袋を置いて、待ち遠しく待っている鼓太郎に4番のおもちゃを渡す。
「わ~い!リーダーの色だ!」
旦那さんの分は別に置いておく。
鼓太郎と自分の分を出して、椅子に腰かけてハンバーガーを食べる。
今、まさに俺のピアノの前で…事に及んでいる中で…
「こた、後でお店に行ってみない?」
「ちいちゃんのてんちょうさんの?」
「うん、お礼しに行きたいの、良い?自転車で行こう?」
「わ~い!」
俺が傷つくと思わないの…
そんなことして俺が傷つくと思わないの?
「お前と一緒に居たかった…千景、愛してる」
「…じゃあっ!何でっ!姉さんと…赤ちゃんつくってんだよ!」
楽譜の束を投げて太弦にぶつける。
信じられない!
信じられない!!
あんなに愛してるって言ったのに!
この男は…俺の、俺の姉さんを妊娠させた!!
「俺の事は?愛してないの?なんで、なんで抱いたんだよ!」
取り乱して泣きわめく俺を抱きしめようと近づいて来る太弦に楽譜をぶつける。
目のまえのピアノが俺を嗤ってるみたいに見えて。
この部屋の中の物が、全部、俺を嗤っているみたいに見えて…
「愛してたのにっ!」
膝から崩れ落ちて突っ伏して泣く。
「酷い…酷いよ…あんなに愛してたのに…太弦…なんで、なんでだよ…」
「千景、千景…どうして…俺はお前を愛してる!」
俺の体を捕まえて抱きしめて、やっぱり温かくて…愛しく思って、おかしくなりそうだ。
高校2年生だよ…?男を受け入れるのだって抵抗があった、女みたいに抱かれる事にも抵抗があった。それでも、それでも…愛してるから、愛してるから…
なのに…こんな事って…意味が分からないよ…。
「千景、愛してるよ」
「…じゃあ何で姉さんと結婚したの?」
床に落ちた楽譜をソルフェージュしてしまう。
頭の中にメロディが流れてきておかしくなりそうだ…
「ずっと一緒に居たいんだよ…」
太弦は苦しそうにそう言って、俺を強く抱きしめてすすり泣く…
「分からないよ…太弦の言ってる事、全然分からないよ…」
頭の中に彼の作った曲が流れる…
綺麗なメロディにうっとりする。
こんな最低な人が作った物がこんなに美しいなんて…最悪だ
俺はゆっくり立ち上がって部屋を出る。
「千景!行かないで!」
弄ばれたの…愛してなかったの…俺は本気になってしまったのに…
こんなに潰れてしまいそうになるくらい、あなたを愛してるのに…
「千景、待って!待って!!」
掴まれた腕が抜けても構わない…もういらない。
もうピアノなんてしない…
あなたを思い出すから、もう弾かない…!!
「先生…俺…もう、ピアノ弾かない…もう、やめる…さようなら…」
悲しい…辛い…愛してた。
立ち止まらない俺を引き留められないで、ただ立ち尽くしてたよね…
いいじゃないか…遊んだだけなんだから…何をそんなに悲しむことがあるの…
俺の心はその時、もう、あなたを手放したんだ。
「鼓太郎!行くよ!」
「わ~い、しゅっぱつしんこう~!」
自転車をこいで風を受ける。
もう春だ!あったかい!
後ろに乗った鼓太郎も楽しそうに俺の腰をトントン叩いて遊んでる。
あっという間に保育園を過ぎて、桜並木の通りに出た。
お店の前に自転車を止めると店長が出てきた。
「千景!相変わらず可愛いな。」
「てんちょう!こた、元気になったよ?ありがとう!」
言われなくてもちゃんとお礼が出来るなんて、やっぱり鼓太郎はいい子だ。
パートのおばちゃんにお礼を言いつつ席について、鼓太郎が好きそうなケーキと飲み物を注文する。
「あれから、大丈夫だった?」
「ん、大丈夫です!」
店長は俺の顔を覗き込んで心配そうにする。
携帯が鳴って太弦から電話が来た。
「もしもし、今鼓太郎と外に出てます。夕方に帰ります。はい。」
用件だけ言って切った。
女として良かったね。男とするより良いんだろ…。俺を抱くよりも。
「旦那さん、相変わらずだな。俺の殴ったところ、大丈夫だった?」
鼓太郎に聞こえないように小さい声で言ってくるから、大丈夫です。と伝えた。
「チョコケーキだ!」
鼓太郎にはチョコケーキとミルク。俺は紅茶を頼んで桜並木の見える席でのんびり優雅にティータイムを取った。
「明日は大丈夫なので、よろしくお願いします。あと、続けてお休みいただいちゃってすみませんでした!あと…あんな事してしまって、すみませんでした…」
俺の言った意味が分かったのか、少しばつが悪そうに頭を掻いて店長が言った。
「千景、俺は嬉しかったよ。お前が甘えるのが俺でよかった。」
俺も、他の男に抱かれればあの人の記憶が薄れていくのかな…
それとも、やっぱり忘れられなくて…この人を傷つけてしまうのかな…
俺と鼓太郎は店長にきちんとお礼を伝えてスーパーへ向かった。
「こた、お魚食べれるもん!ちいちゃん、お魚にして!」
もうすぐ新学期になって進級するから、鼓太郎は“お兄さん”の言葉に弱い。
「じゃあ、お兄さんな鼓太郎は、カレイの煮つけも食べられるかな?」
この前、家出して作り損ねたカレイの煮つけ…カレイを腐らせてしまったからリベンジする。
「食べられる!カレー、カレー!」
カレイを3切れ買って、お菓子売り場に行く。
「こた?お菓子何にする?」
鼓太郎が近くでお菓子を選ぶ親子を見ている…お父さんと女の子。
「こた?何が良いかな?」
そのお父さんみたいに鼓太郎の隣にしゃがんで同じ目線でお菓子を選ぶ。
「ちいちゃん、赤ちゃんみたいだよ?」
「ちいちゃんが赤ちゃんになったら、鼓太郎がお世話してね。」
俺がそう言って甘えると、鼓太郎はヤダー!と言った。
ひどくないか?普通に悲しいぞ。
仲良く買い物して、自転車に鼓太郎を乗せる。
しばらく自転車を押して、商店街の賑わいを鼓太郎と眺めて歩く。
「千景くん」
名前を呼ばれて視線を送ると、太弦のマネージャーの藤森さんがいた。
「帰られますか?」
短く聞くと、微笑んで頷いた。
「千景くんからもぜひ先生に言って頂きたいんです。5月10日に行われるコンサートで先生の交響曲の指揮をお願いされていて、キャリアの為にもぜひ受けて欲しいんですが、なかなか首を縦に振っていただけないんです。」
取り繕ったような丁寧な物腰、俺はあんたが好きじゃない。
「俺が言っても…」
姉さんの友達の癖に…人の物を欲しがったり、旦那を寝取るのが好きな人っているじゃない?この人がそうだ。
得意そうに、優越感に満ちた顔で俺に話しかけて…本当に汚い顔。
「ちいちゃん、帰ろうよ~」
「すみません、もうこれで…」
「ショックだった?」
急にラフな話し方になって俺を見て言う。
「お姉さんから聞いてたから、知ってるよ?ねぇ、ショックだった?」
「…失礼します。」
だから何だよ…知ってるからなんだよ…ショックだったらなんだよ…知ったところであんたに何の関係があるんだよ…。そんなこと知って優越感を抱いても、あんたには何も残らないのに、あんな最低な人間に何を求めてんだよ…
お前も太弦に捨てられれば良いんだ。
「ちいちゃん、いじわるされたの?」
「されてないよ…されてない」
魚の歌を歌って自転車を押して、にぎわう商店街を抜けた。
家について、自転車を止める。
一息ついて玄関を開ける。
ソファで本を読んでる旦那さんに、戻ったことを伝えて、冷蔵庫に買って来たものを入れる。
「千景、どこに行ってたの?」
「パパ!てんちょうさんのケーキ美味しかった」
どうせ聞いてないんだろ…教えてやらないよ。
「こた、お菓子どうぞ!」
「わ~い!」
俺は旦那さんを無視して2階に行き洗濯物を取り込んだ。
言う必要なんてない…関係ない、姉さんの友達と寝るような最低なやつ。
「千景、店長ってこの間の奴か?」
後ろで声をかけられても振り向かない。
「何で行ったの?」
部屋に取り込んだ洗濯物を座って畳む。
「千景、何で行ったの?今日はお休みしたんだろ?」
俺の手を掴んで自分の手でくるんで動きを止める。
俺は視線を上げて笑いながら言う。
「帰りに、藤森さんに会いました。5月10日のコンサート、指揮するように言って欲しいと言われました。良い事じゃないですか、指揮してください。」
「千景…」
くるまれた手を一つ、一つと外して洗濯物を畳む。
旦那さんは向かい合う様に座って洗濯物を一緒に畳む。
外から風が吹き込んで俺の髪が揺れる。
「わぁ、お日様の匂いがしますね…」
そう言って洗濯物を畳む。
視線の先に彼の手が見える。大きくて、指の長い…美しい手。
高校生のバカな俺はすっかり彼に夢中になって、レッスンそっちのけで太弦の求めるままに体も心も許していた。あまりにも無防備に全てを許して…まるで絶対に自分を傷つけない相手と信じてるみたいに…全てを許した。
「ん…はぁはぁ…せんせ、だめ…んん…」
舌の絡むキスを初めてされて仰け反って離れる。
「何で?何でベロなんて入れるの?」
「え?気持ちいいからだよ…」
「全然気持ち良くないよ、ビックリするだけだよ…!」
「それは…気持ち良くなる前にお前が離しちゃうからだろ?」
そう言って俺の頭を手で支えてまたキスしてくる。
俺の唇にキスして、先生の唇が開いていく。
また舌が俺の口に入ってきた…
あわせるだけで気持ちいいのに…何でわざわざ舌なんて入れるの…そんなの気持ち悪いのに…
俺の口の中に入った先生の舌が俺の舌を絡めて吸う。
頭がジンとして背筋がゾクゾクする。
先生の胸板に置いた手がフルフル震えて彼の服を掴んで耐える。
口から漏れる息がいやらしくて…恥ずかしい。
「…千景、気持ちよかったの…」
俺の顔を見下ろして先生が聞いてくる。
赤くなった顔…トロけた目…優しく頬を撫でてくる手に熱い愛情を感じてトロける。
「もっとしたい…」
先生の首に手を回して、少し背伸びして顔を寄せる。今度は俺が先生にキスして舌を入れて絡めた。
思春期とか…年齢のせいか…俺はどんどんエスカレートしていった。
レッスンしていても、先生をドキドキして見つめて、目が合うと、どちらともなくキスする。
もう先生が男とか…俺が男とか…どうでも良くなって…ただひたすら大好きで、甘えて、くっついていたかった。
「千景、おいで…」
「先生…大好き…」
レッスンしなくちゃいけないのに、部屋に入るなり俺が向かうのはピアノの前じゃなく先生の前だった。キスして抱きつく。家に帰りたくなくなる。このままずっとこの人のそばに居て、ずっとうっとりしていたい。
先生がキスしたまま俺を持ち上げてソファに寝転がす。
「先生、何するの!」
この先の展開は男女ではどうなるのか知ってる。男同士だと、どうするの…?
キスだけでこんなに気持ちいいんだから、それ以上しなくても良いじゃないか…
「キスすると、千景のここが大きくなるよ」
そう言って俺の顔を見下ろしながら、俺の股間をズボンの上から撫でた。
「や!やめて!だめ!」
「千景、キスして」
俺の股間を撫でながら先生が俺に言ってくる。
トロけた顔の先生に恥ずかしくて顔が熱くなる。
先生の顔に近づいて言われたとおりにキスする。
股間を撫でながらキスすると、すごく気持ち良くてどんどん大きくなってしまうのが分かる。
「や、やら…せんせ…だめ…」
恥ずかしくてこれ以上は出来ない!
顔を離して自分の股間を見下ろす。
服の上からでも分かる膨らみに恥ずかしくて目をそらす。
「千景、可愛い、怖くないよ…」
俺の反応を見て先生が覆いかぶさる様に俺をソファに沈めてキスする。
そのまま、また股間を触られて、今度はズボンの中に手を入れられる。
はずかしくて両手で先生の肩を押すけど、キスが気持ち良くて手に力が入らない…
俺のを生で触るとキスが一層激しくなって、頭がクラクラする。
先生が唇を離して見下ろす頃には、俺は完全にされるがままに惚けていて、俺の顔をうっとり見る先生に喘いだ。
「かわいい…」
「あっ…あっ…せんせ、らめぇ…んん…はぁはぁ…あぁ…ん、も、やらぁ…」
先生が俺のを触ってるって思うだけでもおかしくなりそうなのに、彼は愛しそうに俺を見て、自分のを触り始めるから、興奮が高まってイキそうになる。
「だめぇ!せんせ、やら…あっあっ…はぁはぁ…んん!イッちゃう!イッちゃうからぁ!」
「イッて良いよ…俺もイクから…はぁはぁ…千景…かわいいよ…」
そんな顔で見ないで…気持ちよさそうにする顔…初めて見た…
「あっああ!!」
先生にいじられてイッてしまった。
自分でやるより…もっと気持ち良くて、足が震えた…
物珍しかったんだ…俺があまりにも従順に従うから…からかったんだ。
本当、間抜けだよ…悲しいくらいに間抜けだ。
あんなに心を許して…!
大好きだった…
あの人が大好きで、ずっと傍に居たくて、もっと触れたくて全てを許した。
体に触れることだって、中に迎え入れることだって…全て、全て許した。
あの人の音色を独占したくて…触れていたくて…痺れていたくて…心の底から愛して捧げて、混ざってしまいたくて、全てを許してしまった。
あんなことされたのに
今だって…今だって……
未だに傍に居たくて…鼓太郎を利用してるみたいだ…
最低なのは俺だ…
「ちいちゃん、お魚どうするの?」
鼓太郎が可愛く聞いて来るから、俺も可愛く答える。
「鍋に入れてグツグツ煮ちゃうんだよ!」
「何味?」
「ん~、お醤油の味!」
そんなに魚が心配なの?本当に可愛い鼓太郎。
「みて?こた、このお魚、ほら、骨ないよ?」
「本当?本当なの?」
信用されてないのかな…
鼓太郎が見守る中、魚を下ごしらえして鍋に入れた。
「良い匂いがするね?」
鼓太郎さんのオッケーが出たので、お味噌汁を作る。
「こた、お味噌汁に何入れて欲しい?」
「ん~、大根と、お豆腐と、ネギ!」
シンプルだね!
俺は冷蔵庫から大根と豆腐とねぎを出した。
まな板に載せてトントン、ザクザク切っていく。
だしを取った鍋に入れてお味噌を入れる。
「ちいちゃん、良い匂いがするね」
俺の傍にきて良い匂いの報告をする鼓太郎が可愛い。
鼓太郎を抱っこしておでこを合わせて回る。
「こた、ダンスしてるみたいだ!」
「ふふふ、ちいちゃんとダンスしてる!」
俺はショパンの華麗なる大円舞曲を口ずさみながら鼓太郎と回って踊った。
いつの間にか旦那さんがマグカップを持って突っ立てるけど、気にしない。
「こた、くるっと回って!」
鼓太郎と片方の手を繋いでくるりと回す。
「あはは!上手!鼓太郎はダンスを習おうか?」
「わ~い!」
弾けるような純真さ…が俺の手を繋いで回って踊る。
愛おしくて抱きあげて回る。
「最後は一気にたたみかけるんだよ~!」
鼓太郎をソファに転がして、華麗なる大円舞曲を終わる。
「あ~、ちいちゃんのせいで目が回った!え~ん!」
「あははは!やっぱり最後に回しすぎた!」
鼓太郎を半泣きにさせて後悔した。
「千景、上手だったよ」
「旦那さん、言葉使いが違いますよ。」
俺はそう言って笑うと訂正させた。
もう放してあげよう…この人も自分も…
「ちいちゃん、嫌い!」
「こた~!ごめんね、もうしないから!」
鼓太郎の為にお魚をほぐして渡す。
俺を見つめる旦那さんの視線も気にしない…
「鼓太郎がもうすぐで年少さんのクラスになるんです。年少さんの次が年中さんで、その次が年長さん。その後は、小学校に上がって、6年生になったら中学生!あっという間に高校生になって…大人になるんです。楽しみでしょ?」
俺が笑って言うと旦那さんは視線を外した。
あれ…
いつも見つめてくるのに…まぁいいや、きっと俺の話なんて興味がないんだろう…
「こた、どんな大人になるの?楽しみだな!」
「こた、ピアノする~!」
「だめ~!」
ピアノなんて絶対させない。俺の鼓太郎はダンサーになるんだから。
鼓太郎をお風呂に入れて、ベッドに寝かせる。
熱も上がってこない。明日は保育園に行けそうだ…良かった。
「おやまにあ~めがふりました~、あとからあとからふってきて~、ちょろちょろおがわができました~」
お腹をポンポンポンポン優しく叩いておでこを撫でてあげる。
虚ろな顔が可愛くてたまらない。
子供ってすごいな…こんなに小さいのに、強い。
俺も子供になりたい…こたと友達になって、いっぱい遊びたいな…
ピアノなんてしないで、鼓太郎と遊べばよかったな…
鼓太郎を寝かしつけて、階段を下りて1階へ行くと作業部屋の明かりが灯っていた。
仕事が忙しいってどんな感じだろう…
キッチンの洗い物をして、拭いて、戸棚にしまう。
旦那さんがマグカップを持ってやってきて、俺の傍に来る。
「遅くまで大変ですね、俺は片付けたら寝ます。」
「千景、どうして笑ってるの?」
「それは、秘密です」
特に理由はなかったのに、そう言ってソファに散らばった鼓太郎のおもちゃを片付けていると、俺の傍に来て太弦が言った。
「千景、笑わなくても良い。」
「旦那さん、太弦…もう、もうやめよう…俺、疲れた。お前の事、もう手放したい…でも、鼓太郎はお前の子供じゃないか…姉さんと、お前の子供じゃないか…。」
おもちゃを拾う俺の手を止めて、自分の方に引き寄せて俺を抱きしめて…
お前はいったい何がしたいんだよ…
「ねぇ…教えてよ…。俺の事、一瞬でも…愛してくれた…?」
胸に抱きしめられて涙が伝う…もう疲れた…
腕を彼の背中に回して抱きしめる…大きくて…温かい。
「太弦…愛してたんだ…ものすごく、お前だけ、愛してたんだ…馬鹿みたいだよ。1人で夢中になって…いまだに離れられないでいるのは俺だけみたいだ…」
彼の体に頬ずりをして顔を埋める。
もう疲れた…
「俺の事…愛してたの」
「愛してる!どうして何度も聞くんだ!」
「じゃあどうして姉さんと!?藤森さんは姉さんの友達だったじゃないか!何であの人と今そんな風に体の関係を持つの?」
太弦の胸にしがみ付いて放したくない。もう、放したいのに、放したくない。
「千景…お前だけずっと愛してる。変わらない。ずっと愛してる。」
悲しいよ…
太弦を抱きしめる腕に力が入って爪を立てる。
「愛してるなら、どうして?どうして!ほかの女を抱くんだよ!そんな事したら、俺が傷つくと思わないの?俺は傷ついた。お前が姉さんを妊娠させたことも、藤森さんと関係を持ってる事も…俺は傷ついた…愛してたら…愛してる人を傷つけるようなことはしないんだ…お前は…お前は違うの?」
上を見上げて間近に彼の顔を見る。
俺を見てひどく悲しそうな顔をするから、両手で彼の頬を包んでおでこを付ける。
「お前は…俺を愛してるって言うけど、どうして…傷つけるの…?」
俺の顔を見て黙りこくる彼にキスする。
舌を入れて、彼の舌を絡めて、前みたいに…愛を込めてキスする。
もう疲れた…
「太弦…太弦…どうして何も言わないの…愛してないじゃん…お前はオレの事、愛してないじゃん…。悲しいよ…悲しい…だって、俺はまだお前の事…こんなに愛してるのに…」
俺がそう言うと太弦は目からポロポロ涙を落として俺の頬を両手で包み込む。
「俺だって、千景を愛してる…ずっと、ずっとお前だけ愛してる。」
「分からない…お前の言ってる事…全然分からないよ…あはは…前と同じじゃないか…これじゃ、前と…同じじゃないか…」
俺は太弦にもう一度キスする。そのまま彼の膝に跨って肩を両手で抱きしめる。俺のキスに応える様に舌を絡めて吸って俺の頭を痺れさせる。
「太弦…抱いてよ…もう疲れた…」
うっとりしてトロけて彼の顔にもたれて泣く。
俺の服の下に手を滑らせて体を撫でる。
腰から上に手を滑らせて俺の胸を撫でると乳首を触る。
快感で体が仰け反る俺の腰を掴んで服をまくり上げると胸元に舌を這わせる。
愛してるのに…傷つける人もいるの…?
愛されてないけど、愛してるから…彼に抱かれるの?
もう、どうでもよくて…
彼の服の中に手を入れて背中を撫でる。
久しぶりに感じた彼の素肌に気分が高揚して抑えられなくなる。服を脱がせて彼の肌を舐める。俺だけの…俺だけの太弦。どうして他の人に触らせるの?同じことをしてやろうか…悲しい。悲しい…涙が止まらなくて、それでも触れていたくて、彼の口にまたキスする。
素肌を合わせて抱き合って呼吸を感じて彼の存在を近くに感じて…ずっとそうしたかった。こうしてしまいたかった。もう疲れた…。もういい…。
「千景、愛してる…」
「嘘だ…」
もう良いんだ、太弦。もう良いんだ。
分からないんだろ…どうして俺が泣くのか、どうして悲しむのか…分からないんだろ。
可哀想な人。俺の愛しい太弦。
そのまま俺の中に入って腰を動かして、目の前の俺を快感で狂わせて、俺はお前のものだ。もう離れたくない…もう、良い…
「太弦…きもちいい…はぁはぁ…もっと、もっとして…俺の事…愛してよ…」
縋るように彼の胸に頬を寄せて頬ずりして、涙が全然止まらないのは彼に触れて歓喜しているのか、理解できない事が悲しいのかどちらなのかも分からない…。分かったところで、何かが変わる訳でもないのに…
俺の顔を見ながら腰を動かして、感じてる俺を見るのが好きなの…?だったらもっと乱れてあげよう…お前の為に全てあげる。もう何もいらないんだ…
鼓太郎のおもちゃが散らばるテレビの前で俺は太弦に抱かれた。
「千景…眠い?」
「眠くない…」
彼の体の上に体を添わせて指で撫でる。手のひらを滑らせて体のあちこちを触る。
「太弦…愛してる…俺だけの太弦…」
「千景、愛してる」
「嘘だ…」
良いんだ…いいんだ…
もう愛してほしいなんて言わないよ。
もう愛してないなんて、ごねないよ。
だから、どうかこのまま…お前の傍に居させてよ…
お前のピアノを聞かせて、酔わせて、狂わしてくれ…もう何も考えないでいいように
6:00 目覚ましが鳴って起きる。
隣の部屋の鼓太郎を起こして抱っこして階段を降りる。
「ちいちゃん、どうしたの?」
「なにが?」
鼓太郎が俺の顔を見て不思議そうにする。
「何かついてるの?」
「ちいちゃん、何で泣いてるの?」
泣いてなんかいないのに、鼓太郎が俺を泣いてると言った。
リビングについて、鼓太郎が鏡を持ってきて俺に見せる。
目の周りが赤くなっている。
「あぁ、こた、これは泣いてるんじゃなくて、昨日窓を開けて寝たら花粉が飛んできて、ちいちゃんは花粉アレルギーだからこうなっちゃったんだよ…大丈夫。ほら、涙は出てないでしょ?」
「…うん」
心配そうにしてる鼓太郎は本当にやさしい子だね。
俺は鼓太郎の頭を撫でると、キッチンで朝食を作った。
しばらくすると太弦が起きてきてダイニングテーブルに座る。
「千景、おはよう」
「おはようございます。」
俺の顔を見てやっぱり驚いた顔をする。
昨日、ずっと泣きながらしたからだ…。
「千景、目の周り…」
「ん?そのうち治るよ…」
このまま死んでもいい。もうどうでもいい。
そのまま鼓太郎の登園の準備をして、一緒に歌って家を出る。
「ちいちゃん、かなしいの?」
「悲しくないよ?鼓太郎はちいちゃんが悲しく見えるんだね。」
手を繋いでブンブン振りながら鼓太郎が言った。
「ないてるようにみえる。」
そうか…
「鼓太郎、巨大怪獣をやっつけて!」
「ちいちゃん…」
俺のフリにも乗ってこないで真剣な顔で鼓太郎が言う。
「ちいちゃん…こた、ちいちゃんがだいすきだよ。ずっといっしょにいてね。」
可愛い…。当たり前だ、お爺ちゃんになっても一緒に居る!
「ふふふ、あたりまえだよ!」
「お迎え来てくれる?」
どうして?
どうして…そんな事聞くの…?
「当たり前だよ、いつもちいちゃんお迎え行くでしょ?」
鼓太郎が何かを察して動揺しているみたいに見えた。
俺の中で何か変わってしまったのかな…
考えても仕方のない事だよな…
担任の先生に鼓太郎をお願いして、いつもの様に行ってらっしゃいと言うと、珍しく鼓太郎が泣いた。
「こた、どうしたの?」
「もう行ってしまってください。落ち着くと思うので…」
先生に促されて鼓太郎と離れる。
今までこんなに泣かれたことはなった。
家に着くとソファに太弦が座っていて、俺を見ると立ち上がった。
「千景、何が悲しんだ…」
そう言いながら俺を抱きしめるから、俺は彼の背中を抱いて抱きしめる。
「何も悲しくない。ただ、目の周りが赤いだけだ。」
そう言って彼の体に自分の体を押し付ける。
このままくっついてしまいたいな…消えてしまいたい。
太弦に吸収合併されて消えてしまいたい。
「あは!ねぇ!今、面白い事考えた!このまま俺が太弦にくっついて消えたら、お前はめちゃめちゃ優しいお父さんになれるし、俺はお前みたいにピアノが弾けるようになるよ。そう思わない?」
「そんなの嫌だ」
急にピアノが弾きたくなって、俺は走って太弦の作業部屋に行くとずっと触りたかったピアノに座った。
俺を追いかけてきた太弦が息を切らして大声を出す。
「千景、どうしたんだよ!」
うるさい音に耳が塞がる。
俺は指を口に当てて静かにするように言って太弦に聞いた。
「何が聞きたい?俺はワルツが弾きたい。」
そう言ってショパンのワルツ第7番嬰ハ短調Op.64-2を弾いた。
これがずっと頭の中を流れていたから…
でも、おかしい。
悲しいくらいの痛々しい音を出してピアノが泣く。
太弦が隣に座ってピアノを弾く俺を見てる。
3年前のあの日以来、ちゃんと弾くのは初めてだ…なのに、音が痛い。
俺の事嫌いなの…?
もっと可愛い音を出してよ…
前みたいに可憐でコロンとして、可愛い音色を出してよ…
今のお前は痛々しくて聞いていられない…
「下手になってしまった。音が…泣いてるみたいだ」
「お前みたいだな」
太弦を無視して、俺はショパンワルツ第14番を弾いた。
これをゆっくり弾くのが大好きなのに、なのに、音がどんどんぼやけて聞こえて気に入らない。詰まった音…こんな音を聞きたくなかった。
「太弦、弾いて…」
隣の太弦に弾いてもらう。
コロンとした音で変わらずの可愛さを出すピアノに苛ついた。
俺にはあんなにひどい音を出したのに…
「太弦がここで女とエッチばっかりするから!ピアノが腐っちゃったんだ!」
俺は頭に来てそう言うと、ピアノの前から退こうとした。
「お前がへたくそなんだ」
太弦がそう言って俺の手を掴む。
「ちがう、太弦がこのピアノの前で女とエッチばっかりするかピアノが腐ったんだ!!」
俺がそう言うと俺の腰を抱きしめて太弦が言った。
「お前みたいだな」
「そうだな、お前の言う通りだ。だから変な音になったんだ!」
俺はそう言って太弦の顔を見下ろした。
「千景、何でお前の姉さんとそうなったか話すよ。お前が、壊れるのが嫌だ。」
…なんの話だよ。壊れるってなんだよ…
俺は体に力が入って震えた。
そんな俺をピアノの椅子に、自分の隣に座らせて両手を握る。
「ごめんね、千景。ごめんね…」
そう言って太弦が離し始めた。
あれは千景が高校2年生の夏。
俺は千景の姉さんに話があると言われた。
ピアニストの姉の話だ、レッスンの内容に関するものだと思って自宅に呼んだ。
千景がいないと…通訳がいないとまともに話の出来ない俺に、何の用があるのだろうか…。
「どうぞ」
約束した時間通りにチャイムが鳴り、千景の姉が現れた。
ダイニングに案内してコーヒーを出す。
「人と話すことが苦手で、不快にさせるかもしれない。」
初めに言っておかなければいけない重要事項を伝える。
「太弦先生。単刀直入にお聞きします。千景とはどのような関係ですか?」
「レッスンする生徒と先生ですが…」
「それ以上の関係をお持ちではありませんか?」
千景の姉は怒っているのか、悲しんでいるのか、俺には分らなかった。
千景はまだ子供で、さすがのオレもそれはいけない事だと知っていた。しかし、どのように言えば良いのか考えあぐねていると、千景の姉が言った。
「脅すわけではありません。あの子の人生です。しかし、この事をうちの両親が知ったら、きっと千景は先生のレッスンを止めることになります。」
「それは、困る。俺はあの子がいないと生きていけない。」
千景の姉の表情が歪んだのが分かった。
しかし、どのような感情からかは分からない。
「先生は、千景のどの部分に惹かれてそのような感情をお持ちですか?」
「あの子は、まるで感性の塊の様で…ピアノを弾くにしても譜面通りに弾きたがらないで自分の思ったイメージに合わせて弾きがちだ。だが、俺はその時の音色がとても好きなんだ。純粋で繊細で…おおらかでのびのびした感性が音楽だけでなく、例えば風が吹けば匂いを感じて、雨が降ればカエルの為に喜ぶような、そんな他とは違う、彼の感性が好きだ。」
俺がそう話すと驚いたような顔をして千景の姉が言った。
「驚きました。先生は本当に千景が好きなんですね。あの子は確かに変わった子で、普通のレッスンでは先生との相性が悪くて続かないんです。でも、入賞を繰り返すうちに両親に欲が出て、千景を個別でレッスンしてくれる講師を探していました。それで、太弦先生の話を聞いて私が両親に勧めました。しかし、ピアノレッスンがこんなことになるとは思ってもみませんでした。あの子は普通の子です。普通に恋愛して、普通に家庭を持って、私はそんな未来を想像していたんです。」
中庭の木に蝉がとまったのか、やけにうるさく騒ぐから俺は席を立って窓を閉めに行った。
「先生、一度レッスンが終わる前にこちらに上がったことがあるんです。その時、見てしまいました。千景をソファに寝かせて、先生が何をしていたのかを…。」
言葉に困った俺が正面の席に戻ると千景の姉が続けて言った。
「先生の演奏を以前拝聴しました。それから私は先生の事を慕っています。私のお願いを聞いてくださるなら、千景の事は両親には話しません。こんなことして、最低だとお思いかもしれませんが、私には時間がないのです。余命も知れて病気の身です。最後は愛する人と居たいと思ってしまったのです。」
涙を落として泣く姿に悲しいのだという事を理解した。
「お願いとは何ですか?」
「私を抱いてあなたの子供を作ってください。そして籍を入れてください。私の夫になって子供の父親になってください。」
千景…
お前と会えなくなるなら死んだほうがましだ…
「す、少し考えさせてください。あの子の顔を見てから考えたい…」
千景の姉の表情は強くて、決して冗談で言ってるようには見えなかった。しかし、あの子の姉の夫になり、子供を作って父親になるなど、あの子を裏切るようなものではないか…
「先生、私には時間がありません。どうぞ早いお返事お待ちしております。」
そう言って、千景の姉は帰って行った。
「太弦?今日はピアノの練習をしたい。姉さんに怒られた…。運指の練習がしたい。」
そう言ってあの子はキスも早々にピアノに座って椅子を直した。
「千景、もっと触らせてよ。」
「ねぇ、太弦?きらきら星変奏曲で連弾って出来る?」
「出来るよ、何でも出来るだろ?」
俺がそう言うと、首を傾げてきらきら星変奏曲を弾き始める。
確かに運指がもたつくが、そんなに悪くない。
「姉さんは厳しいな…もっとゆっくり弾けば良いだけなのに」
俺がそう言うと千景が笑った。可愛い笑顔で、笑って俺に言った。
「太弦は先生なのに、全然ダメだね。先生はこういうのを厳しく言わなくちゃダメなんだよ?でも、太弦は俺の好きにさせるから、だから先生には向いていないんだよ。」
あの子の隣に座って髪の匂いを嗅ぐとピアノを弾きながら俺に体を寄せてくれる。
「バッハは好きになったの?」
「ふふ、嫌い」
「いつになったらバッハを好きになるかな…」
「チェンバロが嫌いだから、多分ずっと好きじゃない。」
おかしくて笑うと一緒になって笑う、可愛い人。
「太弦?蝉の声が聴きたいよ。窓を開けて?」
「良いよ」
部屋の窓を開けると部屋中に蝉の鳴き声が響いてうるさいくらいなのに、あの子は笑って喜んで言うんだ。
「蝉の鳴き声に合う曲は?」
俺は考えるふりをしてあの子の体をそっと抱いた。
お前と離れるなんて考えられないよ…
せっかく開いた心がまた閉じてしまいそうで恐ろしくなる。
俺を許してくれるかな…
彼の姉の言うとおりにしたら、俺を許してくれるかな…
それとも、傷ついて離れて行ってしまうかな…
会えなくなるよりは…
そして俺は彼の姉を身ごもらせて、籍を入れた。
そして、彼は俺のもとを去った…
悲しすぎて何も手につかなくなって、ピアノを見ては千景を思い出した。
それでも仕事は絶えず来て、俺に追い打ちをかける。
愛してたのに…!!
千景の言った言葉が頭の中をめぐって重くなって沈んでいく。
会えなくなるのが怖くてそうしたのに、千景を失った。
しばらくして、千景の姉が入院したと連絡があった。
正直どうでもよかった。むしろ早く死んでくれとさえ思っていた。
俺から千景を奪って、子供まで作って、あの女が憎かった。
子供が産まれたと連絡があった。
正直どうでもよかった。一生会うこともないだろうと思っていた。
子供が生まれてすぐに千景の姉が死んだと連絡があった。
俺は千景に会えると思って葬式に行った。
葬儀会場に着くと、すぐにあの子を見つけた。
黒い喪服を着て、腕に何かを抱えていた。
千景の両親が俺に怒鳴る声も、千景の姉の友人が泣く声も、俺には聞こえなかった。
ただ、まっすぐにあの子のもとに行って伝える。
「千景、やっと会えた。」
あの子は目を潤ませて泣いた。
きっと、軽蔑しているのだろう。
でも、あの子に会えた…それが嬉しくて微笑んで抱きしめた。
葬儀中も俺はあの子を見つめ続けた。
手の中の物は赤ん坊の様だった。
また彼に会えない日々が続いて本格的に壊れかける。
ピアノであの子の好きだった曲を弾いては泣いて、梅の木にとまる鳥を見ては泣いた。雨が降れば泣いて、風が吹けば泣いた。
俺の感性にあの子が残って離れない。
独特の音楽表現、コロコロした音がこぼれる…どういうことだよ。ピアノの中から音が流れていく…どんな感じなんだよ。まだ教えてもらっていない…。
目の前のグランドピアノをとても気に入っていた。
もし、ピアノとの相性があるとしたら、俺はこの子と相性がいい…そんな風に言っていたのに、置いていくの…?お前のピアノだろ…。
そんなある日、チャイムが鳴って、あの子が立っていた。
目から涙があふれて落ちて、どうしようもなくなって、あの子を抱きしめた。
手にはあの赤ん坊を抱いて、泣きながら俺に言った。
「鼓太郎は太弦の子供じゃないか…なんで、なんで育ててあげないの?」
鼓太郎…初めて自分の子供の名前を知った。
千景に会えたことが嬉しくて、俺は彼を抱きしめて何度も言った。
「千景、愛してる」
その言葉は彼の心を迷わせ、傷つけた。
姉の話をしない限り俺の意図は伝わらないと分かっていても、言えないでいた。
両親から鼓太郎を施設に預けると話を聞いて、保護者の俺のもとに連れてきた…という話だった。
俺は千景が戻ってくれて嬉しかった。
しかも、ずっと一緒に居られると知って、落ち込んだ気持ちがあっという間に回復した。しかし、同居するにあたってのルールを提示してきた。
それが、敬語で話すルールだ。
敬語で話せば心理的に距離が取れて、俺の千景へのスキンシップが無くなると彼は言った。愛しているのに触れられないジレンマは思った以上に苦しくて、彼の傍を通ると彼の匂いにクラクラした。
赤ん坊の存在が疎ましく、いつも千景と一緒に居る鼓太郎が憎かった。
成長する過程で体調不良や事故が必ず起きて、その度に千景が心を痛めている姿を見てかわいそうに思った。鼓太郎が熱を出せば、そのまま死んでくれないかと思ったり、怪我をすれば、そのまま死んでくれないかと願ったりした。
俺には千景の声しか聞こえなくて、鼓太郎の世話などしたいと思わなかった。こいつのせいで愛しい千景は俺から離れ、未だにこいつの存在のせいで、千景は俺に甘えられないのだから。
そんなある日、イベント先の講演会で出会った。
千景の姉の友人
彼女は千景の姉から一部始終を聞いた。と俺に言った。
千景に本当の事を言って欲しくなかったら、自分を雇えと言った。
俺は怖かった。またあの子が居なくなるのが怖かったんだ。
言われるままに雇い、仕事を共にして信頼関係がおのずと出来てきた頃。
彼女は俺に好意を抱いていった。
仕事の打ち合わせや、スケジュールの管理、様々な雑務をこなしてくれる存在がとても貴重で、俺はその気持ちに気付きつつ無視した。
千景は彼女が来ると必ず機嫌が悪くなった。
「旦那さんは奥さんの友達と何してるんですか?」
「仕事です。」
「姉さんはまだ死んで間もないのに…」
悲しそうに視線を落として、鼓太郎を見る。
もっと詳しく教えてくれないと分からない…。
何がそんなに悲しいのか…、分からないんだ。
気付いたら俺は彼女と体の関係を持つようになり、彼女はそれ以上の関係を求めた。
千景の姉と籍を抜き、自分と結婚してほしいと言われている。
断ると千景にすべて話すと言われた。
俺はもう千景を失いたくない…
あんなに泣いて…あんなに苦しめて…あんなに愛してくれているあの子を
もう苦しめたくなかった…
だから、自分で話した。すべて話した。
太弦の目から涙がボロボロ落ちてきた。
「ずっと、言えなかったの…?」
この人が…1人で抱えてきたの…?
俺の問いに頷いて、ごめん…ごめん…と、何度もつぶやく。
繋いだ両手に太弦の涙が落ちてきてまるで夕立の雨粒みたいだった。
「1人で…ずっと…苦しくなかったの?誰にも言えなくて…俺に…言えなくて…太弦、苦しくなかったの?そんな…可哀想だ…!」
姉さんの気持ちに俺は気づいていた。
送り迎えもそうだし、レッスンが終わった後、俺は早く帰りたかったのに、姉さんは太弦と話したがった。いつも、いつも…。
太弦が俺と仲良くなる程に姉さんは俺に厳しくした。嫉妬していたの?俺に…
「千景、ごめんね。私もうすぐ死ぬの。どうしても好きな人と居たかったの。」
姉さんが言った言葉を思い出す。
そう言う事だったんだ…!!
俺は太弦を抱きしめて声を出して泣いた。
やっと分かった…姉の言葉の意味と、今まで太弦がどれだけ苦しかったか考えたら、泣くしかなかったんだ。
俺に詰られて…避けられて…無視されて…なんて事をしてきたのだろう…。
「太弦、ごめんなさい…ごめんなさい…!俺を許して…!!太弦…なんて事だ…かわいそうだ、1人で…どうして、太弦…ごめんね、ごめんね…」
抱きしめて、背中をさすって、謝るしかできない。
知らなかった…この人がこんなに苦しんでいたなんて…酷い…残酷だ。
肩の荷が下りたように安堵した表情で、涙を落としていつもの様に彼が言う。
「千景…愛してる」
その言葉を信用できなくて、弄ばれたと思って、諦めて、絶望した。
傍に居てよかった…この人の傍に居てよかった。
教えてもらうまでこの人の傍に自分が居れたことに感謝する。
鼓太郎のおかげだ。
「太弦…鼓太郎が…こたが居てくれたから…俺はお前の所に来たんだよ。こたが居なかったら、2度とお前に会わなかった…悲しすぎて、会えなかった。太弦…鼓太郎のおかげなんだよ…!」
体が震えるくらい感動して声にならない声が出る。
あの子に執着したのも、あの子のためを思って太弦のもとに来たことも、間違っていなかった!あの子が居てくれなかったら、2度と分かり合う事なんて出来なかった。
ただ、ただ…嬉しくて涙が落ちる。
太弦の顔を持ち上げて言う。
「お前の子供が助けてくれた…鼓太郎がお前も俺も助けてくれたんだよ?」
俺の言葉に頷いて涙する太弦、お前が大好きだ…。
「太弦、愛してる…」
涙の洪水が起きるから…
俺は彼にリクエストして雨だれの前奏曲を弾いてもらう。
後ろから彼を抱きしめて目を閉じて音色を聞いて、動く背中を感じて口元が緩む。
綺麗な旋律を太弦がもっと情緒的にする。
その音色がまるで俺たちみたいで…
胸が締め付けられて感嘆する。
「太弦のピアノが大好きだ…」
完
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