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第1話 近くにいた
夕陽が落ちるまではここにいる、と最近思い始めた。
田川到流は、木製のフェンスに頬杖をつきながら海の向こうを見つめた。
後悔してるわけじゃない……。
夕方には無人駅になる駅のホームは誰にも邪魔されない。ホームの端からこの景色が一望できる。
陽が沈んで辺りが薄暗くなるとちょうどアルバイトの時間になる。
それを合図のようにして重たい足を進めていたのに、今日はその一歩がなかなか踏み出せないでいた。
到流はポケットからメモを取り出した。
服役中だった父が出所し暮らしている住所だ、と今朝祖母から渡された。
刑務所の中から一度だけ面会に来てくれないかという手紙を受け取ったが、祖母だけが面会に行き、到流は行かなかった。それから八年間、何の関わりも持っていなかったのだ。
父親の収監と同時に母親は実家に帰ってしまった。
家庭を壊した父親に会って欲しいと言われて会わなかったことを後悔しているわけじゃない、と自分ではずっと思っていた。
壁の向こうにいる人の姿なんて見たくない。そう思っていた。
でも、住所という現実的なものを見てしまうと何かがじわりと胸の中で動き始めていた。
到流のため息と同時に山の方から冷たい風が吹いた。
「あ……っ」
メモが到流の手を離れ道路側にひらひら舞い降りて行った。そこへやって来た車のフロントガラスに落ちてしまった。その車は急停止した。
「やっばい」
運転席から大柄な男が降りてきて、フロントガラスに貼り付いているメモを剥がした。
「すいません、僕です。今取りに行きます」
男は到流を見上げた。男の眉間にはしわが寄っていた。
怒られるかな、でもガラスに傷がつくようなものじゃないし、でも謝らなきゃ。
切符を木箱に入れて、石の階段を降りて車まで駆け寄った。
「すみません、僕のです。お車の方は大丈夫でしたか?」
よく見ると男は到流と同じくらいの年齢か少し年上くらいだった。男の方は少し驚いたような顔をしていた。到流がいたずらみたいなことをしたと思っているのだろうか。
「大丈夫だけど、紙でも危ないよ、車からしたら、急に」
「そうですよね。申し訳なかったです。手から落ちてしまって」
到流は頭を下げた。とりあえず争いを避けたかったのと怒鳴られるのが嫌で謝ろうと思った。目の前にメモが差し出された。到流はそれを受け取った。
男がなぜか動こうとしなかったのでそろっと顔を上げると、男の目線が泳いだ。
「ありがとうございます」
到流が遠慮がちにそう言うと、男は「おぅ」と小さい声で言って車に乗り込んだ。
車に乗り込むときの横顔が凛々しさをたたえていて到流の胸が少しだけ締め付けられた。
何考えてんの……こっちが迷惑かけたのに。
その気持ちを払うように走り去る車にもう一度頭を下げた。
バイト先である居酒屋に向かって歩き始めると、海からの風が吹いてきた。潮の匂いまで冷たかった。いつも乗っている自転車のライトが壊れて警官に注意されてからはバイト先に迷惑をかけちゃいけないと思い、一駅の電車と徒歩に切り替えた。居酒屋『たっちゃん』の大将である山上太一も交通費の支給を快諾してくれた。
ライトを買うお金ももったいないし自転車屋も近くになくなんだか面倒くさい。
バイトが終わる時間帯には電車もなくなるので、一駅分を歩くことになる。でも、いろいろ考える時間としては悪くなかった。誰にも邪魔されず干渉されない時間。聞かれたくないことも聞かれないし、話し辛いことを無理に話さなくてもいい時間。
こんな田舎でやっと見つけたバイトだから祖母のためにも頑張りたいと思っているが、本当はもっといい時給のバイト先がないか探している最中でもある。
居酒屋の大将も女将さんもよくしてくれるし、まかないも出るし、働く環境としては悪くないので続けているだけだ。
着く頃にはもうすっかり夜になっていた。併設している砂利の駐車場にはもうお客さんの車がずらりと並んでいた。
裏口から入りロッカーで着替えを済ませ手を洗っていると、やけに明るい笑い声が聞こえてきた。大将があんなに嬉しそうな声で笑うなんて珍しいな、きっと気の合う常連さんなんだろうなと思っていると、
「おい、到流、ちょちょ」
裏に顔を出した大将の山上太一が手招きをした。
暖簾を潜ってカウンター横から顔を出すと、大将の満面の笑顔が目に入った。どうやらお客さんに到流を紹介しようとしている雰囲気があった。まあよくあることだ。
「うちの新入り紹介するわ。おい、自己紹介して」
「田川と申します。よろしくお願いいたしま……」
目の前にいた男の顔を見て到流の口が止まった。その男も同じように口が半開きになった。
「あ……」
到流の言葉を聞いて大将の太一がきょとんとした。
「え? なに、知り合い?」
「いえ、あの、さっき、あの……」
到流がうろたえていると男が口を開いた。
「さっき駅のところで俺の車に紙きれが落ちてきて、停まって、その」
「はい、僕がぼうっとしてメモを駅のホームから落としてしまって」
「おう、そうなんだ、狭い町だなほんと」
「先ほどは、失礼しました」
到流がいたたまれずそう言うと、男は軽く微笑んだ。
「いいよ別にそこまで。俺は中瀬。よろしく」
「あ、はい」
でもなんでわざわざ紹介するんだろうと思っていると太一が笑った。
「実はさ、この中瀬は到流がここに入るちょっと前までここで働いてたんだよ。で今日は新作メニューが出来たから味を確認にしに来てもらったわけ」
「そ、そうなんですか」
「こいつさ、おやっさんの後を継がなきゃいけないから電機屋になっちまったんだけど、味覚だけは確かだからさ」
「大将、その話はもういいですって」
「はあ、もったいないな、お前の腕と舌ならいい線いくのに」
「ありがとうございます、でも、親父も歳だし仕方ないっす」
「顔だけじゃなくて中身も男前だな中瀬は」
「やめて下さい」
「もう三十なのに結婚してないってのが不思議だよほんと」
「ははは、ですかね」
到流はコップを洗いながらそっと視線を中瀬の方に走らせた。
結婚してない……でも彼女くらいは……。
「彼女の一人や二人はいるだろ?」
「それがいないんすよね」
「マジか、紹介しようか?」
「いいですって、ははは」
中瀬は笑いながらウーロン茶を飲んだ。
彼女もいないの……普通にモテそうなのに……。
その時、到流は中瀬と目が合った。すぐに視線を外したが気付かれてしまったか不安だった。
到流は、思春期から同性に惹かれる自分に気付いていた。特に文雄のような長身で精悍な顔立ちの男性に気を取られてしまうことも。
女性とはいつも友達で終わっていた。言い換えれば男性扱いされず、だいたいは相談相手になったり愚痴を聞く側になって仲良くなってしまう。
男性が恋愛対象だなんて誰にも相談できるわけでもなく、父親のこともあり、何もかもを心の奥に沈めることで誤魔化し続けていた。
「到流は彼女いたっけ?」
「えっ? 僕ですか?」
到流はコップを落としそうになった。
「い、いえ、いないです……」
「到流は到流で女の子から可愛いって言われそうなのに、最近の若い奴は恋愛しない、結婚しないってのが流行ってるのかって思っちまうね」
「あ、いえ……」
「大将、それ今セクハラっすよ」
「おっと、いけねえ、いけねえ」
「俺はいいっすけど、バイト君に聞くのは可哀想っすよ」
中瀬の助け舟で場が和み、太一と中瀬の笑い声がまた響いた。
到流もふっと一息つき、蛇口をひねった。
◇◇
カウンターを出たり入ったりしている到流に思わず視線を走らせてしまう自分がいた。
中瀬文雄の頭の中にさっきの情景が浮かんだ。
こんな田舎にこんな可愛い奴いたっけ、というのが第一印象だった。
運転しながら到流の姿を少し遠くから見ていた。
最初はホームの端の木のフェンスに頬杖をついて黄昏ている奴がいるなと思った。
近づくにつれ、哀しそうに海の方を見ている表情が何となく気になった。
顔、可愛いっぽいな、と思ってしまった。
よく見てやろうとスピードを緩めたときに紙が落ちてきた。
こんなことってあるんだと正直ビビっていた。
降りて近くで到流の顔をよく見ると自分が急に緊張していることが分かった。でも変な奴だと思われたくなくてすぐに車に乗ったが、本当はもう少し話したいと思っていた。
でも、自分の元バイト先に勤めていたなんて……。
十代の頃や二十代半ばまでは女と付き合ったこともあった。でもなんか違った。本当の居場所はここではないような居心地の悪さをずっと感じていた。
結婚したいと言われて自分の何となくの感覚が決定的なものになり、別れを選んだ。泣かれてなんでだとしつこく聞かれたが「自分に正直に生きたい」と言えるわけもなく、夢を追いかけるなんて適当に嘘をついた。
それでも夢なら一緒にいてもいいじゃないと詰め寄られたが、頭を下げ続けているとなんとか分かってもらえた。あれ以来、女と付き合うことはいろんな意味でやめた。申し訳なさで自分がおかしくなりそうだった。
それから、可愛い男につい目が走ってしまっている自分に気付くのに、時間はそんなにかからなかった。
「本当は飲んでもらいたかったけどごめんな、車だもんな」
「いいっすよ、新作めちゃめちゃ美味しかったっす。絶対いけますよ」
「ありがとう、中瀬に言ってもらえると自信出るわ」
その時、雨が降り始め、大将が慌てて到流を呼んだ。
「到流、暖簾だけ入れてくんない?」
到流がカウンターの奥から手を拭きながら返事をして入口に向かった。
「ちょっと早いけど常連さんもみんな帰ったからそろそろ店じまいするわ」
「じゃ、俺もそろそろ」
文雄が立ち上がろうとすると大将が舌打ちをして到流の方を見た。
「到流、傘まだ残ってたか? 常連さんに貸したからな」
「もうないですね」
「お前どうすんだよ? 最近歩きだろ?」
「僕は大丈夫です」
到流はそのまま奥に戻ろうとした。
「中瀬、本当すまん、こいつ乗せてやってくんない? なんかこいつのチャリの調子が今悪いみたいでさ」
「え……ああ、全然いいっすよ。配達用の軽バンすけど」
文雄の胸の中に何かが膨らむような感覚が走った。
「うちの車さ、幹子が子供の塾の迎えで使っててさ。車で行けばこいつの家すぐだから」
すると到流が慌てて大きな声を出した。
「あ、あの大将、そんな申し訳ないです。お客さんに……僕は大丈夫ですから」
「大丈夫ってことはないだろうよ。風邪ひかれるとこっちも困るんだよ」
「本当に。いいです。僕は一人で帰ります」
「中瀬は客っていうより、まあお前の先輩にあたる奴だし、縁があればまたここで働いてもらうかもしんないわけだし、なあ中瀬」
文雄は、大将である太一の言葉に含まれていたものを無視した格好で到流の方を向いた。
「乗ってけば。大将に心配かけたら、なんか悪いしさ」
到流は申し訳なさそうな顔でこちらを見て視線を落とした。
「俺のときもそうだったけど、ここバイトギリギリで回してるから、ね、大将」
「お前なあ、それを言うなよ」
文雄の笑い声には、今の冗談以外の嬉しさもこもっていた。
助手席の窓がノックされ、到流が乗ってきた。
「すみません……」
「そんなに恐縮しなくてもいいじゃん」
「はい……」
「じゃ、道案内よろしく」
到流は黙って頷いた。
「俺、下の名前は文雄」
「あ、はい……」
「反応悪ぅ、興味ないって?」
「いや、そういうわけじゃっ」
慌てる到流が可愛くて、文雄はいろんなものを含ませて笑った。
「つ、次、右です」
「ほーい、到流君だっけ、歳とか聞いていい?」
「僕は今年二十五歳です」
「じゃ俺とちょうど五歳違いなんだ。俺こないだ三十になったばっかだし」
「あ、そうなんですね」
「えっと呼び方って田川君、それとも到流君でいい?」
「はい、どちらでも大丈夫です……あ、そこ、左です」
「ははは」
「な、何ですか……」
「いや別に」
見た目の雰囲気よりも素朴で飾らない到流に興味が湧いた。
十五分程で平屋の家の前に着いた。母屋と離れがあるようだった。文雄の家はここからまだしばらく走ることにはなるが、こんなに近くに住んでいたと思うとなぜか悔しさがこみ上げた。
「確かに車だと割と早いな。歩きだと大変でしょ?」
「大丈夫です。あ、ありがとうございました」
到流は頭を下げてシートベルトを外し始めた。
文雄の胸に何かがつっかえた。でもそれが出たいと言ってうるさかった。
「あー、なんか、喉乾いちゃったな」
「え……」
到流は手を止めてこちらを見た。
文雄も到流を見た。薄暗い中で到流の瞳が潤んでいるのが分かった。
「あ……あの、よかったら、コーヒーでも、淹れましょうか……」
「え、いいの? お邪魔しても」
「は、はい、送っていただきましたし……」
「おぉ、いいね。ちょうどコーヒーって感じだった」
「狭いです、けど」
「ぜんぜん」
到流の俯いた顔が少し微笑んでいるような気がしたが暗さで分からなかった。
文雄は、到流がどんな部屋に住んでいるのかが急に気になった。
母屋の方ではなく離れの方に通された。適当に座って下さいと言われ、座卓の前にあぐらをかいて座った。
「あっちが母屋?」
文雄は窓の方に指を差した。
「母屋はばあちゃんが住んでて僕はこっちの離れなんです」
「そうなんだ。じゃ、ここばあちゃんち? もしかして実家は全然違うとこにあるとか?」
「……いえ、ここが実家です。ずっとここに住んでましたし」
文雄は、もしかすると到流が違う地域から来た人間かと思い直して突っ込んで聞いたが、別な事情がありそうな回答に聞いたことを後悔した。
「そっか。なんかごめん」
「いえ」
到流はこくんと小さく頭を動かして、ドリップコーヒーにお湯を注ぎ始めた。芳醇な香りが小さい部屋に漂った。
「うぉ、いい匂い」
文雄がそう言うと、到流の微笑んだ横顔が見えた。
そして、到流が確かに近くで生きていたことに少し嬉しくなった。
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