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第26話

インターフォンが鳴ったのに、誰かをろくに確かめもせずに扉を開けた。 「・・・悟さん?」 そこに昼間追い返したはずの上司が立っていて、鹿野目は驚いて反射的に扉を閉めようとした。すると堂嶋らしくない俊敏な動作で彼は開いた扉の隙間に足を突っ込んで、それ以上扉が閉まらなくなってしまった。するりと鹿野目の手からドアノブが零れる。ひゅっと喉の奥で風の音がした。堂嶋は閉められた扉を強引に開くと、持っていたボストンバックを鹿野目に向かって投げた。鹿野目は思わずそれを両手でキャッチする。何処か旅行にでも行くのかと思うほどの大きな鞄は、受け止めるとずしりと重たかった。鹿野目は両手の中のボストンバックを見て、それからゆっくり玄関に侵入してきた堂嶋の方を見た。あんなに狼狽して昼間ここを出て行ったとは思えないほど、強い目をして堂嶋はそこに立っていた。 「悟さん・・・なんで・・・」 「鹿野くん、良く聞きなよ」 「なん・・・―――」 「俺、彼女と別れてきた」 ぐらりと体が揺れて、ハッとして意識的に足を踏ん張ると揺れが止まった。重たいボストンバックが、支えきれなくて手から落ちていき廊下に転がる。これは一体何なのだろう、疑問は一瞬で弾けて消えた。そんなことを確かめている時間はふたりの間にはなかった。鹿野目はゆっくり、確かめるつもりで堂嶋のほうを見やった。そうやって何を確かめようとしたのか、鹿野目にはよく分からない。相変わらず強い目をしている。何か勝ち誇った顔をしている。堂嶋は眉尻を下げて困った顔をしていることが多かったけれど、今日はどうしてなのか随分自信に満ち溢れた顔をしている。一体どうしてなのだろう。鹿野目は酷くぼんやりと思った。水の中にいるみたいに平衡感覚が曖昧で、堂嶋が言ったことを思い出そうとするたびに、何かが邪魔して上手く想起できないでいる。彼が今何を言ったのか、鹿野目にはよく分からない。きっと今理解できないということは、この先一生理解できないことだろうと思った。大袈裟でなく。これは都合の良い自分の妄想ではないのか。 「・・・は?」 「俺が結婚しなければいいんだろう。そうすれば君は辞めないでくれるんだろう、これでいいんだろう!」 「・・・何を・・・言ってるんですか・・・」 声が震えて、上手く発音できなかった。自分ではそう言ったつもりだったけれど、堂嶋の耳にどう届いたのか分からない。そう気持ち良く言い放った堂嶋は、自棄にすっきりした顔をしていて、何かが違うと思ったけれど、鹿野目にはもう冷静に物事を考える余裕は残っていなかった。何が違うのか上手く説明できない。けれど何かが違う。堂嶋は何かを強く勘違いをし、選択肢を誤って、ここに、鹿野目の前に立っている。首を振っても堂嶋がそれを分かってくれないことは分かっていたけれど、それでも鹿野目は首を振るしかなかった。鹿野目にはもう否定することでしか自分を守る方法しか残されていない。 「君がはじめに言ったんだろう、俺のことが好きだって」 「・・・さとり、さん」 「その責任を君は取るべきだ、鹿野くん」 「ちが・・・そんな・・・」 「俺は望みどおり君のモノになってやるから」 目の前が真っ暗になって、鹿野目は慌てた。ふらつく足で堂嶋に近づいて、その肩を掴んでもまだ、現実感に欠いていた。今すぐにでも掴んだ肩が消えて、自分の都合の良い妄想が消えてしまえばいいのにと願っても、目の前の堂嶋は温度を持ってそこに立っている。ぎゅっと肩を握ったら、堂嶋が少しだけ口角を上げて笑ったような顔をした。どうして堂嶋がそんな顔をするのか分からない。責任を取るべきだと彼は言った、確かに言った。責任とは何だ。鹿野目には分からない。確かに言った。堂嶋に好きだとはじめに言ったのは自分だった。堂嶋は間違ったことは言っていない、言っていないけれど、根本的に堂嶋は何かが間違っている。鹿野目はそれを上手く指摘できなくて説明できなくて、混乱したまま手に力を込めた。 「違う・・・そんなこと、俺は望んでない・・・」 「鹿野くん」 その時自分の名前を呼ぶ堂嶋の声が、酷く優しく聞こえて鹿野目はもう一度首を強く振った。堂嶋の肩を掴んだ手を上から堂嶋にぎゅっと握られて、鹿野目はますます混乱した。一体彼が何を言おうとしているのか、何をしようとしているのか、分からなくて苦しい。俯くと自分の息で窒息しそうだと思った。一体何がどうなって、こんなことになっているのだろう。 「早く、早く帰って彼女に謝ってください、今ならまだ間に合います」 「鹿野くん」 堂嶋がまた優しく自分の名前を呼んで、鹿野目はそれを振り払うことが出来なくて焦った。 「こんな、こんなことってない、俺が何のために・・・何のために必死で・・・」 「そうだな、君はいつも必死だったし真っ直ぐだったよ」 「こんなのってない。悟さんは、悟さんは、絶対幸せにならなきゃいけない、なのに」 ずるりと堂嶋の肩を鹿野目の握った手から力が抜けて、そのまま鹿野目は廊下にへたり込んでしまった。肩が僅かに震えている。泣いているのかなとそれを見ながら堂嶋は静かに思った。自分でも狼狽する鹿野目の姿を見ながら酷く冷静でいるなと思った。いつも無表情で鉄仮面の彼が、そんなふうに取り乱す姿を、堂嶋はどこかで見たことがあるような気がしたし、一方では酷くそれは新鮮な姿にも見えた。どちらにしてもことが相手のコントロール化にない分、客観視できていたのかもしれない。こんな状況でも、いやこんな状況だったからなのか。するとぱっと鹿野目は顔を上げた。目の周りは赤かったが、鹿野目は泣いていなかった。こんな時に涙を流して、相手の同情を請うことも出来ないなんてやはり鹿野目の不器用さは目に余る、堂嶋はそれを目を細めていた。そうやって苦しがったり痛がったりするさまを見ていた、ずっと傍で見ていた、どうすることも出来ないと思って頭を撫でて慰めているつもりだったけれど、鹿野目にとってそれは一体なんだったのだろう。結局やっぱりそんなのは堂嶋の独りよがりで、彼の心のささくれ立った部分には触れることが出来なかったのだろうか。 「今からだったら遅くない、きっと彼女も許してくれます」 「鹿野くん」 「俺とのことがばれたんなら、脅されたって言えばいい。実際そうだ、俺はずっと悟さんを脅して・・・―――」 「もう手遅れなんだ」 「そんな・・・」 だらりと鹿野目の手が落ちて行って、堂嶋はそれを見ながら何故か、口角を上げていた。玄関に靴も脱がずにしゃがんで、俯く鹿野目の顔を覗き込む。顔面蒼白で唇が震えている。廊下に放り出された鹿野目の手を掴んで、堂嶋は鹿野目にも見えるように微笑んで見せた。鹿野目は焦点の合わない目を堂嶋に向けて、どうしたらいいのか分からないようだった。もう手遅れだった。確かにもう何もかも手遅れだった。咲が何も言わないのねと言った時、堂嶋は何を言えばいいのだろうと思っていた。それでもう分かったのだ、咲に何も言うことがないことも、心がそこにないことも、そこで堂嶋は分かってしまったから、咲に何も言うことが出来なかった。いつからだったか分からない、無理矢理ここに引っ張って来られて、鹿野目が真っ直ぐ曇りのない瞳で好きだと言った時からだったのかもしれない。鹿野目の目や手が持っている冷たくてほんの少しだけ温かいところとか、自分でもその気持ちを上手く扱えなくてひとりで怯えているところとか、はじめは可哀想だから慰めてやりたいと思っただけだったのに。鹿野目と過ごすことが増えて、俯く彼の頭や湾曲した背中を誰も撫でたり抱き締めたりしたことがないのだろう、とぼんやり思うことが増えていって、鹿野目はそういう手や腕には免疫がないのだと思ったら、何だかそれが酷く愛しく思えた。抱き締めてその頭を撫でて、慰めてやりたいと思った。 「鹿野くん、良く聞くんだ、俺はね」 愛してやりたいと思った。

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