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第28話

風が吹いている。 「おー、鹿野」 ベランダに続く扉を開けると柴田が立っており、鹿野目と視線を合わせるとにこっと笑って手を上げた。事務所の中には喫煙スペースがなく、喫煙者は必然的にここに集まるしかない。所員の中には柴田が怖くて仕方がないと言う人間も少なくないが、鹿野目は柴田が怒っている場面に余り遭遇したことがないせいか、それともそういうあからさまな怒りを向けられたことがないせいか、どちらかと言えばフランクで優しい部類の人間だと思っている。夏が近づいてきているというのに相変わらず長袖で、首にはストールが巻かれている。細い手首を揺らして、柴田が笑うのに、鹿野目は無表情で会釈をする。 「柴さん、この間、申し訳ありませんでした」 「いや、いいよ。それよりお前が踏み止まってくれてよかった」 「・・・」 「堂嶋も時々は役に立つんだな」 俯いて煙草の灰を落としながら、ははと小さく笑う柴田の隣に立って、鹿野目はパンツのポケットから煙草を取り出すと、それを口に咥えた。 「まぁまた何かあったらいつでも言って来いよ。俺にできることなら聞いてやるし」 「・・・ありがとうございます」 火をつけるといつもの味がしてほっとする。柴田は煙草を消してしまっていたが、まだ何か思うところがあるのか、柵にもたれたままじっと動かないでいる。 「なんつって、ほんとはちょっと嬉しかったよ、俺も」 「え?」 「お前が相談してくれてさ。お前ら若手は俺の事怖がってあんまり話しかけてくれねーしさぁ」 そう言って柴田が冗談みたいに笑うのを聞きながら、鹿野目は柴田でもそんなことを考えたりするものなのだなぁと不思議に思っていた。いつもあんな不機嫌そうな顔をしていたら、怖くて話しかけられないのも何となく分かる気がするし、忙しい柴田の時間を奪ってまでするような案件が、リーダーならまだしもそもそも若手にはあまりないのが現状だ。きっと柴田もそれは分かっているだろうが、そういう理解とは別の事なのだろうと分かったように鹿野目はぼんやりと思った。 「俺は柴さんの事怖いとは思いませんけど」 「まぁお前はなんか他の連中とちょっと違うもんなぁ」 「なんですか、それ」 「意味は自分で考えろ、鉄仮面」 はははと柴田が笑って、鹿野目は少しだけ眉間に皺を寄せた。今日の柴田は良く笑う。機嫌が良い日と悪い日があって、結構気分にムラがあるから気を遣うと堂嶋が唇を尖らせて言っていたのを思い出して、今日はきっといい方なのだとぼんやり思った。 「柴さんはウチの班では人気ですよ」 「人気?なにそれ」 「佐竹さんとか、皆好きみたいです」 「へー・・・佐竹に好かれてもいまいち嬉しくないけど」 肩を揺らして柴田が笑う。そういえばデュエットの件は一体どうなったのだろうと鹿野目は思った。しかし堂嶋の結婚話が流れてしまった以上、佐竹のそれも夢と消えることになるのかと思って、鹿野目は少しだけ佐竹に申し訳なく思った。 「お前さ、来年も堂嶋んとこでいいの」 「・・・あぁ、班ですか」 「そ。アイツとなんかもめてたんだろ?もういいの。今季は流石にもう無理だけど、波多野さんとこに戻したっていいと俺は思ってるし、多分真中さんも・・・―――」 「いいです、俺」 「あ、そ」 短く柴田が言葉を切って、鹿野目は柴田にどこまで話すべきなのか考えていた。 「俺、堂嶋さんのこと好きなので、今のままで、いいです」 「は。なんか妬けるねぇ」 「どういう意味ですか」 「んーん。俺が引き止めた時はびくともしなかったくせに、堂嶋にはそうやって靡くんだもんなぁ」 「・・・別にそう言うことじゃ」 言いかけて、そういうことかと考えて言葉を切る。否定する言葉が他に思いつかなくなって、結局これでは肯定していることと同じだ。すると柴田がそれを目聡く見つけて、くつくつとまた笑い声を漏らした。何となく見透かされているような気がして、良い気分ではなかった。鹿野目のことを鉄仮面と柴田は言ったけれど、そして時々その無表情のことを誰かにそうして揶揄されることはこれまでにもあったけれど、その割にその仮面は上手く役割を果たしてくれていない。柴田の前だけに限って言えば。 「ほんとに好きなんだねぇ、お前」 「・・・駄目ですか」 「いや駄目じゃないよ、俺も真中さんに憧れてここに移ってきたし。まぁ何となくお前の気持ちも分からんでもないっていうか」 「はぁ」 「でも堂嶋のどこがそんなにいいわけ?俺にはちょっと理解できない」 「辛口ですね。柴さんって堂嶋さんと仲良いのに」 「なにそれ、仲良くねーわ」 「そうですか?だって一緒に昼食べに行ったりしているじゃないですか」 「いやだから堂嶋くらいしか俺に話しかけに来ないから、仕方なく、だよ」 「そうなんですか、佐竹さんがいつも羨ましいって言っています」 「オイ、また佐竹かよ、もういいわ、佐竹は」 うんざりしたように柴田が首を振るのを、鹿野目は何となく見ていた。堂嶋は柴田によく叱られている癖に、その割に柴田に懐いているようで、昼も時々誘ってふたりで出かけたりしている。それを見ながら隣の席で佐竹が羨ましがっているのもいつものことで、何となくそれを目で追いかけるのも、習慣づいてきてしまった。柴田も堂嶋もきっとそんな風に見られているなんて気付いていないだろう。特に堂嶋はそういうことに気付くセンサーを持ち合わせていない。入社してからずっと見つめてきたけれど、班に移るまで堂嶋がそれに気付いた素振りは一度もなかったからだ。今考えるとそれも虚しいけれど、あの時は見ているだけで満足だったと思いながら、溜め息を吐くと煙がすうっと形を変えて夏になりかけの空に吸い込まれていった。これで良かったのか分からない、ふとした折にそういうふうにまだ考えてしまうことが鹿野目にはある。 「柴さん、今度」 「ん?」 「俺ともご飯に行ってください」 「いいよ、堂嶋と三人で行く?」 そう言って柴田はまた笑った。

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