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悲しみはオーロラに Ⅳ

結局、事務所に戻ることができたのは、1時を少し回ってからだった。佐竹は帰ってくるとデスクに荷物を置いて、鞄の中からスケジュール帳と携帯電話を取りだし、デスクの端っこに置いてあるペン立てからボールペンを一本抜いた。それをいつも首からかけている社員証の紐に引っ掛ける。そうしてホワイトボードの前に立つと、確かに鹿野目の今日のスペースには午前中は出張、午後からは会議になっている。午後の会議は他の班のメンバーとで、一体何の仕事の会議なのか佐竹は把握していなかったけれど、別に鹿野目のキャリアで何か任されているわけではないだろうから、兎に角出て話だけ聞いておけばいいだろうと思った。重要なのは時間で、会議の始まる時間は過ぎているから、完全に現在進行形で遅刻していることになっていることのほうだろう。考えながら佐竹はくるりとホワイトボードに背を向けて、会議室に急ごうとした。 「あ、佐竹くんお帰りー、遅かったね」 「あぁすいません。堂嶋さん鹿野の会議ってどこでやってるか知ってますか?」 「え?鹿野くん?会議室じゃないの、もうはじまってるよ」 堂嶋は眉を潜めてそう言った。確かに会議は1時からのようだったし、やっぱりはじまっているのか。電話をかけてきた堂嶋は佐竹の仕事の進捗状況よりもそのことを心配しており、どこで何しているか知らないけれど終わったら早く帰ってきてよねと、喫茶店でお茶を飲んでいたのをまるで知っているみたいに、そう釘を刺してきたのだ。堂嶋は普段は鈍くて、キャパの狭い男だったが、時々こんな風に的確なことを言ってくることがあって、油断がならないと佐竹は勝手に思っている。 「分かりました。すいません、鹿野なんですけどちょっと調子悪そうだったんで早退させました」 「え?早退?」 「俺が代わりに出るんで良いですよね?」 「・・・まぁいいけど、君が後輩の仕事をするなんて珍しいなぁ」 「あはは、やめてくださいよ。堂嶋さん!」 笑ってぱたぱたと手を振った佐竹は、会議室に向かいかけた足を止める。くるりと振り返ると堂嶋はそこでホワイトボードをぼんやりと見上げていた。堂嶋は自分の仕事で手いっぱいの時は、班員の仕事を把握すらしていないことがあるくらいなのに、自分の手が空いていれば、今日みたいに心配して電話をかけてくるくらいのことはする。本当はリーダーならメンバーのやっている仕事を把握していて当然なのだろうけれど、堂嶋にそう言うと、自分は他のリーダーとは違うから同じように求めないでほしいと真顔で言われたことがあるくらいだ。別に能力として劣っているわけではない癖に、そうやって堂嶋は自分のことを卑下するみたいにして、楽をするずる賢さが意外にあったりするのを佐竹は知っている。 「あ、そうだ。堂嶋さん!」 「どうしたの?」 「あれ!デスクの紙袋。今日咲ちゃんに会ったんで受け取ってきました。堂嶋さんの荷物らしいですよ」 「・・・―――」 佐竹にそう言われるままに、ふっと堂嶋は佐竹が指さす方向を見やった。そういえば、佐竹のデスクには見慣れぬ紙袋が鎮座していた。それを見て、堂嶋はさっと血の気が下がった気がした。中に入っているものについては全く予想がつかないから、きっとたいしたものは入っていないのだろう。そう言えば、佐竹の口からその名前が出てくるのも久しぶりだった。佐竹が咲に好意を持っているのは佐竹があからさまだったのもあって、勿論堂嶋も知っていたけれど、自分のあずかり知らぬところで連絡を取り合うような関係なのだとは知らなかった。今更そんなことはどうでもいいことだったけれど、何となく堂嶋はその時それを考えざるを得なかった。 「直接渡しにくいって言ってたんで俺が受け取ってきました」 「・・・ちょっと待って、佐竹くん」 「え?なんすか?もう会議はじまって・・・―――」 「鹿野くんも、いたの」 堂嶋は紙袋だけをじっと見ながら、静かにそう呟いた。 「おかえりなさい、さとりさん」 マンションの扉を開けて出迎えてくれた鹿野目は、いつもと同じように無表情の中に少しだけ堂嶋が帰ってきた喜びを滲ませるような、そんな複雑な表情をしていた。それを見上げながら堂嶋は、考えていたことを半分以上忘れていた。佐竹が取り繕ったそれが嘘だとは分かっていたけれど、その時鹿野目はいつも通りだったし、体調の悪いところなどなさそうで安心した。それで本当に安心していいのかどうか分からなかったけれど、堂嶋は兎に角少しでも安心していたかった。 「・・・ただいま、鹿野くん、今日」 「すみません、早退してしまって」 「いや・・・―――」 自棄に速足で先回りする鹿野目の背中を見ながら、堂嶋は部屋の廊下を不思議な気分で歩いていた。咲は鹿野目に会って一体何を話したのだろう。咲には最早その必要がなかったし、今更彼女が鹿野目の見た目よりも遥かに柔らかくて繊細な心を突き刺すような話をするとは思えなかったけれど、鹿野目は咲と事故みたいに相対してしまったことで、職場に戻ってこられなくなったのだ。それが一体どんな理由であったとしても、その現実は重くて、堂嶋が想像しているよりも遥かに深刻なことだということは、自分で考えながら分かっているつもりだった。けれどその時何でもないふりをする鹿野目の背中を見ながら、もしかしたら知らないふりをして黙っていてやったほうが良いのかもしれないとも思って、堂嶋はまだ迷っていた。 「どうしたの、佐竹くんは体調が悪いって言ってたけど」 「・・・そうなんです、でももう平気です。熱もないですし」 「そうなの」 相変わらず鹿野目はこちらを見ない。考えながら、堂嶋はテーブルの上に咲から預かったと佐竹が持って帰ってきた紙袋を置いた。わざとそんな風に目に付くところに置いた。自分は鹿野目の首を締めようとしているのか、それとも咲に抉られた傷を撫でてやりたいのか、堂嶋は自分でもよく分からなくなる。苦しい時に苦しいと言って、単純に助けを堂嶋に求めないでいるのは、自分がこの男に信用されていないのか、それともそういう対象ではないのか。一体どういう形が、彼の中で焦点を結んで、好きだと言う結論に達しているのだろう。そんなこと今確かめる必要はないと内部から声がするのは分かっていたけれど、堂嶋はそれをおさめることができない。堂嶋には確かめないでおくという選択肢がないことに気付いている。 「今日、お昼咲ちゃんに会ったんだって」 「・・・―――」 鹿野目ははっとしたように振り返って、そこではじめて堂嶋の顔を正面から見た。その表情はいつもの無表情で、どこも傷ついていないように見えたし、鹿野目は鹿野目の言うように平気なように見えたけれど、彼がいつも通りでいられないことなど堂嶋にはよく分かっていた。そうして取り繕う必要がまだあるのか、一体誰に向かってそんなことを鹿野目がしなければならないのか、堂嶋にはその答えが分かっている。 「何か言われたの、仕事投げ出して帰っちゃわなきゃいけないくらい」 「何か言われた?」 堂嶋はできるだけ優しい声でそう言って、ぼんやりと見捨てられたみたいに立っている鹿野目の手を掴んだ。本当は抱き締めてやりたかったけれど、そうすると堂嶋の見えないところで鹿野目が何かを隠してしまうのではないかと、堂嶋にはそんなことが怖かった。鹿野目はすっと繋がれた手を見やってから、おずおずとその視線を上げた。その目は迷っていなかったし、思ったよりも悲しみに暮れてもいなかった。こういう時に鹿野目が強くいるのか、強くいるふりをしているのか、堂嶋にはよく分からなくなる。強く見えて本来的には臆病で、震えているばかりいる彼のことを、きっと堂嶋は誰よりも知っているはずだった。 「さとりさん」 「・・・なに」 「さとりさん、ごめんなさい、俺は・・・―――。俺もう彼女がさとりさんが欲しいと言っても、返してあげるつもりはありません」 「・・・え?」 ふっと口から疑問符が漏れると、鹿野目は床に膝をついて、まるで祈るように堂嶋の握った手を額に当てた。 「さとりさんだけは絶対に幸せにならなきゃいけないのに、そう思ってきたのに、それでも俺は、もうさとりさんを彼女に返してあげられません、すみません」 「・・・何言ってるの、鹿野くん、咲ちゃんがそう言ったの?」 鹿野目は堂嶋の手を額につけたまま、堂嶋のそれには答えないでそのまましばらく黙っていた。鹿野目の体の震顫が、手から直に這い上ってきて堂嶋に簡単に伝わって繋がる。 (さとりさんを手に入れたら俺は、俺は地獄に落ちたっていいけれど) (あなたまで巻き込むつもりはなかった。あなたには幸せになってほしかった、だって) (俺の一番大事なひとだったから) 地獄に落ちろと言った咲の、今にも泣きだしそうな目が蘇ってくる。本当は咲だって誰かに縋り付いて泣きたかった。自分の不運を誰かのせいにして、そんな風に暴力的にしか振る舞えないことを、鹿野目が非難することができないと分かっていたから、あそこであんな風にまるで子どものやり方で、鹿野目に不誠実を訴えた。咲の言葉には何の意味もないことは分かっていた。分かっていたけれど、鹿野目にはそれを無視することもできない。頭から被ったオレンジジューズの匂いも、氷の冷たさも、その時の佐竹の焦った声も全部、覚えておかなければいけないと思った。これはきっと自分の罰だ。彼女から堂嶋を、そして全てのものを奪ってしまった自分の。だから彼女が口先だけで唱えた呪いの言葉を受け止めて、それを心に刻んでおかなければいけないと思った。 (誰かの不幸の上に幸せは成り立たない、俺は幸せにはなれない、なれなくてもいい、さとりさんが側に居てくれたらいい) そうやって繰り返して頭にも体にも覚えさせておこうと思った。いつか別れの時が来るのだとしたら、その時咲の呪いの言葉がきっと意味を成して、そしてそのあと自分は地獄に落ちたって構わない。 (だからさとりさんだけは・・・―――) 信仰なんてない神に祈ろう。自分は地獄に落ちても構わないから、愛する人だけはどうか。 fin.

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