32 / 33
悲しみはオーロラに Ⅲ
「それってどういう意味の謝罪なの」
「・・・どういう?」
「鹿野目くんは全然分かってない。私はもう27なんだよ。適齢期の女の5年間を捧げた男をあなたは私から奪ったの。その自覚はあるのか聞いてるの」
「・・・―――」
咲はもう何かを取り繕うように前みたいに笑わなかったし、不気味なほど落ちついてもいなかった。ただ淡々と事実だけを伸べるみたいに、それでいてどこか感情的に鹿野目の前に正論だけを広げて見せた。鹿野目が怖くて見ることをずっと避けていた事実だけを、咲はあからさまに並べて見せて、鹿野目はそれから目を反らすことができなかった。何でもない風に笑われるよりも、何にも感じていないみたいに落ち着かれているよりも、ずっとずっとそのほうが人間のようで怖いと思った。
「男はいいじゃない。恋人なんていなくたって、結婚なんてしなくても、仕事だけしていればそれで社会適応だって見なされる」
「でも女は残念だけどそうもいかないの」
「悟くん私の実家に来てちゃんと両親に挨拶してくれたし、友達皆にも結婚式もうすぐだから来てねって言った後だったの」
「そういうのが全部駄目になっても、私には泣いてる暇もないし慰めてくれるひとももういない。気丈に何でもないふりをして笑って仕事しなきゃいけないの、生きるために」
「あなたが全部奪ったの、悟くんだけじゃなくて私から全てのものを」
「申し訳なかっただって?それなのに申し訳なかったって言ったよね、鹿野目くん。そんなんじゃ私のズタズタにされた気持ちやプライドが今更どうにもならないことなんて、分かっているでしょ」
はぁっと熱い息を吐いて、咲はその時ようやく目を鋭く尖らせて鹿野目を射抜くみたいに見た。そのあからさまな憎悪が彼女の正しい感情で、それに間違いなんてないはずなのに、鹿野目はやっぱりそれから目を反らしてしまいたい気持ちと葛藤していた。咲が一体どう思ったのか、勿論鹿野目だって考えなかったわけではない。家に帰れば堂嶋がそこにいるみたいな、今では当然のことみたいなそれが、きっと咲の中でも起こっていて、家に帰ってきたらそこにいるはずの堂嶋はいないのだ。文字通り、彼女から全てのものと堂嶋を同時に奪ってしまった。ことの顛末については、勿論鹿野目だけの責任ではなかったけれど、鹿野目はまさかそれを彼女に言うことなんてできなかった。他の誰にそう囁かれて慰められたって、自分だけは咲の前でそんな風に開き直ってはいけないと思った。それが鹿野目のできる精一杯の誠意だと思った。
「言い訳があるなら聞いてあげるけど」
「・・・ありません、咲さんの言う通りだと思います」
「あぁそう。随分弱気なのね、あんな大胆なことしといて」
咲は眉間にシワを寄せたまま、そう吐き捨てるようにそう言った。そう思われて当然だと思いながらやはり、誰かの面と向かってこんな風に感情を露わにされるのは胸が痛かった。それが陰性の感情ならば尚更だった。彼女は堂嶋の大切な人で、自分も彼女のことを守らなければいけないと思っていた。堂嶋が大切にしている人ならば、彼女と堂嶋の幸せを、目から血が出るくらい苦しく嫉妬したって、祈らなければいけないと思っていた。鹿野目だってそう思っていたのだ。だけど鹿野目には、今堂嶋を手に入れてしまった鹿野目には、彼女にかけてやる言葉がひとつもないと思った。堂嶋が彼女にかけてやる言葉が見つからなかったと呟いたみたいに、鹿野目の中にも最早彼女にかける言葉は見当たらなかった。
「俺に何かできることはありますか」
「・・・なにそれ、償いのつもり?」
「他に何を言ったらいいのか分からないので、できることがあれば言ってください」
「それじゃあ悟くんを私に返して」
ぴんとまた喫茶店に満ちる空気が張りつめた。鹿野目は目を見開いて、正面で背筋を伸ばす咲のことを見ていた。どんなに彼女に罪悪感があったって、鹿野目はそれだけには頷くことができなかった。多分、咲もその時鹿野目の目を見た時にそれは理解していた。
「すみません、それは・・・それはできません」
「鹿野目くんって冗談が分からないんだね。別に本気で言ってないからそんなに切羽詰まった顔しないでよ」
「・・・冗談」
「ほっとした顔した、ムカつく」
言いながら何故か咲は、急に吹っ切れたようにあははと笑い声を上げた。その時咲は笑っていたけれど、それは先程まで取り繕うように張り付けていた笑みではなくて、多分自然な笑顔だった。だからこそ、鹿野目にとってはそれが脅威で、また委縮する理由を押し付けられたみたいだった。そうしてひとしきり笑った後、咲は口元だけに笑みを残したまま、またすっと背筋を伸ばした。咲は小柄だったけれど、そうしていると実際の質量以上に存在感がある不思議なひとであった。
「いらないよ、もう悟くんなんて。浮気する男なんてサイテーだから死ねばいい」
「・・・―――」
「鹿野目くんも。ひとの大事なものを奪うなんてサイテーだから死ねばいい」
言いながらやっぱり咲は笑っていて、手を伸ばして鹿野目の左の胸をとんと指で突いた。軽く叩かれただけなのに、そこがじわっと熱をもって、それがどんどん鹿野目を侵食するみたいに広がっていくのを、鹿野目は静かに感じていた。言葉の暴力性とは無関係に、咲の表情は穏やかで落ち着いていた。そしてそれはやっぱり不自然なものではなくなっていて、それが余りにも自然だったから、鹿野目には余計に怖く思えてならなかった。この小さい女の子が、にっこり笑って、笑うだけでいつか自分の全てを奪ってしまうのではないかと、鹿野目に思わせるほど、それは不思議な現実感だった。鹿野目がそうして堂嶋の弱さにつけ込んで、彼と全てを咲から奪ってしまったみたいに。そうしていつか大きなしっぺ返しを、自分は食らう運命ではないのか。
「覚えておいて、幸せっていうのは人の不幸の上には絶対に成り立たないの。だからあなたたちは絶対に幸せにはならない」
「・・・―――」
さっと咲は立ち上がると、持ってきたバックを肩にかけた。
「はやく地獄に落ちて」
そして8割方中身の残っているオレンジジュースを、目の前で咲を見つめる鹿野目目掛けて放るように、中身だけを撒き散らした。頭からジュースを被る鹿野目を一瞥した後、ガラスのコップを喫茶店のテーブルにこつんと置くと、咲はそのまま紺色のスカートを翻して、颯爽と喫茶店を出ていった。そうして喫茶店を出て行ってしまうまで、鹿野目のことをもう一度も、振り返らなかった。
「いやー、堂嶋さんがはやく帰ってこいって。お前、午後から会議入ってんだって?今から帰ったら間に合うかな・・・」
独り言を言うみたいにぺらぺらと喋りなから、佐竹が喫茶店に戻ってきたのが、それからすぐのことだった。佐竹はテーブルに近付くと、向かいの席に座っていた咲がいつの間にかいなくなっていることに、そこでようやく気付いたみたいに足を止めた。
「あれ?咲ちゃん帰った?」
「・・・―――」
そして黙ったまま俯く鹿野目のほうをついっと見やるのと、鹿野目の髪の毛からぽたりとオレンジ色の雫が落ちるのとがほとんど同じだった。
「・・・鹿野?」
「おかえりなさい」
「いや、お前何やって・・・―――」
鹿野目が全く佐竹を見ないまま、口先だけでそう言うので、佐竹は慌てて視線を合わせようとすると、オレンジジュースの柑橘系の匂いがつんと佐竹の鼻を掠めた。目の前にはおあつらえ向きに、空になったグラスが置かれている。佐竹はそれに視線を移してから、またはっとしたように鹿野目に視線を戻した。鹿野目はそこで少し俯き加減になりながら、ぼんやりと座ったまま微動だにしなかった。そこにいたはずの彼女の残像を、そうしてまだ鹿野目は見つめているみたいだった。
「まさか、咲ちゃん・・・?」
「・・・―――」
「オイ、なんで黙ってんだよ、何があって・・・―――」
鹿野目の肩を掴んで揺すろうとすると、べたりと手のひらに湿った感触がまとわりついた。思わず佐竹は手を離す。思ったよりも鹿野目が濡れてしまっていることに、佐竹はそこで気が付いた。自分が席を外している数分に、彼女と鹿野目の間に一体何があったのだろう。そもそも咲と鹿野目は今日が初対面ではなかったのか。佐竹は咲がにこにこ笑っていた顔を思い出したけれど、その彼女がこんな風にあからさまな怒りをもって、鹿野目にジュースをぶっかける理由が、佐竹には考えたってわかりそうもなかった。佐竹が立ったまま黙って考えていると、髪の毛からぽたりとまた滴が落ちて鹿野目のパンツに吸い込まれていくのが見えた。
「あのひとは悪くありません、俺が悪かったんです」
「いや・・・だからってなんでこんな・・・」
「俺が全部悪いんです」
その時鹿野目は俯いていたけれど、佐竹には強い目をする鹿野目の横顔が見えていた。いなくなった咲の座っていたソファーは、まるで何もなかったみたいにただ静かにそこにあったが、鹿野目は最後までその空っぽの席を、ただ食い入るように見つめていた。
ともだちにシェアしよう!