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第1話

春、その年真中デザインに新入社員は入らなかったらしいと、誰かが噂で言っているのを耳に挟んだ。9時半からの定例ミーティングのために眠い目を擦りながら会議室に行くと、眉間に皺を寄せた柴田が空調を触りながら二の腕を撫でていた。柴田は寒がりで、部屋の中でもストールを撒いていたり、女の子みたいに膝掛けをしていたりする。本格的な冬が終わって、春が近づいて来た3月半ば、柴田にとってはまだまだ寒い日が続いているみたいだと、それを見ながら堂嶋(どうじま)は思う。視線に気付いたらしい柴田が振り返って、目が合ったところに笑って会釈をすると、柴田はその表情を分かりやすく柔和にした。もうすぐ時間だと言うのに定例ミーティングのメンバーは、彼と自分以外まだ揃っていない。 「まだ寒いんですか、柴さん」 「ん、ごめん、ほんとに。あつい?」 「いや、俺は大丈夫です」 言いながら手近な椅子を引いて座る。持ってきたタンブラーを目の前に置いて、柴田が席に置いたらしい資料を捲る。一番上に異動のお知らせが載っていた。真中デザインでは真中以下の所員は幾つかのチームに分けられており、彼らに真中が仕事を割り振る形になっている。定例ミーティングに出席するのは、チームのリーダーを任されている何人かで、堂嶋もそのうちのひとりである。新入社員は入らないという話を誰かから聞いたから、きっと大した異動はないと思っていた。狭い事務所の中なので、異動することは早々ない。堂嶋も入社してから昇格し、リーダーになったが、それまではずっと同じチームで仕事をしていたし、そのメンバーも基本的には余り変わらなかった。そのことに特別不便はなかった。だから半分くらい読み流していたけれど、異動のお知らせの中に自分の名前が載っていて、慌てて視線を戻して資料を顔に近づける。 「柴さん、これ」 「あぁ、なんか、来季、異動結構あるみたいだな」 「柴さんが副所長なんかになるからじゃないですか」 「なんかってなんだ、心外だな」 はははと柴田が笑う。柴田も持ってきたらしいタンブラーの口から湯気が立っている、本当に心底寒がりだなと思いながら、堂嶋はもう一度資料に目を戻した。珍しくちらほらと異動があり、堂嶋のチームもひとり新しく入ってくるようだった。 「鹿野目(かのめ)くんか・・・俺、あんまり知らないな。どんな子だろ」 「あぁ、鹿野は大丈夫、若いけどちゃんと自分の仕事は出来るやつだから」 「ふーん。柴さんがそう言うなら大丈夫なのかな」 「まぁちょっと、っていうかあんまり?愛想はないけど悪い奴じゃないと思う」 「・・・はぁ」 柴田が何か含みのある言い方をした時、会議室の扉が開き、他のチームのリーダーたちがわらわらと入ってきた。にわかに騒がしくなる周りの空気を感じながら、堂嶋はもう一度、異動を知らせる資料をじっと見つめた。堂嶋は30歳であり、リーダーの中でもまだ若い方だった。そうは言っても、来季から副所長になる予定の柴田と2個しか歳は変わらないのだが。そこに真中の計らいがあるのかどうか分からないが、堂嶋のチームは割と皆個人的にきちんと動ける所員が多く、今まで特にチームの所員のする仕事のことで困らされることはなかったし、しっかり面倒を見ないといけないこともなかった。だからリーダーなんて肩書きだけで、堂嶋は他の所員と自分はほとんど同じだと思っている。それがいけないのか、時々所員に怒られることもあるくらいだ。そんなどちらが上司で部下か分からないような関係だったが、堂嶋は今のチームにいるのが過ごしやすかったし、好きだった。柴田が何か言い淀んだのが気になるが、良く知らない鹿野目という男が、その空気感にはやく馴染んでまた楽しく仕事が出来ればいいななんて、堂嶋はぼんやりと考えていた。 定例ミーティングが終わって堂嶋がデスクに戻ると、3月半ばで年度内に切り上げておかなければいけないデスクワークが残っているのか、いつもは揃わないチームの面々が、今日ばかりは揃って机についていた。堂嶋が戻ってくるのを見つけると、徳井が立ち上がって堂嶋のデスクまでやって来た。手には堂嶋がさっきまで見ていた異動を知らせる資料が握られている。 「堂嶋さん、鹿野、ウチのチームに異動になったんすね」 「あぁ、うん。そうだ、机、何処に置こうか。佐竹くんの隣でいい?」 「あ、いいすよー、空いてるんで」 遠くから佐竹が声を張り上げる。 「引継ぎとかなんとかで、ウチに正式に来るのは4月になってからみたい。メンバー増えるの久々だしなんか楽しみだね」 「あぁ、そう・・・―――」 何か徳井が言いかけて、ふっと堂嶋から視線を反らした。堂嶋もそれにつられて、徳井の見やった方に視線をやる。徳井の後ろに鹿野目が立っていて、堂嶋は少しだけ驚いた。すたすたと無表情のまま鹿野目は堂嶋のデスクまでやって来て、そしてそのまま頭を下げた。 「鹿野目です、堂嶋さん、4月からお世話になります」 「あ、いや、いいのに・・・」 何と言って良いか分からず、慌てて堂嶋が立ち上がって曖昧なことを言うと、鹿野目がすっと頭を上げた。鹿野目はまだ20代半ばだったが、それにしても随分若そうな印象を受ける。若干自分より背が高い鹿野目を見上げながら、堂嶋は考えた。鹿野目の存在は勿論同じ事務所の人間なので知ってはいたが、堂嶋は割と自分のことで手いっぱいなところがあり、他のチームの所員のことは余りよく知らなかった。鹿野目も名前は聞いたことがあったが、会議室で資料を見た時には正直、申し訳ないとは思うが顔が浮かんでこなかった。その鹿野目を目の前にして、堂嶋は確かに鹿野目はこんな顔をしていたと思い直していた。鹿野目は服装が比較的自由な事務所の中で、きちんとしたスーツを着ていた。しかしそれに全く似つかわしくなく、耳の上からこめかみにかけて剃り上げた後がちらちら見えるし、その上からふわっと流れる髪の毛は随分色が抜けているように見えた。そして何より、近視なのかと思うほど、此方を見る眉間に皺が寄っており、ともすれば睨みつけられているような印象さえ受けた。色々ちぐはぐだか兎に角若い、実年齢より与えられる印象がとにかく若いと堂嶋は思った。 「鹿野、お前いつもスーツなの?」 「ダメですか」 「ダメじゃないけど。お前、頭そんなんなのに服スーツだったらなんかヤクザもんみたいに見えるぞ」 「・・・はぁ」 笑いながら徳井が言う。まさにその通りだと思いながら、やっぱりうちのチームは頼りになると見当違いのことを堂嶋が考える。笑っている徳井とは正反対に、鹿野目の表情はピクリとも動かない無表情のままだった。眉間のしわが少しましになったくらいだ。 「分かった、じゃあ4月からはもうちょっとラフな格好して来い」 「・・・いいんですか、でも」 「いいよ、何か肩凝るし、堂嶋さんもそのほうがいいすよね?」 不意に徳井に話を振られて、堂嶋はふっと我に返る。鹿野目も徳井もこちらを見ていた。堂嶋も何か言わなければいけないと思って、その頬を曖昧に歪める。 「あぁ、うん、そのほうがいいかもね」 「・・・分かりました、そうします」 静かにそれに鹿野目が答えるのを、堂嶋はぼんやりしながら聞いていた。

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