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悲しみはオーロラに Ⅰ

「なぁこの後お前時間ある?」 一緒に出張に行っていた佐竹が思い出したように言ったのが、お昼を少し過ぎた後だった。 その15分後、鹿野目は事務所に戻らず、何故か出張先の近くにある喫茶店の中にいた。その隣には佐竹がいて、何故か正面の席は空いている。佐竹は出張が終わったらそのまま事務所に帰るつもりだった鹿野目への説明も曖昧に、ここに引っ張って来ると、さっきから携帯電話を弄りはじめて、いつも煩いのにそれきり黙ってしまった。鹿野目は別段喉が渇いているわけでもなかったけれど、喫茶店に入って注文しないのもおかしいので、取り敢えずで注文したアイスコーヒーを飲んでいたが、珍しく静かな佐竹の隣にいるのが、いよいよ暇になってきて、煙草でも吸うかと思って、今日は外でクライアントに会う予定だったから、いつもよりも比較的きちんとしたジャケットの胸ポケットからマルボロの箱を出した。 「禁煙ですーかのくんー」 「・・・何なんですか、佐竹さん」 眉を顰めて佐竹を見ると、佐竹はやっと携帯電話から顔を上げると、鹿野目の渋い顔を見ながらにこりと笑った。正面の席が空いているということは、きっとそこに誰か来るのだろうと思ったが、今日の仕事はもう終わったはずだった。佐竹の用事だけならば、この後事務所に戻って別の班のメンバーと会議を控えている鹿野目は、佐竹だけを置いて事務所に帰りたかった。 「ちょっと用事―」 「俺帰っていいですか」 「つれねぇこと言うなよ。すぐ終わるから、あ、きたきた」 言いながら佐竹は急に立ち上がって、喫茶店の入り口に向かって手を上げた。鹿野目もそれに、つられて視線を移動させる。そこにはたった今喫茶店の扉から中に入って来たらしい、小柄な女の子がひとり立っていた。佐竹が入り口に近い席を選んだこともあるのか、彼女は店内を見回す間でもなく、佐竹を見つけて笑顔になると、こちらに向かって歩いてきた。佐竹は彼女のことを待っていたらしい。おそらく彼女も仕事中なのだろう、首からは会社のパスがかかったままだった。 「佐竹くん久しぶり」 「ほんっと久しぶりですね!咲ちゃん」 「・・・―――」 その時、鹿野目はいつもの煩さを取り戻した佐竹の隣で、弾かれたように顔を上げて彼女の顔を見た。外が暑かったとかなんとかいう世間話をはじめるふたりを、いや途中から佐竹の声も姿も鹿野目の五感からは外れて、彼女のことだけを座ったまま、鹿野目は暫く声もなく見つめていた。それは一度、佐竹が撮ったという写真の中で笑っていた、確かにその人であった。堂嶋と長い間付き合っていて、同棲までしていて、そして結婚するはずだった彼女。鹿野目はそれを字面と佐竹の写真でしか見たことがなかったけれど、その日咲は確かな質量をもって、確か過ぎる実感をもって、鹿野目の目の前に立っていた。 「ごめんね、佐竹くん、こんなとこまで来てもらっちゃって」 「いや、いいんです。それにほら、近くまでこっちも出張してまして」 あははと佐竹がハイテンションながら、どこか遠慮がちにいつもより品よく笑う。それを見ながら当然みたいに咲も笑って、そして当然みたいに隣に黙ったまま座る鹿野目に視線を移した。それに瞬時に気付いた佐竹が、いつもやっているみたいに先回りする。 「あ、こいつ鹿野目って言って俺の後輩です。出張一緒だったんで連れてきちゃいました」 「あ、そうなんだ。ごめんね、鹿野目くん付き合ってもらっちゃって」 「・・・いえ」 彼女、咲の口から自分の名前が零れるのを、鹿野目は酷く不思議な気持ちで眺めていた。返事をする声が、鹿野目の意図とは反して思わず掠れる。背が小さくて笑うとかわいい女の子、ただそれだけしか持っていない癖に、鹿野目の欲しかったものを生きているだけで呼吸をしているだけで、全てを手に入れている女の子。彼女が堂嶋の一番近くに長い間座っていて、そしてその場所をあと一歩で確実なものにするところだった、自分が永遠に勝てない相手だったはずだった。鹿野目の目の前でにこにこと愛想よく微笑む咲は、まさか鹿野目がそんなことを考えているなんて、そして自分の婚約者を奪った相手がこんな愛想の悪い大男だなんて、思いもよらないだろう。そんなことは分かっているのに、分かり切っているはずなのに、鹿野目はその場所から今すぐ逃げ出したくなった。彼女には絶対に分かりっこないことを頭では理解しているはずなのに、彼女のピンク色の唇が割れて、自分をののしる音が今すぐにでも聞こえてきそうで怖かった。 「すいません、咲ちゃん!こいつ愛想悪くて、ほっといてくださいね!」 「えー?そう?クールでかっこいいね」 あははと咲は快活に笑い声を上げて、佐竹がそれにいつも通りオーバーリアクションをする。鹿野目はやっぱりそれをどこか不思議な気持ちで見ていて、まるで現実感がないので、テレビの中で起こっているそれでも見させられているみたいだった。どうして佐竹は自分をここに連れてきたのだろう。それに意味なんてないはずだった。煩い佐竹は寂しがりやでひとりでいることが苦手だったから、ただその瞬間にでもひとりにならないために鹿野目を連れてきただけだった。理由なんてないはずだった。なのに佐竹すら、疑ってしまいそうになる。鹿野目は落ち着かない頭のままゆっくりと隣に座る佐竹を見やった。相変わらず、愛想が悪いと鹿野目のことを揶揄した佐竹は、その笑顔を全く崩すことをしない。 「それでなんですか?用事って」 「あ、そうそう!」 咲の前にオレンジジュースが運ばれてくると、佐竹が唐突にそう切り出し、そこでようやく話は本質に向かって動き出した。鹿野目は佐竹の言葉に今更はっとしながら、それを何でもないふりをしながら聞いていた。佐竹もそうだし、咲も仕事中のようだった。ふたりが会っているのは、何かしら必要に迫られているからだ。それが終わればこの場所にも咲にも用はなかった。考えながら鹿野目はアイスコーヒーを飲んでいるふりをして黙っていた。愛想の悪い自分は、黙っていれさえすればよかった。こういう時は得だ。咲は佐竹の言葉に手をぱんっと軽く打つと、持ってきたらしい紙袋をテーブルの上に置いた。 「引っ越しの準備してたら出てきちゃって」 「・・・これって」 「そう、悟くんの荷物なんだけど」 佐竹が何気なく咲がテーブルの上に置いた紙袋を引っ張ると、それは結構な重さがあるようだった。何が入っているのか、中身まではよく分からなかった。佐竹の表情は少しだけ硬くなったような気がしたが、目の前で微笑む咲には、不自然なほど変化はない。 「あー分かりました、渡しときます」 「ごめんね、佐竹くん。変なこと頼んじゃって」 「いえ、こんなのお安いご用ですよ」 「ほんとは私が渡しに行けばいいだけなんだけど」 そこで咲は言葉を切って、曖昧に息を吸い込んだ。 「もう二度と会いたくないの」

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