31 / 33

悲しみはオーロラに Ⅱ

そうして咲はそこではじめて、今まで柔らかかった表情を、まるでそれが嘘だったみたいに酷く冷たいものにした。ごくりと隣で佐竹が喉を鳴らす音が、一瞬そんなわけはないはずなのに、酷く大きく聞こえたようなきがした。ともすればそれは自分の喉の音だったのかもしれない。けれど鹿野目にはそれが自然だと思えた。咲の表情は今までのほうが不自然で、これがきっと自然な反応なのだろうと、当事者ではないふりをしながら黙って、咲の伏せられたオレンジのパウダーがついた目元を見ていた。堂嶋が彼女と結婚間近であることは、事務所では誰もが多分知っていたし、その彼女のことを堂嶋班のメンバーは皆知っていた。けれど堂嶋と彼女の関係が破たんしたことについては、事の真相を詳しく知っているのは当事者である堂嶋と、それから間男である鹿野目だけだった。佐竹を含むほかのメンバーは、破たんしたことをネタに堂嶋をからかうことはあったけれど、その真相はデリケートなものと分かっているのか、踏み込んでくることはなかった。だから咲がその時、冷たい顔をして目を伏せたのを見て、ふたりの間に一体何があったのか、佐竹は想像することしかできなかった。結婚間近で破綻するということがどういうことなのか、考えたことはあったにしてもその時のその咲の表情は、あまりにもリアルだった。 「・・・咲ちゃん」 「悟くん、元気?まだ残業ばっかりしてるの?」 ぱっと冷たかった表情を、また急に華やかなものに変えて、咲は笑って言った。佐竹は他に何か言いたそうにしたけれど、結局それ以上踏み込めないでいる。それが佐竹の優しさであり、詰めの甘さであることは確実だった。本人はきっと無意識なのだろうけれど。佐竹はいつも明るくて、へらへら笑ってお気楽そうに見えるけれど、そうやって自分と相手との距離を測るのが上手くて、どこに行ってもクライエントには気に入られているようだった。愛想を上手く振りまくことができない鹿野目には、そうやって仕事を円滑に回すことができるのは、ひとつの能力だと思って黙っているけれど佐竹のことはそれなりに尊敬していた。 「まぁまぁかな。残業はしてますよ、相変わらず」 「そっか。まぁほどほどに頑張ってって伝えといて」 笑ったまま咲は首を傾げるようにしてそう言い、佐竹はそれに口元に笑みを作ったまま曖昧に頷いた。そこで見計らったように佐竹の携帯電話が急に鳴り出し、佐竹は慌てて立ち上がった。画面には職場の番号が表示されていて、きっとこれは堂嶋がかけてきているのだと、それに出る前に瞬時に察する。そうすると咲の手前、ここで出るわけにはいかなかった。ちらりと咲のことを見ると、咲は座ったまま佐竹のことを見上げていて、目が合うとまたにっこり笑って首を傾げた。 「咲ちゃんごめん、会社からだからちょっと出てきますね」 「あ、いいよー私のことは気にしないで。っていうか私も抜けてきたんだった、もう戻ろうかな?」 「あ、ジュース!ジュース勿体無いんで飲んじゃってください!オイ、鹿野。お前咲ちゃんにすべらない話でも披露してろ!」 「無茶苦茶言わないでください」 佐竹は座ったままの鹿野目の背中を叩いて、バタバタと珍しく忙しない動作で喫茶店から出ていった。これは予想外のことになった。この空間の中で佐竹だけが鹿野目の頼りだったのに。しかし鹿野目は冷静を装って、目の前のアイスコーヒーを飲んだ。もう何でもいいから取り繕うしかなかったし、冷静でもなんでも装えるものがあるのなら、装っておくべきだった。咲は何も知らない。だから鹿野目さえ余計なことを言わなければ、この時間さえしのげば、きっと鹿野目はそれこそ咲には二度と会わない。二度と会わなければ多分、こんな風に胸を突きさされるような思いをしなくてもいい。 「あはは、佐竹くん相変わらず面白いなぁ・・・」 独り言でも呟くみたいに、咲がピンク色に綺麗に塗られた唇で呟く。彼女にするみたいなキスを知りたかった、鹿野目が心が砕かれるほど強く思っているその人の、隣に立つ人間のことがずっとずっと知りたかった。堂嶋は鹿野目が事務所に入所した時からずっと、咲と付き合っていた。どんな女の子なのか知りたかった、堂嶋に愛されているその女の子が、女というだけで側を歩くことを許されるその人のことが、喉から手が出るほど羨ましかったし、何でもいいから知りたかった。そんなことをしても、自分が彼女に近づくことなんてできないことは分かっていたけれど、堂嶋に彼女みたいに愛されることなんてありえないことも分かっていたけれど、それはもう理屈ではなく、そういう種類の衝動を飼いながら、鹿野目はずっと苦しかった。咲が背筋を伸ばしてジュースに刺さったストローをくわえる。きっと先のことが知りたかったわけではない。その唇に触れたことのある、堂嶋のことが知りたかった、もしかしたら今でも知りたいのかもしれない。咲はきっと鹿野目よりも遥かに、堂嶋のことをよく知っている。今でもきっと遥かに、鹿野目よりもその人のことを。 「鹿野目くんは悟くんの班のひとなの?」 「・・・あ、はい。この春から異動になりまして」 「そうなんだ、不思議ね」 にこにこ笑っていた咲は、そう言ってすっと目を細めた。鹿野目はぼんやりと不思議とは一体どういうことなのだろうかと思った。堂嶋の部下である佐竹と一緒にいる自分が、堂嶋と同じ班であることは不思議でも何でもないと思ったけれど違うのだろうか。 「ね、すべらない話してよ、鹿野目くん」 「そんなの持っていません、佐竹さんの無茶ぶりです」 「あはは、でも後輩は無茶ぶりに答えるもんじゃない?それに・・・―――」 咲はまた不自然に言葉を切った。そしてそのオレンジ色の目蓋を伏せる。 「一個とっておきのがあるじゃない」 「・・・―――」 流石に鈍い鹿野目でも咲のその言葉が一体何を指しているのか分かったし、それには無条件で冷や汗をかいた。彼女は知っているのだと思った。咲の言葉は否応なく強い意味を持って、鹿野目にそのことを知らしめた。堂嶋は彼女に話したのだろうか、一体何を。何をどこまで。まさか全てのことを彼女は知っているのだろうか。ふっと咲が目を上げて、その表情が冷え切っているのを、鹿野目の目が捉える。彼女はもう笑う必要なんかなかった。佐竹が消えたこの空間の中で、そうして自然な表情をする彼女の強い目に刺されながら、鹿野目はそこから逃げることができなくなっている。咲はもう鹿野目に逃げ道なんて与えない。長い睫毛が瞬かれて、彼女は顔色一つ変えずに、鹿野目はそこから動けなくなる。 「鹿野目くん、私ひとより鼻がいいの」 「だからすぐ分かった。あなたの香水の匂いと煙草の匂い、別れる前悟くんからしていたものと同じだから」 「あなただったのね」 余りにも静かに咲がそう言うのを、鹿野目は背筋に流れる汗を感じながら聞いていた。咲はいつそのことに気付いたのだろう、堂嶋に聞いていたのではなかったのか、喫茶店で鹿野目と向かい合った今なのだろうか、だとしたら咲の落ち着きようは異常だった。恋人を奪った相手を前にして、そんな風に振る舞えることも不気味だったけれど、鹿野目は男だ。咲の目にはそれは一体どんな風に映っているのだろうと思った。それよりも事実が先行しているせいで、そんな情報は些末なこととして後回しにされているのだろうか。鹿野目の中ではそんなことは絶対にありえなかったけれど、ずっと女の体を持っている彼女のことが羨ましかったのに。鹿野目は無表情の下で混乱しながら、ただ落ち着き払っている咲のことをじっと見つめていた。 「ねぇ、何か言ってよ、鹿野目くん」 「・・・なにかって」 「私に言うことがあるんじゃないの」 背筋を伸ばして、咲はそのさらさらの茶色の髪を肩からふわりと払った。その時、強い目をして静かな口調で鹿野目を真正面から突き刺す咲は、余りにも正しい形をしていて、その存在だけで、不適切な形をする鹿野目の首を簡単に締め上げた。息が上手く出来ないから、鹿野目は何も言うことが出来ないと思った。言うことなんて何もないとは、咲の前ではとても言えそうになくて、そんな風に回り道をして逃げ場を探っている。だけど鹿野目は一方でよく分かっていた。この攻防の前に逃げ道など初めから与えられていないことを。 「・・・咲さんには、申し訳ないことをしたと思っています」 自分の声がこんなにも弱々しく聞こえたことはなかった。鹿野目は考えた挙げ句、他に何か言えば言うほどそれはただの言い訳に成り下がることが分かっていたし、不気味なほどに落ち着き払った彼女に、他に何と言っていいのか分からなかった。

ともだちにシェアしよう!