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第25話
その日、堂嶋が家に帰ると咲が夕飯を作っているところだった。元々忙しくはあったのだが、特に堂嶋がリーダーに昇格してから、帰ってくるのが格段に遅くなり、咲のキッチンに立っている姿を見るのは酷く久しぶりな気がした。堂嶋が家に帰るころには、テーブルの上に夕食がラップをかけておいてあることが多い。咲も仕事をしているので、そんなに毎日作らなくてもいいよと一度言ったことがあるが、咲は私がやりたいからいいのと笑って言っただけだった。それ以来、ほぼ毎日咲は堂嶋の為に夕食を作り続けている。おそらく結婚したらこのまま、世間的にもいい奥さんと呼ばれる部類に入るのだろう。
「おかえり、悟くん。早かったね」
「あぁ、うん」
その笑顔を見て、堂嶋はこれで良かったのだと反芻するように思った。元々鹿野目があんなことを自分相手に言ってこなければ、こんな風に悩むこともなかった。今迄通り、咲と穏やかな生活を続けていくことになっただろう。胸がずきずき痛むのも、きっと時間が経てば治まって、きっと鹿野目とのことだっていつか思い出せなくなる。すべて元に戻ったのだ、これで良かったのだ。堂嶋はいつものようにソファーに座ってぼんやりとテレビを見ていた。咲がキッチンから楽しげに話しかけてくるのに、時々相槌を打ちながら、波打つ気持ちと心にそうやってどうにか折り合いをつけて、生きていかなければならないことを実感した。きっと鹿野目も苦しいのは今だけだ、今を過ぎればまた誰かを好きになって、今度は両手で頭を撫でてもらえる相手を好きになって、きっと今度こそ幸せになって。堂嶋はいつの間にか閉じていた目を開けた。
(きっと俺のことを、苦しいくらい好きだって言ったことも、忘れる)
そう思うと少しだけ胸が痛んだような気がしたが、もうそんなことに胸を痛める資格などない。資格も権利もはじめから堂嶋にはない。分かってはいたが、何だか苦しいような気がした。いつの間にか芽生えた優越感は、独占欲に少しずつ形を変えているのだと思った。
「悟くん」
ふと咲に呼ばれて、堂嶋は首をキッチンに向けた。咲はいつの間にかテーブルに座っており、にこにこしながら正面の椅子を黙って指さした。夕食が出来たのだろうか。先程まで何を話していたのか思い出そうと思ったけれど、相槌を打っていたのに全く記憶になかった。上の空で返事だけしていたのだと思いながら、堂嶋は立ち上がって咲の向かいの椅子に腰かける。
「ね、悟くん。夕食の前に少しだけ話があるんだけど」
「話?なに?」
「あのね、悪いんだけど、私と別れて欲しいの」
「・・・え?」
言葉を失って、堂嶋は口を開けた格好のまま固まってしまった。向かいで咲はにこにこと微笑んだままだ。言葉が何も出てこないまま、堂嶋は一度ゆっくり瞬きをした。咲の表情は変わらない。張り付いたような笑顔のままだった。ますます分からない。
「悟くん。他に好きな人がいるんでしょう」
少しだけ目を伏せて、咲は自棄に静かにそう言った。余りにも静かだったので、咲がそう言ったのか、そう言ったような気がしただけだったのか、堂嶋には一瞬分からなかった。堂嶋はそれに何と言えばいいのか分からなくて、黙っていることしかできなかった。沈黙は肯定だと分かっていたのに。どうすることも出来なかった。余りにも色んなことが立て続けに起きていて、完全に処理できるキャパを超えてしまっている。好きな人と確かに咲はそう言った、それが一体何を意味するのか、幾ら分からないふりをしても無駄なことは明らかだった。堂嶋はそこで神妙な顔をしながら、分からないわけではなかった。
「最近変だったもん。夜遅くに帰ってきたり、服から知らない煙草の匂いがしたり」
「・・・あぁ」
「悟くん嘘吐けないからすぐに分かった」
「・・・そう・・・か」
煙草の匂いが移るほど、多分一緒に居たし傍にいた。咲はそんなことには気が付かないだろうと思っていたけれど、気が付かないでいたのは、きっと堂嶋のほうだった。咲はとっくに分かっていて、分かっていたからこそそれが現実になるのを恐れて黙っていた。黙っていたのだ。
「否定しないのね、まぁいいけど。悟くんが最後に私のところに帰って来てくれたら、それで良いかなと思ってたんだけど、でもごめん、我慢できなくなっちゃった」
「・・・咲ちゃん・・・」
俯いたまま咲が口角を上げるのを、堂嶋はどこかで見たことがあるような気がしていた。そうやって精一杯自分の気持ちを取り繕わせているのは自分なのだと思いながら、堂嶋はもう何もできなかった。そうやって俯く咲に何と言葉をかけて良いのか分からなかった。違うともそうだとも言えない。それさえも言えない。違うのかそうなのか、堂嶋だって分からなかった。けれど咲にそう言われた時、堂嶋の頭に浮かんでいたのは鹿野目の顔だった。苦しいくらいに好きだと言った、鹿野目の顔だった。
「言わないのね、悟くん」
「・・・何を?」
ふっと咲は笑った。どうして彼女がこの状況でこんなに気丈でいられるのか分からなかった。けれど堂嶋も自分自身が驚くほどしっかりと彼女の方を見て、余りにも冷静でいられることに、水面下では驚いていた。本当ならもっと取り乱して、彼女を止めようと躍起になるべきだろう、いや今からでも遅くないから土下座でも何でもして、鹿野目との間にあったことを全て話して、彼女の同情を請っても良かった。でもそんな風にこんなやり方もあるのにどうしてこれを選ばないでいるのだろう、ぼんやり椅子に座って彼女の話を聞いているだけなのだろうと思っているうちは、自分ではひとつもアクションを起こす気がないのだろうことは分かっていた。堂嶋は混乱しながら、その先の顛末が少しだけ読めていたのだ。
「ごめんとか許してくれとか、好きだとか一緒に居てとか」
「・・・―――」
「まぁそっか。もうその相手は私じゃないってことだもんね」
肩を竦めて彼女は笑った。堂嶋はろっ骨の奥がずきんと痛んで、この痛みは一体何なのだろうと考えていた。咲と出会ったことも幸せだった思い出も、頭の中を少し掠めたけれど、堂嶋はそれを口には出来なかった。彼女をここで引き止めることの方が、本当は不誠実だと分かっていたからなのかもしれない。だから黙っているのも、卑怯だと思ったけれど。
「これ」
咲がテーブルの下から手を出して、持っていたものをテーブルの上に置いた。香水の瓶だった。何処かで見たことがあるような気がした。
「悟くん、時々ばれないようにこれ、つけてたでしょ」
「・・・―――」
それは鹿野目がつけている香水だった。
「でもこんなカッコイイ香水、悟くんには似合わないよ」
そう言って咲はにこっと笑った。
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