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第27話

「堂嶋さん結婚するらしいよ」 そう聞いたのは、鹿野目がまだ波多野の班にいる時だった。 「何年も付き合ってる彼女いるらしいじゃん、そろそろ結婚するんだって、タケさんが言ってた」 「何でタケさんがそんな自分の事みたいに言ってるのよ」 「さぁ、自分はそんなことがないから寂しいんじゃないの」 藤本は肘を突いたまま疲れた顔をしてふーんと呟いた。その横顔から目が離せなくなってしまって、鹿野目は焦った。別に見ているだけで良いと思った、堂嶋は鹿野目が真中デザインに就職した時から、咲と付き合っていたし同棲していた。だから元々堂嶋は人のものだと思っていた、見ているだけにしようと思っていた。思っていたのに、胸の奥がざわざわするのを押さえられなかった。 「鹿野、なに?」 「え?」 「なに、じっと見て、何か用事?」 「・・・いや・・・」 視線に気づいた藤本が、不思議そうにそう呟いて、鹿野目はぱっと視線を反らした。堂嶋はもう30歳だった、彼女が一体幾つなのか分からないが、世間的にはそういう話が出ても可笑しくない年頃ではある。考えながらパソコンの画面をじっと見ていたが全く集中できる気がしなかった。少し離れたところで藤本と同僚がまた別の話で盛り上がっているのが、今度は酷く遠くに聞こえた。 (どうせはじめから人のモノなんだ、何で今更、こんな気持ちになるんだ) 結婚して本当に誰かのモノになるまで、きっともうあと少ししかない。見ているだけで良いと思っていたのに、その頃の気持ちはすでに鹿野目の中にはなかった。それから事務所で真中を捉まえて、来季は堂嶋の班に移りたいと正直に言うと、何故か真中は酷く嬉しそうにそれを二つ返事で了承した。何故真中がそんなに嬉しそうにしたのか、鹿野目は今でもよく分からない。そして本当に真中は約束を守ってくれ、鹿野目は異動になった。堂嶋の近くで堂嶋の視界に入っていることが、嬉しくて少しだけ悲しかった。写真を取って脅してキスして、体を繋げてもっともっと、鹿野目はどんどん悲しくなって、それでもどうすることもできなかった。堂嶋が結婚したらこんなことは止めようと思いながら、拍車がかかる気持ちと体に歯止めがきかなくて、こんなことで本当に何もなかったみたいに止めることができるのだろうかと考えているうちに朝が来たりして、何でもないふりをするのは昔から得意だったから、誰にも何にも言われなかったけれど、本当は誰かに腕を取って、こんな不毛なことは止めたほうが良いと言われたかった。言われたかったけれど堂嶋のそれには意地でも首を振ることが出来なくて、自分でも好きでいるのか傷つけているのか分からなくて、彷徨っているうちに出口がどこかも分からなくなった。 堂嶋がいよいよ結婚に向けて動いているらしいと聞いた時に、藤本からそれを聞かされた時よりも、遥かに胸が痛くて引き際がここだと分かった。堂嶋が幸せでいることを誰よりも願っているつもりだったけれど、誰かと手を繋いで幸せになる堂嶋のことを見ていられなくて、自分でもひどい矛盾だと思いながら真中デザインを辞める決意をした。堂嶋の前から綺麗にいなくなって、それで終わりだと思った。優しいそのひとは自分のことをきっと心配するだろうと思ったけれど、多分それだけだ。 (きっと俺とこんなことをしたことも、すぐに忘れる) 思い出にしようと思った。良い思い出にしようと思って、鹿野目はひとりで蹲っていた。明日は仕事に行かなければならない。辞めるまでの数カ月は平気な顔をして堂嶋の前にいなければならない。それまでに結婚式がないといいなぁとか、鹿野目がその時考えていられたのはそれくらいのことだった。苦しいのも痛いのも我慢するのは昔から得意だったけれど、幾ら一方的な思いでも、途切れる時はいつも体が千切れるくらいに痛くて、なのに涙することも出来なくて、蹲ってじっと痛みに耐えることしかできなかった。堂嶋がマンションの扉を開けるまでは、鹿野目はそれと暫く二人でいるつもりだったのだ。 堂嶋はマンションの扉を開けて、鹿野目にはよく分からぬことを色々喚き散らしていた。鹿野目にはそれが自分の都合の良い妄想に思えたし、もしかしたら夢でも見ているのかもしれないと思った。夜は良く眠れない自分も、眠りが浅いせいなのかよく悪夢を見てうなされることがあった。悪夢にしては自棄に性質が悪いけれど、色が鮮明で眩しくて現実みたいで、これでは目覚めた時に一層悲しくなるからきっとひどい悪夢だと思いながら、堂嶋の顔を見ることが出来なくて、廊下のフローリングの板目を視線でなぞっていた。そうしたら悪夢も諦めて自分の前から去ってくれるのではないかと思っていたからだ。 「彼女に他に好きな人がいるんだろうって言われたよ」 「その時に君の顔が浮かんだよ、君が苦しそうに俺に好きだっていたことを思い出したよ、痛いくらいにじっと見つめてきたことも」 「鹿野くん、俺はね、もう手遅れだと思ったよ。こんな時に君の顔が浮かぶなんて俺はもう手遅れなんだ、彼女に何にも言ってやる権利がないって、思ったよ」 「意味が分かる?」 堂嶋の声は酷く落ち着いていて、いつも困って慌てて泣きそうな声を出しているとは思えなかった。鹿野目は板目に視線をやったまま、力なく首を振った。もう堂嶋には黙って欲しいと思ったけれど、それすら口に出すことが出来なくて、震えたまま首を振った。その続きの言葉が恐ろしかったけれど、その言葉の続きに死にたいほどの気持ちの悪い期待をしている自分もいて、首を振るしかなかった。 「俺は君のことが好きだよ、鹿野くん」 ひくりと鹿野目の肩が揺れて、それから随分ゆっくり顔を上げた。堂嶋はその温度のない頬をゆっくり撫でて、それから腕を回して鹿野目をぎゅっと抱き締めた。そういえば、鹿野目に抱き締められることはあっても、自分からこんな風に鹿野目を抱きしめたいと思ったことはなかった。抱き締めた腕の中で鹿野目が微弱に震えていて、まだ彼はそうやって迷っているのだと思った。その手を本当に掴んでいいのかどうか、迷っているのだと思った。それにどうすればもう迷わなくていいのだと教えてやることが出来たのだろう、出来るのだろう。堂嶋は考えていた。そういうことをもう自分は考える権利も資格もあるのだと思えた。それは酷く自由な感覚で、自分はもう鹿野目と向き合っても鹿野目を不用意に傷つけたりしなくてもいいのだと思った、思えた。 「俺は嬉しかったよ、君が真っ直ぐに好きだと言ってくれたことが」 「順番はぐちゃぐちゃになったし、遠回りもしたけど、もう一回言ってよ、鹿野くん」 「今度は俺も、それにちゃんと返事が出来そうなんだ」 腕の中で鹿野目の体が揺れて、笑っているのだと分かった。堂嶋はゆっくりその腕の力を緩めて、鹿野目との間に僅かに距離を作った。鹿野目は俯いたまま、僅かに肩を揺らしている。好きだと言われて嬉しかった。本当にただそれは純粋な思いで。好きだと言われて嬉しかったけれど、好きになってくれと、言われなくて少し悲しかった。自分が彼に差し出してやれるものがないことが分かっているのに、そんなことを求めても彼を苦しめるだけだと分かっているのに。鹿野目は酷く緩慢な動作で顔を上げた。いつもの無表情だったけれど、その目にも頬にもちゃんと温度が灯っていて堂嶋は安心した。そして口角を少しだけ上げる。こんな風にしか笑うことが出来ないなんて、不器用にもほどがある。 「馬鹿だな、悟さん。あのまま彼女と結婚していたらこんなことには・・・―――」 「そうだね、こんなことにはならなかったよ、きっと」 「ほんとに、なんで」 鹿野目の肩がまた揺れて、堂嶋は笑った声を奥歯で噛み殺した。

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