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第29話
マンションの扉は開いている。鹿野目はそれにいちいち驚きながら靴を脱いで、いつものように廊下をゆっくり歩いた。扉の向こうから光が差しており、電気がついているのだと分かる。朝、ここを出て行く時に電気をつけっ放しにしてしまったのだろうか。
「おかえり、鹿野くん」
扉を開けると堂嶋がキッチンからひょいと顔を覗かせて、にこりと笑って言った。鹿野目は頭に上っていた血液がさっと降りるような気がした。堂嶋は全く鹿野目の様子を気にする様子なく、エプロンを翻してキッチンに戻って行った。そして何やら分からぬ自作の歌を歌いながら、機嫌よく鍋の中を見ている。鹿野目はそれを半分壁に体を預けながら見ていた。
「・・・鹿野くん?」
すると鹿野目がじっと動かないでいるのにやっと気づいたみたいに、堂嶋が首を傾げながら声をかけた。鹿野目はそれを聞きながら痛む頭に手をやる。
「悟さんがどうして俺の家にいるのか分からなくて、頭がくらくらします」
「何言ってるの、もう2週間だよ、いい加減慣れなよ」
笑って堂嶋がそう言う。鹿野目はそれを聞きながら何と返事をすればいいのか、まだ考えていた。彼女と別れ、婚約を解消した堂嶋は、そのまま行くところがなくて当然みたいに鹿野目のマンションにいる。元々広めのマンションであったから、ふたりで住むことに不便はなかったけれど、例えば家に帰って鍵が開いていたり、電気がついていたり、ひとりでテレビを見ている時にただいまと誰かが帰ってきたり、そういう日常に鹿野目は中々慣れなくて、まだ青い顔をして弱気なことを呟いている。堂嶋はというと見た目の割に図太い神経をしていて、何やら吹っ切れたみたいに鹿野目との生活をそれはそれなりに楽しそうにしている。彼女と別れて結婚も破談になったことは、誰かが、おそらくは堂嶋班の誰かが言い出して、今では事務所で知らぬ人間はいない。はじめは腫れ物に触るみたいにされていたようだったが、堂嶋が余りにも変わらぬ様子なので、最近では気を遣う所員はいなくなってネタにされて笑われているところを時々見かける。
「慣れるわけないでしょう、こんなこと」
「そう?俺はもう慣れたなぁ」
「悟さんとは違うんです、だって、俺はずっと・・・―――」
鹿野目がはっとしたように言葉を切るのを、堂嶋は笑いながら見ていた。
「・・・ずっと?」
「何でもありません」
ふいと顔を背けて、鹿野目はやっと壁を離れると椅子を引いてそこに座った。パンツのポケットからマルボロの赤箱を取り出して、中から煙草を一本引き抜く。
「そうだ、家の中禁煙にするから、吸うなら外行ってくださーい」
「・・・ここ俺の家なんですけど」
「家賃半分払ってるでしょ、だから半分は俺の家だよ」
「・・・はぁ」
勝ち誇ったように堂嶋が言うのに、鹿野目は仕方なくテーブルを離れてベランダに出た。煙草を吸うのは習慣になってしまっているから、特に必要がないと思う時でも何となく口寂しくてそれに火をつけている。ベランダからは東京の空が見えて、そこに一等星だけぼんやり光っているのが分かった。外に向かってふうと煙を吐き出すと、それが筋になってふっと空気中に溶けていく。事の顛末がこんな風になるなんて、一体誰か予想できたのだろう。都合がよすぎる、いつか全てが消えて元に戻ってしまっても良いように、慣れないでいるほうが良いのかもしれないと、また思考は勝手に弱気になる。
「鹿野くん、ごはん」
不意に背中にそう声をかけられて、鹿野目は振り返った。堂嶋が半分ベランダに続く扉を開けてこちらを見ている。不思議だった。
「あ、なんでリーダーの俺の方が先に帰ってるんだって、思ってるでしょ」
「・・・全然思ってません」
「今日ね、柴さんと打ち合わせに行ってから、外に。柴さんその後事務所帰ってたけど、俺直帰にしてたからほぼ定時で帰れたよ!柴さんといると仕事はかどっていいねぇほんと」
「佐竹さんが怒ってましたよ、悟さんいないって」
「はは、明日行くのが怖いなぁ」
堂嶋が笑ってそう言う。鹿野目は咥えたままだった煙草を奥歯で噛んで、小さく息を吐いた。堂嶋とまたこんな風に何でもない話をすることができるなんて、あの時の自分は思っていなかった。少しだけ開けた扉から、堂嶋がするりとベランダに降りてきて、鹿野目の隣の手すりにべちゃっと体を預けて空を見た。鹿野目もゆっくり視線を移したけれど、相変わらず一等星しか見えない。
「鹿野くん今携帯持ってる?」
「あぁ、はい。持ってますけど」
「ちょっと貸して」
パンツのポケットから携帯電話を取り出して堂嶋に渡すと、堂嶋はそれを受け取ってニヤッと笑った。
「見てて」
そして電源を入れると4桁の数字を要求してくる。それに堂嶋は迷いなく数字を打ち込んだ。するとぱっと切り替わってホーム画面になる。驚く鹿野目の手のひらに、ぽんと携帯を投げて堂嶋はまた笑った。
「なんで分かったんですか」
「徳井くんに聞いたの、暗証番号何にしてるかって」
「へぇ」
「恋人の誕生日にしてるって言ってたよ、っていうか徳井くん彼女いたんだね、そんな話聞いたことなかったけど」
絶対に堂嶋さんには分からない、と鹿野目が自棄に自信満々に言ったことを堂嶋は思い出していた。確かに自分の誕生日なんて入力してみようと思わないだろう。ちらりと隣の鹿野目を見やると、手の中の携帯電話をまだ不思議そうに見つめている。そんな風に簡単に鍵をかけたり、開けられたりしている鹿野目は、単純で可愛いと思った。あの時は何度やっても開かなかったロックナンバーが、そうやって今となっては簡単に開くみたいなことが、これから二人の間に何回あって、何度こんな風に思うのだろう。強引に迫ったかと思えば、急に弱気になって頭が痛いと呻いて見たり、あの日から鹿野目は相変わらずだ。
「鹿野くん、ご飯食べよう」
「またシチューですか」
「またってなんだよ、俺それしか作れないんだよ、仕方ないだろ」
「ちょっとはレパートリーを増やす努力をして下さい」
「なんだよ、鹿野くんだってたいして作れないじゃないか」
「俺は悟さんより沢山作れます」
無表情で唇を尖らせる鹿野目のことを、振り返って堂嶋は笑った。これからどうなるのか分からなかったけれど、今自分で大事だと思えることを、もっと大事にしておこうと思った。迷った時には思い出すのだ、彼が曇りのない瞳で、射抜くように好きだと言ったその気持ちのことを。
fin.
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