1 / 5

第1話

 手が触れた。 「、と」 「っ」  互いの手が飛び退く。飛び退き、互いの射程範囲で右往左往する。出方を窺う。隙のない牽制。それはまるで、ファイティングポーズで間合いを取り合ってグルグル回るかぶとむし同士の戦いのようだ。  戦う左手と右手の上でそれぞれの持ち主のほうはよそよそしいのがまたお笑い種。紅蓮はそっと顔を逸らし、かあと火照っている自覚のある顔をそれとなく隠しつつ、明後日の方向へと半笑いでこう言った。 「す、すまん……」  ――手が触れてしまって。  隣で、冬弥が吹き出した。  終電の近い駅改札へ向かう通用路。それなりに人混みもあり、酔っ払ってもいて、隣を歩けばたまには手もぶつかる。どこにでもある出来事に、全身まるごと心臓になるほど動揺しなければならないのは、そう、――恋をしているからだ。  紅蓮と冬弥は幼馴染。互いのランドセルをリコーダーで叩き合うところから始まって、もう十年以上の付き合いになる。紅蓮は冬弥より三つ年上だが、二人は親友同士だ。親友同士で、このたび晴れて恋人同士にもなった。いつもボーッとして鼻水を垂らしていた冬弥にまさか恋をするなんて思ってもみなかったし、冬弥の方も、腕白でガキ大将の気質のあった紅蓮に告白される日が来るなんて、夢にも思わなかっただろう。  紅蓮はそれなりに多忙なサラリーマン。冬弥はそれなりに多忙な大学院一年生。会える時間は週末か、こうして平日夜に駅前の飲み屋で落ち合うくらい。だから、付き合って一ヶ月くらいになるけれど、今日がまだ三回目のデート。 「すまん、ってなんだよ、すまんって」  冬弥が笑う。酔っ払って浮ついた声にくしゃりとした笑顔がかわいい。ただし夜でも分かるほど顔が真っ赤なのは、酒にめっぽう弱いからだ。手が触れて恥ずかしがってるわけではなく。 「当たったからさ」  ドキドキのあまり変な笑い方をしてしまう紅蓮の顔が真っ赤なのは、そりゃもうドキドキしているからだが、多分夜だからバレずに済む。 「それは分かるけど」  言いながらマフラーに顎を埋める冬弥の吐く息が白い。自他ともに認める冴えない顔だと彼は言うが、ひょろりと身長の伸びた彼は、紅蓮フィルターを通して見れば何をさせてもかわいい恋人だった。 「付き合ってるのに手が当たってすまんっていうのは、違うんじゃないか?」 「そ、うか」 「そうだよ」 「付き合ってるんだよな……」 「そっちか、今更か」  笑われた。笑われたが笑ってくれたので嬉しかった。へへへ、と笑いつつ頬を掻き掻き、そうだよな付き合ってるんだよな、と紅蓮は心の中で繰り返した。  二人は一ヶ月くらい前からからお付き合いしている。  ――キスもしてないし、手も繋いでない、それどころか付き合う前となんら代わり映えのない会話を、なんら代わり映えのない安いうまいの飯屋でしているだけだけれど、二人は本当に付き合っている。 「じゃあ、また週末」 「おー」  軽く右手を上げ、背を向けて、冬弥はなんの迷いも未練もなくICカードをタッチして改札の向こうに消えていくけれど、二人は本当の本当に付き合っている。  本当に、付き合っている――はずなのだ。 (……今日もキスできなかった……)  冬弥の姿が完全に見えなくなってから、ガックシと紅蓮は肩を落とした。  今日こそは。今日こそはいけると思ったのに。唇がガサガサで嫌われないよう生まれて初めてリップクリームを買って毎日ケアして、はちみつパックとかいうのも試してうるうるしっとりにしてきたのに。冬弥がちくちくしないよう髭も仕事終わりにわざわざ剃り直したし、口臭を良くするタブレットも居酒屋でこっそり飲んでおいたのに! ――ああ、自分の不甲斐なさに嫌気が差す。三回目のデートでもあるし絶対に決めてやると張り切って、まったくイイ雰囲気にできなかった。  反対方向の電車に乗りガタンゴトン車体に揺られながら、今日もデートの反省会。どこだ? どのタイミングで、キスをするべきだったんだ? また週末、って別れるときに肩を掴んで振り向かせればよかったのか。付き合ってるって言われたときに、じゃあさって囁いて顎を持ち上げてやればよかったのか。いや、多分手の甲同士が触れたときだ、あのとき咄嗟に謝らず、そのまま手を取ってしまえばよかったんだ。手を取って、ぽかんとして冬弥が見上げてきたら、その目をじっと見つめてやればよかったんだ。――想像すると顔の表面が沸騰して、終電電車の中で奇声をあげながら踊り出したくなってくる。紅蓮は冬弥専用の瞬間湯沸かし器なのだった。  同僚に相談すると、お前は童貞か、と笑われる。  確かに紅蓮は童貞ではない。これまで人と付き合ったことは何度かあるし、どちらかと言うと常にリードする側だし、キスもハグもセックスも仕掛ける側の人間だ。仕掛けるのも、付き合いたてだからと言っていつもためらいはない。追いかけて追い込んで、逃げたらさっと捕まえて、がぶりと噛みつく。それだけのこと。噛みつきたいから噛みつくのであって、噛みつかれた獲物が何を考えるのかなんて、あまり想像したこともない。  でも、冬弥は幼馴染だ。  獲物ではなく、よちよち歩きの頃から紅蓮のうしろをちょこちょこついて回ってきた、可愛い弟分なのだ。  どこから噛み付けばいいのかまるで分からない。抱き合ってキスをして、裸にも触れてみたいという欲望も確かにあるが、冬弥と情事に及ぶ姿を想像すると興奮以上に恥ずかしさで頭から火が出そうになる。己の体に下に組み敷いた冬弥が、普段の静かな喋り方をするのと同じ喉で子猫のように喘ぎながら懸命にしがみついてくるところを想像すると、興奮以上に、決して侵してはならぬ領域を土足で踏み荒らしまくっているような、ひどい背徳感に襲われる。  ――紅蓮。  バッティングセンターで生まれてはじめてホームランを撃ち抜いて、景品のうまい棒詰め合わせを抱えて目をきらっきらさせて自分を呼んだあの冬弥が、自分のそそり勃つホームランバット、あるいはうまい棒、を咥えこむところを想像すると。  ――ぐれ、ん、  ゲーセンで本気のエアホッケーに興じすぎてゼェゼェ息を切らしながら、悔しさに紅潮した頬で泣きのワンプレイをせがんできたあの冬弥が、達した紅蓮の腰に足を絡めて離さずにもうワンプレイをせがんでくるところを想像すると。  スマホが鳴った。  さっき別れたばかりの冬弥からLINEが来ていた。 『次、土曜日は空いてる? 映画見たいんだけど』  ああ畜生かわいいなあきっとおいしいんだろうなあ!  身体中をかけめぐる衝動が、流れゆく夜景へ飛び出したがる。額がガラスに激突した。

ともだちにシェアしよう!