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第24話

真っ白のシーツに包まって、鹿野目はじっと息を殺していた。もうずっと何時間も同じ姿勢でじっとしている。目を閉じると鼻はマルボロや香水の匂いの奥に、少しだけ堂嶋の匂いを嗅ぎ分けることができる。そうやっていられるのもあと少し、これももう洗ってしまわなければいけない。そしてこの気持ちも思い出も全部早く忘れるのだ、それがいい。それが良いに決まっている。それ以外の選択肢はない。考えながら鹿野目は実行できずにそこで包まって、誰にも見つからないように、誰にも咎められないように動かないでいる。もう何時間も。じっとしていると少し眠くなってきて、昼間からうとうとしてきた。鹿野目は夜余り眠ることが出来なくて、眠くなるという感覚はよく分からないでいた。だからこんな風に昼間から眠くなるのは珍しい。頭の冷えたところで冷静に考えながら、凝り固まった体をゆっくりと反転させた。 (・・・チャイム?) ふとインターフォンが鳴ったような気がして、鹿野目は体を起こした。部屋の中にまたインターフォンの高い音が響く。それに引っ張られるようにして、鹿野目は寝室を出た。何だか色々面倒くさかったが、宅急便だとまた来てもらわなければならないのも面倒だと思いながら、何にも確認しないで扉を開けた。するとその扉の隙間から、何か大きいものが飛び込むように入ってきた。 「・・・よかった!いた!」 「どう・・・悟さん?」 飛び込んできた堂嶋を抱き留めるような格好になって、鹿野目は2,3歩足を後退させた。腕の中でばっと堂嶋が顔を上げる。珍しく必死な形相をしている。冷静に分析をしながら、鹿野目は堂嶋の体を離してまた足を後退させて距離を取った。時計を見なくても昼を少し過ぎた時刻であることは分かっている。今日もきちんと襟のついたシャツを着ている堂嶋は、どう考えてもまだ勤務中のはずだ。 「なんですか、悟さん・・・」 「何ですかじゃないよ、鹿野くん、君!柴さんに辞めたいって言ったそうじゃないか!」 昨日会ったばかりだというのに、その時ばかりは鹿野目が良く知らない誰かにすら見えた。堂嶋がほとんど勢いのまま言葉を選ばないで口にしたそれを聞いても、鹿野目はひとつも動揺することなく、ただ唇を開いて僅かに相槌を打っただけだった。 「柴さんもう悟さんに言って・・・言うのはやすぎだろ」 「なんで辞めたいなんて!そんなこと俺には一言も・・・」 「アンタに言ってどうするんですか、ほんと馬鹿ですね、悟さん」 「からかうのはやめろ!鹿野くん、辞めるなんて嘘だよな!」 「嘘じゃないですよ、俺は真中デザインを辞めます」 酷く冷たく鹿野目はそう言い放って、堂嶋は目の前が真っ暗になったような気がした。立っている感覚を一瞬失って、そのままふらふらと倒れ込みそうになる。鹿野目はそれを見ながらいつもの無表情でいる。もしかしたら違ったのかもしれないけれど、少なくとも堂嶋にはその時、自分が頭を痛めて眩暈を起こしていることに関して、鹿野目には何も響いていないように見えた。 「・・・なん・・・で・・・」 「何でって、そんなこと聞くためにわざわざ来たんですか」 「・・・鹿野くん、何でだよ、辞めるなんてそんな、そんなことする必要ないだろ・・・」 堂嶋が伸ばした手が鹿野目の服を掴んで、緩やかに動いて止まる。鹿野目はそれを見ながら、それを振り払ってもいいのかどうか考えていた。 「悟さん結婚するんでしょう」 「・・・え?」 「本当はそれを見届けてから辞めるつもりだったんですけど。貴方が他の女のモノになっていくの、見てるの思ったより辛かったんで、だからもう、この辺が引き際かなって」 「・・・―――」 驚いたように鹿野目を見上げた堂嶋の目の表面が、濡れてキラキラと光っている。鹿野目は自分の服を握っている堂嶋の手を掴んで、それをゆっくりそこから剥がすとそっと手を離した。すとんと重力に引っ張られて堂嶋の手は落ちていく。 「そ、そんな、ことで、辞めるなんて」 「そんなことって何ですか、俺にとっては大事なのに」 「だって、君は、はじめからそれで良いって」 「だからはじめから辞めるつもりだったんです。悟さんの班に移してもらったのも、そろそろ結婚するらしいって聞いたからで」 「・・・そんな・・・だって・・・」 「俺の好き勝手にしてしまって、悟さんには色々嫌なことも付き合って貰って、本当に申し訳ないと思ってます」 ゆらっと鹿野目の体がまた部屋の中に吸い込まれるように動いて、堂嶋は慌てて手を伸ばしたけれど、鹿野目が意識的に取った距離のせいで、堂嶋の手は宙を切っただけだった。 「か、鹿野くん、待って、待ってよ・・・」 「写真も動画も今度こそ全部消します。もう悟さんの幸せの邪魔はしませんから」 「まっ・・・―――」 「彼女と末永くお幸せに、さよなら」 そうして鹿野目は口角を上げて少しだけ笑んで見せた。いつも震えるくらい無表情なのにこんな時だけこんな顔をするなんて卑怯だと思ったけれど、堂嶋はそれを咎める権利が自分にはひとつもないことが分かっていた。こんなところまでやって来て鹿野目に何と声をかけたらいいのか分からないみたいに、最後の最後で立ち尽くして何も言えなかった。無情に全てに終止符を打とうとする鹿野目の強引な手口を、止める術がひとつも見当たらなかった。鹿野目に簡単に肩を押されて、目の前でマンションの扉が閉まる。堂嶋はその黒い扉を見ていた。長い間、そこから動くことが出来なかった。扉を挟んで向かい側に、息を殺して鹿野目が立っているような気がして、動くことが出来なかった。何もできないと分かってもまだ。 (分かってたんだけど、最後は、こんな風になるってこと) (でも何で俺の方が、こんなに寂しい気持ちなんだろう) じっと見ていても黒い扉は動かない。この部屋に初めて訪れた時のことを、堂嶋はゆっくり思い出していた。真っ直ぐ射抜くように見て、曇りのない瞳で好きだと言った彼のことも、時間がもうないと言って怯えながら、手を伸ばすのさえ躊躇した夜のことも。もっとほかの方法で、愛を囁くことは出来たのではないだろうかと、もう堂嶋は思わなかった。鹿野目が自分の蒔いた種のせいで苦しがる様を見ながら、その頭を撫でることで許されるつもりでいた。結局、何をしたって彼を傷つけることにしかならないことが分かっていたので、せめて優しくしてやりたかった。そうしてこんな風に終わる時に、自分の心を慰めることにもきっと繋がると思って。けれどそんなことも結局は無駄だった。全部無駄だった、終わってしまえば同じことだった。 (これで良かったのかな、本当に) (いや、良かったんだ。元に戻ったんだ。それだけだ) 堂嶋はぎゅっと手を握りしめて、鹿野目がまだ扉を挟んだすぐ向こうにいるかもしれないと思いながら、マンションを後にした。もうここにはきっと来ないだろう、地上まで降り立って見上げたマンションの形を、堂嶋は初めて見たような気がしていた。

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