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小高い丘にある信仰無き教会。
賛美歌もなく聖書もなく、
そこにあるのは華美な廃虚の残骸。
崇め奉られしは、貴族の間のみ語られた
噂のみの存在。
小高い丘の教会は、
今では孤児たちの、
歓声と嬌声が重なり合い響いては響む。
孤しとなった子を集わせるのは、
日記を所持した男。
男は頻繁に万年筆を
紙面に動かしているが、
町では、
どのページも白紙であると、
孤児院から育った爺様が云っていた。
1-1
『1789年ーレオン、行方不明』
『1811年ービル、行方不明』
『1830年ーボブ、行方不明』
『1861年ーケイシー、行方不明』
『1887年ージョナソン、行方不明』
『1902年ーエリック、生死不明』
『1950年ークレイグ、行方不明』
『1971年ーブライアン、行方不明』
『2008年ーハロルド、行方不明』
『2009年ージャック、行方不明』
『2011年ーフレベンデル、行方不明』
『2015年ーモリアス、生死不明』
……それは緩やかな春と夏の間の時節のことであった。賛美歌も賞賛の言葉さえも残されていない神がかつて信仰を得ていた教会は時代の流れと共に朽ち果て、一時期、廃虚当然の有り様の状態となっていた。
しかし、どういった目的か、この放牧とした町に突如訪れた『白紙の日記』を持った男性が、建物を己の財力のみで建て直したのだという。正確には直したといっても、かつて教会であった痕跡を所々残しながら、持ち直したと表現した方が良いかもしれない。
教会――否――建造物である施設の内造は一般的によくある普遍的な孤児院当然のものとなり、遜色ない。
実際、かつて教会であった現孤児院に住まう子供たちは、廃虚を過去の残骸である名残を適度に残しながら、大人となって社会と交わりを持つために食事や寝床以外の提供の他にも、必用最低限ではなく、子供ら自身が望めば素人顔負けの専門的な知識を教えていた。その知恵の深度はかなり高度なものであることから、孤児院を設立したその人物は、『先生』と呼ばれ親しまれている。
その『先生』は果たしてどこから来たのか、そうしてあらゆる分野において詳しい知識を有しているのか、全てが蝙蝠のように謎に包まれていた。
興味深い人物として時折、ライターなどの生業を持つ書き手が態々訪れるほど、小高い丘から少し離れた町では、老若男女の何れにも関係なく誰でも知っている有名人なのであるが、常に白紙の日記を持っていることと、孤児院にしては高度な教育を受け一般水準の生活より潤った環境であるにも関わらず、定期的に院から出た者が定期的に衰弱死を遂げる点が、実に不可解だった。
該当施設内の先生に何か問題があるのかと県警による調査が実行されたのにも関わらず、黒い噂の正体を掴もうにも、まるで霧にでも触れようとするかのように原因が分からない。殊に不自然な事実として、衰弱死した孤児院は全員男性であるだけではなく、遺書に先生への真心からの感謝の言葉が綴られているのであった。
衰弱死者の共通点として性別が同一であることが一度述べられたが、それ以外にも二十代前後の若者が自ら命を擲っている。
上記の問題から孤児院はかなり古い建造物であったことも手伝って、木乃伊取りが木乃伊になるかのように、大昔に埋葬された墓石の明かして、病死した人間の菌やウィルスがどこかに潜んでいるのではないかと疑われたが、施設内は清潔な状態であり、病原菌となるようなものなど発見されることはなかった。
活発な男児が擦過傷などによる遅延性のある病気に罹ってしまったのではないかと推測されたが、この孤児院から出た男性の皆が狂乱しているわけではなく、一般的な家庭を持ち、孫子に看取られた者もいるので一括性がないのであった。
寧ろ黒い噂があるなど勘違いから生じた流言飛語ではないかと考えたくもなるが、この孤児院が設立してから約一五〇年間、発狂した男性の総数は、二百名以上にも昇る。
孤児院開業当初から施設を出た男性の人生の行く末を全部が全部精査しているわけではないので、もしかすると隠された死者数が大勢いることが疑われ、町の警察は遂に公的にして正式な公僕による取り調べと調査ではなく、裏方の力を利用することになったのであった。
町の守護者たる保安部隊が孤児院とは無関係なところで働き、そうして謎の衰弱死者発生の原因を解明しようと躍起になり調査される中、悪魔・アスタロトは『旧い』知り合いに忠告を為すべく、孤児院に個人的に訪れていた。
アスタロトは、血腥ささえ感じさせる鮮血を浴びた状態をそのまま放置し赤黒くなった髪の毛を肩甲骨付近まで伸ばし、頭部には悪魔の冠であるヒツジのような丸みを帯びた角を側頭部にひとつずつ生やしている。瞳の方は睫毛のないアーモンド型の見目をし、白目が黒く、黒目が赤い、一目見だけで人外の存在だと分かる存在だ。
現在は現世で少年の使い魔として現実世界に顕現しているのだが、一応擬態として、成る可く人間形態の外見にその姿を変えていた。
本来の姿である、先端がスペード型のしなやかで細い尻尾と蝙蝠のような両翼は勿論、赤黒い頭髪は薄い紅色に変色させるのには成功したが、瞳の方はどうしても肉体変化をすることが出来なかった。吸血鬼というわけではないのだが、僅かでも日光が視野と視界に入ると瞳の黒い部分に太陽光が集まり、直射日光を直視した状態だと変わらないのか、激痛が生じる。
異形な見た目の瞳を隠す目的もあるのだが、アスタロトは黒いサングラスを着用して、普通の人間の姿と変わらない衣装で、孤児院の奥深くに案内されていた。
その室内の内装は天井に届くほど大きな本棚があり、本の貯蓄量はかなりのものだ。子供たちに食って生きるため、専門書などの書籍があるのだが、最新の情報が記載された本以外に、より大量にあるのは、孤児院の先生が常日頃から携帯し所持して止まない、『日記帳』の存在である。膨大な量の万年筆で先生が直々に書いた紙面の内容は、最新の所持品である彼が手放さない日記同様、白紙が続いている。
先生は日記帳が大事なのか、防腐剤などの適切な処理を行っているが、日光で紙が薄茶色に焼けたり、ペンで何事かを記載している以上、型らしきものが付き、一部が弛んだりヨレヨレの状態の物もある。表紙を見ただけで、古い見た目をした日記帳もあるが百年以上、保存されているわりには状態の方は良好なのだろう。
「まさか、貴方様がお越し下さるだなんて……連絡のひとつでも報せてくれれば、ちゃんとしてきちんとした準備が出来たのですが……」
アスタロトが室内の本棚や装飾、そうして彼の寝室へと繋がっている扉らしきものを無表情で眺めていると、僅かながらに困ったような……しかし、若干再会に対して嬉しそうな声と共にそう云われる。
「毎年、年に一度行われる定例の十二会議にこちらは参加できませんからね。十二番目の椅子から欠くことはなくても、あくまで非常事態用の欠番であることには変わりなく、こうして直々に会えることを嬉しく思います」
十二会議とは、ソロモン七十二柱のうち、上位十二名の悪魔が業務報告や、敵対している天使の動向の相談、そうして人間界の大きな変化に対して定期的に話し合いが為されるものである。
上位十二位に選ばれる悪魔は、人間たちに対して大きな影響力と、そうして強さを有した存在が選ばれる。円卓のテーブルで、時計の時刻表のようにゼロ時にはルシファー、二時にはベルゼブブといったように座るべき箇所が定められているのであるが、アスタロトに関して述べるなら、人の話をあまり聞かない悪癖の所為で、三番目の実力であるのにも関わらず四番目の椅子に席移動された過去を持っていた。現在では、要点を掻い摘まんだ必用最低限の話だけは聞くようにしているが、そもそも他者の言葉は根本的に興味を持てないので、あまり改善されていないというのが現場である。
「十二会議……私が今、一人の魔術師の少年に使役されているので出席の方は免除されているのだが、部下が大まかに定例会議の内容を纏めて報告してくれているから聞きたいことが有れば聞けば良い」
「それは嬉しいですね」
アスタロトは、この孤児院では質素や清廉であることが必要条件というわけではないが、あまり過剰な高級品……特に嗜好品の所持や購入は敬遠されがちなのか、少し安っぽい香りを出す紅茶の入ったティーカップの水面を眺める。安っぽいといっても、それは来賓用の飲用物なのか、決して安価な品物ではないのだが、上位かつ大公爵である身分のアスタロトからすれば、どうにも粗は拭えないでいた。
「ところでお前、そろそろ……この孤児院の経営から離れた方が良いように思う」
アスタロトが日光を苦手としている現在、かつてはステントグラスが用いられていたのであろう窓辺のカーテンが閉められ、部屋が薄暗くなる中、訥々とした口調でそう述べる。淡々とした物云いは見ようによっては冷徹なものだと思われがちであるが、彼が魔術師である主人の傍を独断で離れて、直々に忠告されている以上、決して情や情けのない無情なものではなかった。
「はぁ……でもこちらは、子供たちと戯れることを楽しみにしておりますので。しかも悪魔である以上、人に物事を教えるのは愉しいものです。好きものですよ……ええ、本当に……」
部屋が適度な薄暗さになったことで、アスタロトはサングラスを不要なものだと判断したのか取り外し、折りたたんで胸ポケット部分に引っかけた。
そうして紅茶やティーカップではなく、真っ正面の椅子に腰掛ける音を耳にしたのと同時に前方を見据えれば、百年以上前から孤児院を経営して来た、アスタロト同様人外の存在が目に映る。
そこにいたのは……硝子玉のような……ではなく、実際複雑な色合いを有した硝子玉を埋めこんだ青年ほどの年齢の男性の姿が、そこにあった。その造形物の瞳は非常に不思議なことに瞬きをしたり、視線を動かせば万華鏡のように色合いが変化する点である。恐らく見る角度や、光源の度合いによって色彩が絶えず常に変化するのだろう。
服装は少々複雑な刺繍が控え目に施された華美な上着に、その下に女性物のコルセットを装着しており、どこか外套と合わせてドレス姿のようにも見えた。
脚部に不自由があるというわけではないのだが、普通の人間どころか、余程看破能力や注意深い洞察感がなければ分からないであろう杖が椅子の近くに独立して置かれている。杖が独自に直立している理由は彼の影から蜘蛛の手足らしきものが杖を下から支えるようにして固定している他ならない。
「お前は、十二会議に参列できるほど影響力を持った悪魔だ。その『隠された』能力は非常に希有なものであり、こちら側としても是非切り札のように残しておきしたいんだ」
「確かに希少にして貴重な能力だとは思っていますよ。この能力のお陰で、かの有名なトリックスターほどではありませんが、裏から活躍し、表で暗躍する。実際、この力による悪事について、天使たちは一切関知できていないのですからね」
自信満々な態度であった。
彼は影から出てきた人間の赤子ほどの大きさを持つ蜘蛛……『黒の未亡人』を椅子の背もたれの背後にしがみつかせ、愛撫するように撫でるのであった。
ちなみに杖の方は黒の未亡人以外の蜘蛛が支えているので、倒れることはない。
「……知っての通り、私はソロモン七十二柱の中で第一のパワーとスピードを持つだけではなくて、知名度もそれなりである。しかもそれだけではなく、悪魔となる以前から人類に対して、知恵を貸し与えていたほどだ」
悪魔の知名度による影響。
それはどれだけ人類に対して、時には破滅的な結果になったとしても新しい叡智を授けるのかが、重要視されている。
悪魔の中で実力共に知名度と人類への影響力がトップクラスなルシファーは、人に知恵の実を食べるように唆した話ゆえに文化英雄と時折評価されるほどまでに、根源的な逸話があった。
また、イヴの前妻であるリリスは単純な強さならば、一般的な夢魔と変わりないのだが十二会議に出席できるほどの影響力を、男女間の争いが途絶えない限り、今もなお及ぼし続けている。
その他に人類に対して離れ難い……手放すことの出来なくなった叡智として火の使い方や化粧などが挙げられるだろう。
「お前は、み――「ちょっとお待ち下さい。話を遮って申し訳ないのですが、『悪魔としての名前』を言葉に出されるのは、如何な貴方とて抵抗感を覚えますよ、大公爵殿」
「……そうだったな。これは失言だった。では仮名か綽名か偽名か何かを名付けなくては不便だな」
「ああ、そちらの方は態々お考え下さらなくとも結構ですよ。孤児院を設立する上において、その辺の配慮はありますので」
「では何と呼べば良い?」
「ウェル・テルと、人間界では名乗っております」
「ウェル・テル……」
アスタロトはこの孤児院で大量の衰弱死者が出ている以上、何とも皮肉過ぎる偽名を名乗ったものだなと、大人しい犬のようにテルの背後に控えた黒い婦人を一瞥するのであった。
「……して、テルよ。お前は隠された影響度があるにしても、リリス同様、普通の悪魔程度の実力しかない。強さの評価をするならば、中の下といったところか? 隠遁による能力を使い、巧く立ち回れば上位悪魔とて立ち並ぶことが出来よう。殊に……特に私の強さはパワーとスピードだけ。搦め手には翻弄されるので、お前のようなタイプを最も苦手としている」
「でもアスタロト様、あなたはその対策としてルシファー様でも知り得ない様々な道具をお持ちじゃないですか」
「あの御方の前では単なる玩具だよ。本気で通じるほど過信も信用も出来たものではない」
テルはルシファーの実力は根源的な人類への叡智者である以上、知恵という概念を付与した存在である。人間が無数大量の発明品や知識の研鑽が常に行われている以上、どれだけ有益なアイテムを所持したとしてもすぐに対策されてしまうのだろうなと、思うのであった。
それ以上にアスタロトは翻弄を苦手としている以上に問題視されるのが、力と素早さはルシファーと並ぶが僅かながらに上であると推測されているのだが、その代わり……代償というべきか、防御面に関して述べるなら、紙の一声に尽きる。
弱くはないが、非常に脆い。回復能力も並み程度で欠損した肉体を戻すのに、未知のアイテムを使ったとしても、焼け石に水ですぐさま敗北してしまうことだろう。
「テル……そこの黒の未亡人は、中堅程度の実力を持つエクソシストが出た場合に備えて準備している戦力なのだろうが、それでもなお勝てるかどうか本当に分からないぞ?」
エクソシスト。
この世界では悪魔使いがいるように、必然的に悪魔払いなる存在が実在していた。
一口にエクソシストといっても、穏健派・中立派・過激派の三種類に分かれ、下位の実力の悪魔払いとはいっても、過去に悪魔に対して何かあったのか、必要以上に殺意を募らせているケースがあった。
最早、復讐を超えて妄執といっても差し支えないドス黒い感情を抱いた過激派は一般人が関係のない抗争に巻き込まれようが、一切手段を選ばない傾向にある。
ある意味では手段を選んでいるとも云えなくはないかもしれないが、如何に虚弱なエクソシストと云えども確実に対処しなければ、上位悪魔であったとしても思わぬ反撃に遭う。確実かつ迅速に息の根を仕留めなくてはいけないのだが、確実に殺した後に、過激派が多くカウンター技として内包している呪いが降りかかる。
……果たして何を代償に支払って、一矢報おうとしているのか分からないが、過激派のエクソシストの存在は確かな実力を持つ悪魔払いよりも、要注意な存在なのであった。
「エクソシスト……ですか。確かにそういった輩は未だここに訪れたことはありませんが、アスタロト様は『ああいった連中』の忠告をなさっているのですよね?」
「ああ、そうだ。奴らは県警と険悪な間柄ではあるが、だからといって、しかしそれが全てではない」
第一、百年以上も孤児院を維持しているお前のことだ。人外の存在であることは、とっくに見破られているだろうよ――と呟きながら、アスタロトは湯気が減り、少し温度の下がった紅茶にようやく口を付けた。
「後学として教えておいてやるが、エクソシストにも様々な交友関係を持つ者がいる。悪魔と共存している奴……悪魔が悪意のある行動を行えば調教のみを実践する者……公的機関や悪魔使いと交友関係を持っている奴だっているんだ」
「最後のは……随分とオープンな輩ですね。もしかして、魔術師経由でその情報を入手して、孤児院経営はほとぼりが冷めるまで止めろと仰りたいんですか?」
「……。お前はエクソシストがこれまでこの施設に来たことがないと述べていたが、それは一見慈善活動にも取れる子供への対処と、ある種の共通点はあるものの、無関係なところで発狂した人間が最後に残した感謝の言葉に、公的機関たる第三者が医学的にも問題ないと保証したそれらの要素が合わさることによって、これまで運良く現れなかったに過ぎない」
そもそもエクソシストは民間人等の依頼を受けることによって動き出す受動的な連中だからな。
アスタロトはティーカップを置きサングラスを掛けて、チェアから立ち上がる。話はもうこれで終わったと云わんばかりの態度で歩き出しドアノブを握るのだが、扉を半分ほど開いたところで、テルの方を振り返り「忠告はしたからな」と最後に言葉を残すのであった。
彼……先生とも呼ばれ子供たちに慕われているテルはカーテンの窓を開きながら、上位悪魔の中でも第三位に入るアスタロトの言葉は確かに素直に聞き入れるべきなのだろうが、それでもどうしても中々難しいところがあった。
窓から見える『可愛い』子供たちの笑い声を柔らかい日差しを受けながら眺め、テルが見守っていることに十二歳程度の孤児院の一人が気付いたのか、照れたようにはにかみ笑うのである。
テルは手を振りながら笑い返し、カーテンを全て開き、テーブルに置いた二人分のカップを片付けるべくキッチンに向かう道中、廊下の壁側――壁の向こうは彼の寝室だ――に、約五センチ程度のひび割れが生じていることに気が付いた。
「この建物、作り直す勢いで改装したとは云えども、教会らしいさを残した所為で、一部分が古いままだからなぁ……」
そのうち業者に連絡して修復して貰おうと、預金の目途にテルは思考するのであった。
1-3
「公僕が俺に何の用だ?」
場所は夜の浜辺。
エクソシストの一人に話し掛ける一人の男性は煙草を握り潰しながら、「だから悪質な悪魔の退治の件だ」と述べ、未だ握り拳から出てくる臭いのある白い煙を夜空に昇らせながら、苛立った感情を口調にそのまま出して云うのである。
「悪質ではなく悪疾の方が正しいのかもしれねえが、ヒトに対して悪影響を及ぼさない悪魔だなんていませんよ」
結局――こころの底から善意を以って接してるとはいっても、所詮は『そのような存在』だと、実感ありげに述べるのであった。
「有害ねえ」
男は月光に照らされたエクソシストの外見を見る。暗い海から打ち寄せ聞こえてくる漣の中にいる退治屋の恰好は、あまり人間らしくないものであった。
まず特徴的なのは――エクソシストは普段から頭部にある耳を隠す目的でフードを被っているので直接見ることは出来ないが――『獣人』の絶対的な優良種の証といっても過言ではない、オオカミの耳が生えている。身体には動物らしい体毛のようなものは確認されないが、僅かに露出した顔面や腕だけではなく、背中や下腹部なども同じように人間と同じ素肌が地続きになっているのであろう。
そうして獣人の特徴としてあまり目立たないが、彼が喋る度にチラチラと確認できる鋭い犬歯だった。それは吸血鬼のように血を啜るためではなく、獲物の肉を食い破る……或いは彼自身が番の能力を持っているかどうか不明だが、実に野生動物らしい特徴を兼ね備えているのである。
「エクソシストの中でも特に過激派のきみの意見だから、素直に額縁通りに受け取ることはできはしないが、確かに今回依頼しようとしている悪魔関連と思わしき案件は、悪質ではなく悪質といって良いかもしれない」
男――依頼人は依頼書の入った茶封筒を手渡すと、過激派のエクソシストは半ば奪い取るような形で受け取った。いや……差し出されたものを奪取したといった方が正しい。
雲が半ば月を覆い隠し、そうして心細い星明かりでも夜目が効くのか、エクソシストは問題なく、中身を閲覧しているようであった。
『1989ーレオン、行方不明』
『1811ービル、行方不明』
『1830-ボブ、行方不明』
『1861ーケイシー、行方不明』
『1887ージョナソン、行方不明』
『1902-エリック、生死不明』
『1950ークレイグ、行方不明』
『1971-ブライアン、行方不明』
『2008ーハロルド、行方不明』
『2009ージャック、行方不明』
『2011-フレベンデル、行方不明』
『2015-モリアス、生死不明』
しかし……過激派の退治屋は悪魔に対して何らかの恨みを持ち紙面を見る前は不機嫌そうな表情、そうして次は顰め面になっていたのだが、あとで詳しく内容を確認するのか流し読みであったのにも関わらず、悪魔と関連――もしくは悪魔そのものだと思わしき、孤児院の男性の写真を見た途端、動きが止まったのであった。
「これは……?」
「とある田舎町にある孤児院の院長ってところかな。どこに金を貯蓄しているのか、もしくはパトロンや寄付金で賄っているのか分からないが、長年……そう、本当に長年、百年以上もの間、孤児の子供を引き取っている」
依頼人の話を聞く途中、エクソシストの紙束を持つ両手がワナワナと震え出した。依頼人は悪魔に対して、特別強い感情を持つ彼が謎の衰弱死者を定期的に出している存在と疑われている以上――そうして、どうしてエクソシストである彼が普通の人間でないのか、二つの点と点を結べば斯様な反応になるのは当然のことだと思うのであった。
「武者震いをしているようだね。もしソイツが、悪辣な悲劇を子供たちにもたらしているようならば、俄然やる気にもなっただろう」
「そりゃなる。この一種特別な感情は、粘ついて、こびり付いて、焼き付いて、とてもではないが離れそうにない」
「それは獣人になったことが関係しているのかな?」
依頼人は靜かな口調でそう云うと、逆鱗か虎の尾を踏んだと思わしき、人の内情に容易く触れる発言だというのにエクソシストは激昂した感情どころか、紙を持つ手の『動揺』した震えさえ止まらせ、静寂な……いや、物悲しそうな寂寞とした表情をするのであった。まるで親に捨てられた迷子みたいであった。
親に捨てられた。
過激派の少年であるエクソシストにとって、これ以上的確な表現はないであろう。
何せ彼は人間同士の両親であったのにも関わらず、愛情なき育児放棄どころか生まれて早々捨てられてしまったのだから。
彼が嬰児のうちに捨てられてしまった理由は、獣人としての特徴を持つ人間だからではなく、何故人の男女の間で獣の要素を持つ子供が生まれたのか……要は不義不倫の可能性によるトラブルが原因である。
その後、彼がどういう経緯で成人までの年齢になるまで育ったのか依頼人は探ることが出来なかったが、肉体は普通の成人男性よりも溌剌とし活発なことから、心優しい人物に保護されたことが予想される。悪魔を退治する以上、いつ死んでも良いように最初から戸籍登録が行われていないが、たとえ裕福でなくとも、満ち足りた環境であることは想定できる。
その証拠に、彼は本当の両親を恨んでいるのか不明だが、育て親と出会ったことが人生における喜びなのか、親愛――いや、崇拝のソレとも違う何らかの強い感情を抱いている。自分は捨て子の身の上だが、あの人に出会って良かったと確固たる口調で断言してしまうほどに。
「……俺は、確かに獣人だ。親に捨てられ、奇跡的に優しいあの人のところで育って、そうして、何時死んでもおかしくない職業に就いている。親不孝者だと思われるかもしれないが、昂ぶりもするだろう。何せ、悪魔という存在は……」
エクソシストはそこで言葉を切った。
興奮するあまり言葉を失ったのではなく、どういう意図なのか不明だが、自分自身の鋭い犬歯で唇の端を強く噛んだぐらいだ。血は流れていないが、傷みが生じることで先の言葉を封じたのであろう。
「……ともかくも」依頼人は既に消火して火種のないグシャグシャになった煙草を空の巻き煙草の容器に入れながら云う。「その仕事を引き受けてくれるのだな、フ――いや、ジョン・ドゥという偽名を使っているのであったな、お前は」
名無しの権兵衛 。
親不孝者を自認したエクソシストにとって、身分や柵み、そうして身投げするように自分の存在を消すことで、危険な仕事に我が身を投じるという強い覚悟。
それはどれほどの決意があるのだろうかと依頼人は思いながら、突風のような強い波風が一陣吹いて、エクソシスト――ジョン・ドゥの覆い隠されていた布が捲れて中身が明かになる。
依頼人が目撃したのは、人間の耳がない代わりにヒトよりも発達した聴覚を有する耳であるオオカミの耳と、発育が悪かったわけではないが獣人は成長速度が緩やかなのか、二十歳前後であるにも関わらず幼い顔立ちであった。
ジョンがすぐさまフードを被ったので頭部の耳が見えたのは一瞬のことであるが、見た目の幼さに引っ張られたわけではないが、依頼人は一種の不安を抱く。この青年が過激派のエクソシストである以上、本当にいらぬ世話であることに間違いないのだが、それでも云わずにはいられなかった。
「ジョン。きみの強さは警察を通して、このような野良探偵のところへ秘密裏に時折仕事が来るのだが、増援を呼んだ方が良くないか?」
何せ相手は百年にも渡って、衰弱死者を出しているだけではなく、どの視点・どこの観点から精密かつ徹底的な調査と精査をしたとしても、痕跡を見つけることが出来なかった。影さえも踏むことが出来ないのである。
「きみの仲間の中に、エクスカリバール……じゃなかったただのバールらしきものを主武装とした実力ナンバーワンがいただろう? ジョンとそいつの中は良好だと聞いている。応援を要請してはどうだ?」
「云っておくが、悪魔の力というのは睡眠・性欲・食欲の三つのそれぞれに司る……持つ能力が大きいものほど抗い難い支配能力を有している。三つの欲求は人間が生きていく以上、必要不可欠なものだからな。たとえ望まぬ被害にあって、木乃伊のように乾涸らびるか、ゾンビのように腐敗する末路を理性と本能で察知しても、一度目で拒絶抵抗できなかったら、エクソシストに被害報告を出すことなく、狂乱する」
三大欲求に対して、その悪魔の能力が大きく依存しているほど、人間を傀儡化出来る。
誤解してほしくないのは、その事象は低級のサキュバスやインキュバスでも十二分に可能で、そうして何により――、
「ただのバールらしきもの……あのミョルニルは、身体能力が人外と云えるほど人の領域を逸脱している。俺は例外はあるだろうが、普通の人間と比べて、三大欲求が低い方なんだ」
獣である要素が混じっている以上、人間のように三度食事にありつけるわけでもないので、四日ほどなら食料ならいざ知らず水なしでも十二分に動くことが可能だという、見事なコストパフォーマンス。
そうしてオオカミという野生動物がゆえの本能的な危機感の高さから、三十分程度の睡眠時間で充分だというショートスリーパー。狩猟本能も手伝ってか、危機感の他に長時間に渡って敵をジワジワと追い詰めることが可能である。
そして……最後は……。
「典型的なアルファ型か。獣人の中で、偕老同穴の番の相手となるべき人物と遭遇しなければ、性的なものなど意味がない。いや……色仕掛けなんざ無意味といっても過言ではないということか」
依頼人は納得したように頷いた。
「運命の相手なんざ、俺は信じちゃあいないがな。普通の人間同士でも一目惚れって言葉があるように、過剰な性的興奮を本能が強い野生が強く作用しているだけだろう」
「リアリストだねえ。ジョン、きみが支配系のアルファ型の獣人である以上、運命の相手ぐらい信じても良いんじゃないのか?」
「俺は別に無味乾燥な科学主義者の心棒者ではない。サンタクロースだって実在して欲しいし、死後幽霊になったら無料で映画館を観て回りたい。好きな人の一生を密かに見守りたいなんて思っている。案外ロマンチックなんだ」
――それに運命よりも、好きな人は自分で選びたい。
過激派のエクソシストから大凡出るとは思えない言葉に、依頼人は多少の驚きを覚えた。これが与太話なら酒の入ったグラスを持つか、もしくはテーブルに両足を投げ出してニヤニヤとした表情で、その夢見がちな部分を刺激していたことだろう。
「へえ……好きな人の一生ね……だとするとヒートなる発情期は発生しなかったわけかい」
「余計なお世話だ。いや、下世話だ」
「ハハハ、この歳になると若人の色恋沙汰にちょっかいという名の弄くりをしたくもなるのさ。ところで好きな人の一生といっていたが、それは初恋の相手だったりするんだろう?」
「…………」
「図星か。沈黙は肯定と受け取るが、初恋の相手がどこにいるのか分かるのかい?」
会いに行けば良いのに。
好奇心を隠すことなくそう述べる依頼人にジョンは「忘れた」と短く答え、乱暴な形で受け取った茶封筒の中身を意識する。
その内容は記載内容がほとんど白紙になった孤児院の院長の情報であった。記載内容が退治屋に伝わり易いように並々ならぬ工夫と努力が施されてた事実から、文字抜け、手抜きや印刷ミスなどではないだろう。犯人と疑わしき存在に対しても成る可く『先生』と表記したかったのだろうが、呼ぶことは出来ても、書くことは不可能であったらしい。
情報として入手出来たのは、前提としての衰弱死者と孤児院の住所。そうして院長の顔写真と、『裕福層の間でしかその名を口にすることが出来ない』という実に奇っ怪な事実であった。
1-4
ジョンは翌日、件の悪魔と繋がりか、もしくは悪魔そのものと嫌疑が向けられている先生のいる孤児院に向かうために、交通機関を乗り継いで、放牧とした田舎町に辿り着いた。
その移動時間は十日ほどにも及ぶ長いもので、ジョンはじっとしていることに耐えきれない性分なのか、普通に強敵の悪魔と闘うよりも疲労感を覚えていた。
一応、肉体が鈍らないように個人室で自首鍛錬であるトレーニングを行っていたのだが、筋トレなどで隣室にまで個室が軋む音が迷惑にならないように気を使ってはいた。ある程度、走行音で腕立て伏せや柔軟の運動など誤魔化すことは出来ただろうが、本当に迷惑にならなかったかどうかは判断が出来ない。
「旅疲れというものは、こういうことを差すのか……」
最長三日の移動日数の経験があるのだが、その倍以上の数になると、どうも疲労感が隠せない。最早、疲弊感といった方がマシなソレは恐らく顔にも出ていたことだろうが、『童顔な彼』が『孤児院の中に侵入』するためには、かえって好都合と云えるものかもしれない。
身に纏っている服装だって、意図的に古ぼけたものを選んだし、その上ジョンは武闘派の中でも徒手空拳――素手で闘う格闘技のプロフェッショナルだ。エクソシストの中で師事と仰ぐ人物から徹底的に叩き込まれた技術や技巧は運動神経が人間を卓越している獣人にとって、有害な悪魔に対し、魔術師によるブーストや補助効果がなくとも、一人で闘えるほどである。
『相手を組み敷いてトドメを刺す以上、問題はないな』とジョンは思いながら、どこまでも長閑で、時間さえ緩やかになり時計の針がこの町では独自の遅延さえ生じさせていそうな街並みの風景と、呑気そうな人々の表情がそこにはあった。
まさか孤児院で定期的な衰弱死者が出ているとは知らないような……呑気ではなく間抜けなそれは見ようによっては不気味に思える。
しかし、擬態を装うには下準備が要るというわけではないが、ジョンは漂流者、居場所のなくなった流れ者として孤児院に在籍しなくてはならない。聞き込み調査というわけではないが、町でも有名な孤児院の先生ならば誰も知らない人はいないだろうと考え、すれ違い様の路傍の町民の幾数名に訊ねて回るのであった。
ジョンが「ここに孤児院があると聞いたのですが」と、控え目な態度を装って訊ねていく中で、大抵はその場所を教えてくれるのだが、ひとつだけ他とは違った奇妙な情報を入手することが出来た。
「あの小高い丘にある孤児院の先生ねえ。この間、子供たちと食べ物の買い出しと、建物が随分古いので工事屋に修理の依頼を出していたわ」
そう述べるのは果物店を切り盛りしている中年の女性である。非常に人の好さそうな、ふくよかな人であった。その上、裕福そうだ。
「工事、ですか」
「あぁ、でも心配しないで。先生が孤児院の修理の依頼はちょくちょくしているみたいだからねえ。工事屋と長い付き合いの顔見知りよ。今回の修理の小さいところで、先生の寝室近くの外側の廊下の壁がとか何とか云っていたぐらいだから、施設全体からみても安心性は問題はないと思うわよ」
女性はジョンに孤児院で世話になる少年と判断してか、安心安堵させるようなことを云う。
「……でも、建物は大丈夫なんだけど……数十年ぐらい前だったかしらねえ。あの孤児院で世話になった一人の子供がここに出戻りしに来てね。先生の世話になったぐらいだから手伝いに来たのかと思ったのだけど、どうも話が違くて……」
「違うとは、何が?」
「……あまり大きな声で云えないけど、その出戻り、人攫いだったのよ」
野外に住まい、未だ保護されていない子供よりも、生活水準レベルが多少約束された健康的な子供の方が、確かに人攫いの商売の狙い目としては、恰好の標的と餌食であろう。
孤児院にいる子供たちは全員拐かれることはなかったものの十名余りが失踪したのだと、ジョンは事の顛末を耳にした。
青果店の女性から話を聞いたジョンは茶封筒の報告書にもなかった情報にどうも奇妙さを感じずにはいられなかった。
身寄りのない、そうして身元さえ不明な子供たちであるが、一応は孤児院という施設で暮らしている人間だ。
それだのに依頼人である探偵が調べた情報にも、誘拐事件について警察沙汰になっていない。
これは、孤児院の先生に関する情報が口頭にしろ文字にしろうまく伝達できない件が関与しているのではないかと考えながら、ジョンは町内を歩く。
その道中「男は頻繁に万年筆を紙面に動かしているが 町ではどのページも白紙であると 孤児院から育った爺様が云っていた」などと煉瓦壁に蔓が伸び、どこか趣のあるアパートから子守歌が聞こえてきた。
ジョンはその歌声を聞き流すだけで特別気にもかけていなかったが、その歌そのものが孤児院の先生のことを指しているとは夢にも思っていなかった。
1-5
「うっ……もう朝か……」
テルは早朝五時頃、呻き声を出しながら寝室でモゾリモゾリと動いていた。彼は大欠伸を出し、姿見の前に出ながら眠っているうちに人間形態の姿が解けてしまったのだろう……角と尻尾と翅を隠すのだが、万華鏡のように光の度合いや見る角度によって、色が固定化しない硝子玉の瞳はそのままであった。
皆には……特にここに来たばかりの子供たちや、経済事情などの問題で泣く泣く我が子を手放す事態に陥った親御などには洒落た義眼を両目に宛がっていると説明している。実際、特別製の義眼であり、見ることが出来る。
使い魔である黒の未亡人にコルセットなどの手伝いをして貰った彼は、盲目であることを強調するかのように杖を所持しながら、寝室と、子供たちの個人的な勉強部屋としての役割を持つ書斎を出ると、数歩もしないうちに二ヶ月前、施設に入ることになった女児と遭遇した。
「せんせい……」
大粒の涙を流して、震えた声でそう呼ばれる。
テルは子供の視線に合わせるために片膝立ちになりながら、どうしたのかと訊ねながら小柄な身を抱き締めた。子供側からでは見ることは出来ないが、その表情は無表情でなくとも特に感情の色は見られない。
グズグズと泣き出す女児を落ち着かせるように背中を撫で、どうにか事情を聞き出すと、どうやら布団に地図を書いてしまったらしい。愛らしい惨事に苦笑を覚えるが、事情を聞き出す中で臭いで既に事情を察していたことと、そうしてこのようなことは何度もあったので特別怒るべきものではない。
取り敢えずテルは早急に当たるべき処置として、女児を横抱きにして風呂場に向かわせその身を清め、清潔な服を着るように云う。尿で汚れた下着類と、そうして抱き抱える内に軽く汚れた上着を洗濯籠の中に入れて、女児の部屋に跫音もなく室内に入る。
室内は孤児院の施設として広々とした方なのだが、親が玄関元に子供を放置したり、買い出しの時に偶然遭遇した孤児を預かっているためか、一部屋につき六名ほどの子供たちの共同部屋として宛がっていた。
テルは問題の地図のある布団のシーツを取り替え、部屋の外に置いてあった洗濯籠の中に全てを仕舞い込み、洗い出しに出るのであった。
シーツが一枚だけを洗うだけでは、察しの良い子が女児をからかう可能性があるため、対策が必要だ。洗濯量を増やすことにして、とりあえず臭いが取れる程度の洗い流しと、そうしてシミが出来ないように下処理を済ませる。テルにとって、粗相をした寝具の処理など頻繁に行っているため、その手際は充分過ぎるものであった。
やがて子供たちが起きる前に大食堂で人数分用意した朝食を一緒に食べ終える頃には、仄暗かった空の模様はスッカリ青い色合いにへと変化していた。
テルは鼻歌を唄いながら一緒になって手伝ってくれる子供たちと一緒に洗濯物を干していく。風でたなびく白いシーツは午後になる頃には乾き、汚れひとつない状態になっていることであろう。
「もうこんな時間か。昼食の準備をしないと。忙しい忙しい」
テルは懐中時計で今の時間帯を確認しながら、そう云う。
ちなみに洗濯物の手伝いを終えた子供たちは、今日は勉強のない休日ということもあって、早々に遊びに出ている。追いかけっこをしたり、飯事をしたり、花を摘んだり、思い思いの行動をしているのであった。
テルは子供たちの歓声を耳にしながら食堂に向かう途中、一人の少年が彼の傍に近付いた。その少年は十三から十五程度といった年齢で、この院の決まりで定齢になったら卒業しなくてはいけないのだが、幼さの残るその顔はテルにとって非常に微笑ましいものであった。
早朝の女児に向ける完爾とは全く異なる表情で青年に近い少年の方に向かうと、彼はそれだけで緊張したのか逃げるように建物の裏に隠れてしまう。鬼ごっこがしたいわけではないのだろうが、テルは早足になることもなく逃げ場のない角裏に追い詰めると少年は赤面した顔で突っ立っているのであった。
「先生……」
「なあに? どうかしたの?」
テルは少年が何を云いたいのか心底から分かっているのに、意地悪な風でそう云う。少年は気恥ずかしいというよりも余裕がないのか、いきなりテルの洋服を引っ張って転ばせる。
突然のことというよりも意表を突かれたテルは四つん這いになった姿勢で少年を見上げると、彼は顔を真っ赤にしてこう述べるのであった。
「せ、先生……また、この間みたいにここで勉強、教えて」
「ここで勉強?」
どうしよっかなと小首を傾げながらテルが少年に触れようとしたした瞬間、背後から数名の子供たちの声が掛かる。
自然とテルと少年は条件反射のように離れ何事もなかったかのように、複数の子供に向き合うことになるのだが、少年としては腹立たしく舌打ちをしたい気分だった。
「先生、お客さんが来ているよ」
まだ生まれたばかりの赤子をあやしながら年長の少女がそう云う。
テルは少年から転んだ際に落としたステッキを受け取りながら、「客? そういった予定はあったかな」と先程の小首を傾げる仕草とは事なり本気で首を傾げながら、取り敢えず人を待たせてはいけないだろうと思い玄関口に赴くのだが、その来訪客を見て、息を吞み、目を見開く失態を犯した。
それは……客人を見る視線として自然な反応のように捉えられるほど分かり難いものであったが、相手は執念を持つ退治屋である。確信を抱かせるのには充分過ぎた。
「こんにちは、私はこの孤児院で院長をやらせて貰っているウェル・テルというものだよ。何か……用かな?」
平静を取り戻したテルは胸元に手を当てて、警戒されないように挨拶と自己紹介をする。これはジョンがエクソシストだから、何もない人間であることを印象付けているのではなく、ここに来た人間誰しも区別判別差別なく為されている普通の対応である。
「……俺は、風の噂を耳にして此所に来たんだ」
風の噂。
それは云うまでもなく孤児院一択であろうと、テルは判断する。
衰弱死者を度々出しているこの施設を調査しに来る人間は清潔な身形と仰々しい厳つい恰好をした者が多かったからだ。
無論、この少年が諜報員としての役割を担っている可能性は無視できないが、それ以上にテルにとって、頭を占めているのは別のことである。
彼の意識を奪って止まない内容とは、その少年の顔立ちにあった。
かつて数年前、この孤児院に『いた』少年。
とある事情で姿を消してしまったが、それから数年ほど正常に発育していれば、このような顔立ちをしていたのではないかと思われるものである。
しかし、その少年が姿を消して十年近く以上の歳月が流れている。ありもしない妄想……だと分かりつつも、テルは身寄りが無く孤児院に訪れた者にはどこにも寄る辺がないのだから聞くことや詮索、そうして訊ねることは無難として、これまで声に出すことはなかったのだが、遂にとうとう好奇心の赴くまま訊ねてしまった。
好奇心。
それは悪魔にとって向上心の塊といって良い、切っても切り放すことのできない性分――否、悪癖。
文化英雄と云われる大悪魔のルシファーや、その後に続くように火や化粧や言葉を教えていった、堕落した天使たち。その性質は悪魔同士だと反逆心の一言に尽きるのだが、ルシファーの朋友であるアスタロトにしても、他の有象無象の無名の悪魔、そうして■■■■■■にしても、頭を強大な力で押さえつけられているからといって、平伏も服従さえもしていないのが現状であり、虎視眈々と上位の席を狙っている。
テルははじめて見せる行動に内心「まずいな」と思いつつも、フードを被り、低賃金の肉体労働者であったことが隠せない、襤褸の衣類を観察しながら、悪癖が口を滑る。
「きみ……お父さんやお母さんは、いるのかな。ここは一人で暮らしていけない子供たちが生活するところだとは云っても、素朴な環境だ。貧困に喘ぐことはなくとも、その生活ラインは実際ギリギリ。私はね、毎日お金のことについて頭を悩ませ、寄付金を集めるのに必死だったりする」
他に働く手筈や当てがあるならば、そこに行きなさい。
これまで孤児を……子供を追い返すことのなかったテルの初めての拒絶的な反応である。その中には回避である忌避さも混在している。
「俺は親方……炭鉱で働いていました……が倒産して、各地を点々として来た。非人道的な仕事なんかを……その……」
ジョンは無垢な子供たちがいる手前、言葉にできないところで働いていたなどという堂々とした宣言は、やはり人道的に憚れた。
かなり言葉を濁した内容であるが、これまで子捨て以外にも様々な子供を預かって、卒業させてきた施設である。テルはその言葉だけでも事情を十二分に察した。
因みに、獣人の外見的特徴を兼ね備えたジョンは実質、エクソシストになる以前、暗殺や掏摸など、様々な仕事をしていたのは事実である。
無論、一時期炭鉱で働いていたが、人によっては天才と呼ばれる非常に発達した知恵がある代わりに、通常の人間とは体力・運動神経共に獣人の中でオオカミ型の支配階級の特有の非常に発達した身体能力のお陰で、炭鉱の親方がカナリアを所持してもガスの吹き溜まりや落石、そうして粉塵爆発などであたら若い命が粗末になり石を発掘するよりも、化け物退治の方が適材適所と判断して、退治屋への入口を選ばせてくれたのが、ジョンの来歴であった。
その当時悪夢や、『今』でも懊悩を募らせて止まないジョンにとって、僥倖とさえ云えた。
「はじめてなんです、展示品以外にも俺を人間扱いしてくれた人は。でも炭鉱が倒産して、他に行く当てなんか……。また、ああ云った環境に戻るのは嫌だし、ここが最後なんです」
ジョンはそう云いながら、頭部を隠していたフードを脱ぐ。外気に露わになった特徴的な耳は、どういう存在なのかを強調しているかのようであった。
「ここだけではなく、様々な孤児院を点々としてきたわけだね」
「……孤児院の方でも、展示物として……」
「あぁ、もうこれ以上は何も云わなくても良いよ。辛い過去だったんだね。過去を根掘り葉掘り聞いて思い出させるような真似をして済まなかった」
テルは無礼であるが赤裸々に、そうして恥辱そのものである人生の、とてもではないが清いとは云えないことを自ら訊ねて云わせているのに関わらず、その勇気を途中で遮断するような……内容や内情を説明している人間にとって無礼以上な無体を行った。
言動を踏み躙る行為が少年にとって、どのような影響を及ぼしたのか、怒りか……それとも恥か、フードを先程よりも深く被り顔面の大半を隠してはいるが、赤面紅潮している姿に一種の感情を抱く。
テルはジョンの背中を押しながら、孤児院内へ案内するように誘導し、内部の詮索はこれまで誰にも行わなかったが、次の質問は誰に対しても向けている質問をするのだ。
「ところできみ、名前は何て云うのかな?」
「ジョン・ドゥ」
「そう、ジョンか」名無しの代名詞に良い名前だとは云わなかった。「私のことは、先生と呼んでくれたまえ」
名無しか……とテルが内心呟く中で、新品の衣服を彼の周りにいた子供の一人に取りに行かせるように云って、風呂場へと案内した。さすがに風呂の世話ぐらい一人で出来るだろうと判断し、脱衣所に服とタオルを置く。
「ゆっくり身体を洗いなさい。先生は書斎……玄関から真っ直ぐ直線するように伸びている廊下を進んだ先にある、分かり易いところにいるからね。何か困ったことや不便があれば、部屋に来なさい」
まあ……それよりも先に、これから先の生活で色々と問題のある子供たちに軋轢を生まないために、名前を教える程度の自己紹介を優先するべきだ。
そう述べて浴槽のドアを閉じ、水場から少し離れたところにジョンが孤児院を訊ねる前、テルを押し倒した少年がふて腐れたような……しかし見捨てられた子供のような表情で突っ立っていた。
テルは内心暗い悦びを感じながらも、少年の頭を撫で、彼にしか聞こえない声で「今夜先生の部屋でお勉強をしましょう」と、慰めるような口調で云うのである。
その時の期待に満ちた顔と云ったら……。
これだから人間の子供の世話役を止めることもとめることも出来ないんですよアスタロト様と内心呟き、日没になる時間帯まで先生と大勢の子供たちは過ごすのである。
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