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第2話 つながった
マグカップのコーヒーをすすると会話が続かなくなった。
到流は、そっと文雄を見た。顔の半分を隠していたカップを置きかけたのでまた視線を戻した。
「ほんとうまい」
文雄は気を使ったような笑顔をしてくれた。
「……普通のドリップです、けど」
「お湯の注ぎ方だろうね。ちゃんと蒸らしてからちょっとずつ注いでたし」
「そうなんですか、……ふふ」
「なにぃ?」
「いえ何でもありません。ちゃんと見てるんだなって。……そっか、中瀬さん料理できる人なんですよね。だったらコーヒーの淹れ方とかも詳しいのかなって」
到流は、自分でもなぜ笑ったのか分からなかった。それに自分の張りのある声を久しぶりに聞いたような気がした。
「それほどでもないけどさ」
文雄の笑顔がふっと消えたのが気になったが、文雄はすぐに口を開いた。
「到流君は、なんか新作メニューとか、考えたりするの?」
「え?」
到流は、一瞬何のことかと思ったが居酒屋『たっちゃん』のことだと思いあたった。
「あ、僕は、そんな大したことは何も」
「そうなの? 考えればいいのに」
「え、でも、大将のようにはなかなか。僕なんか」
また沈黙が走った。
「……俺さ」
「はい」
「初めて会った到流君に言うことじゃないし、大将には言わないで欲しいんだけど」
「……はい」
「正直、さっき大将が羨ましかった……」
「…………」
文雄の落とした視線がマグカップにあたっていた。
「新しいメニュー考えてさ、お客さんに食べてもらってさ、美味しいって言ってもらえることってさぁ……それってめちゃくちゃ幸せだろうなって」
文雄の目が薄っすらと光っていた。
「……ごめん、熱くなるなんてダサいよな」
到流は思わず首を振った。
「ううん。……ぜんぜんダサくないです」
「そう?」
「僕なんか、ほんとバイト感覚しかなくて、中瀬さんみたいな気持ち持てるなんてすごいと思いますし、何て言うか……その、か、かっこいいと思います……」
到流は自分でも何を言い出したのか理解できず顔が熱くなった。
黙っている文雄の方を見ると、文雄の口角が優しく上がっていた。
「あっ、いや、そういう意味じゃなくてっ」
慌てる到流を見て文雄の顔が崩れた。
「ありがとう」
文雄はそう言うとまたマグカップを口に運んだ。
「さっき、大将とお話されてましたけど、その、家業を継ぐために居酒屋の方はもう、あれなんですか……」
「うん、まあ」
「それだけ、飲食したいなら……その」
「まあね。でも仕方ないよ。俺の代でやめるのもなんか親に申し訳ないしさ。料理は趣味でもいいかなって今は思ってる」
文雄はまた視線を落とした。
「……すみません、なんか余計なこと聞いてしまって」
「あ、ぜんぜん。到流君って素直だね」
「え……っ」
「ああ違うよ、そういう意味じゃなくて」
到流と文雄の視線が真っ直ぐに合ってしまい、お互いに数秒間動かせなかった。
到流の方から先に外すと、文雄はそわそわし始めた。
「そ、そろそろ俺帰るね。ごちそうさまでした。ほんと美味しかった」
「いえ」
文雄は素早く立ち上がった。到流も慌てて立ち上がった。
玄関を出ると冬の星明りだけが頼りで、薄暗い空間に二人で入った。到流は、文雄の広い背中を見ないようにして視線を彷徨わせている自分に気付いてすぐに下を向いた。
文雄が、脇に停めてあった到流の自転車の前で立ち止まった。
「さっき大将が調子悪いって言ってたけど、この自転車どっか壊れてるの?」
「ライトが壊れてしまって」
「ライト?」
「はい」
文雄は考える仕草を見せてから、
「ちょっと待ってて」
と言って自分の車に走って行き、トランクを開けて中をまさぐり始めた。
するとまたこちらに小走りでやって来た。
「これ良かったら使って。ちょうど在庫あったの思い出した。どのタイプにもいけるやつだし」
と言って差し出されたものを見ると、自転車用のライトだった。
「え、あ、でも申し訳ないです」
「コーヒーのお礼」
「いや、それは送ってもらったので」
「ははは、いいから、使って」
「……ありがとうございます」
そっと見上げると文雄は穏やかに微笑んでいた。ライトを受け取るとき、文雄の温かい指先に触れてしまった。急に到流の胸が狭くなり、目の辺りが熱くなった。
「ああ、ん、到流君って何曜に入ってるの?」
「……えっと、今は定休日以外はほぼ毎日です。ピークはいつもいて欲しいって」
「そっか、分かった、また行くわ」
「はい」
「それじゃ」
「ぁあ、あのっ」
「ん?」
文雄が振り返った。
「中瀬さんは、どの辺りに住んで、いらっしゃるん、ですか」
「ああ、俺は、ここの海岸線抜けてちょっと山側に入ったとこ」
「そうなんですね」
「中瀬電機で検索したら出てくると思う」
「あ、はい」
車に乗り込む姿がやっぱり凛々しくて、切り取りたいくらいだった。
黒の軽バンが走り去った。
暗闇の中で点滅するハザードランプが角を曲がって行った。
手に持った自転車用のライトにその光がわずかに反射していた。
◇◇
配達を終えて戻って来ると、父親の中瀬恭介が立て看板の位置を直していた。
「おうお帰り。現金か? 振り込みか?」
「振り込むって」
「そうか、まあいい。高橋さんはいつも注文くれるしな」
「うん」
「文雄、晩飯はどうする?」
「ああ、いい、出かけるし」
文雄は荷物を確認してトランクの扉を閉めた。
「おお、そうか」
恭介はそう言ってなぜか嬉しそうな顔をした。
「なに」
「父さんはいつでも歓迎だからな」
「え? 歓迎って?」
文雄は店舗兼住宅の玄関に向かう途中で立ち止まった。
「結婚するなら」
「ええ? ……ああそういうこと」
「そういうこと」
恭介は文雄の方を見てさらににやっと笑った。
「違うよ、今日は『たっちゃん』に行くだけ。今は誰もいないよ。着替えてくるね」
「文雄」
文雄はまた立ち止まって恭介の方を見た。
「とにかく早く連れて来い。親戚から見合いの話も出だしたぞ。お前のことだから自分の好きな子じゃないと嫌だろ?」
「……ありがとう」
「それと」
「え、まだあるの?」
「無理に継いでもらわなくてもいいぞ」
恭介はそう言って屈んで背中を見せた。
「急に」
「飲食に未練があるならお前はお前の人生を歩めってこと」
「ああ……『たっちゃん』で友達が働くことになって、いろいろ話があるだけだよ」
「ふーん、二、三日前に行ったばかりじゃないのか」
「あれは……新作ができたから呼ばれただけで。……心配しないでいいから」
それには何も答えず恭介は黙々と作業を続けた。
到流と出会ってから数日が経っていた。車の中で見た潤んだ瞳や部屋の中で見た笑顔や自転車用のライトを渡したときの戸惑っている顔が忘れられなかった。
また会いたい。また話したい。可愛い顔が見たい。
だから数日経ったのを待ってまた『たっちゃん』に行くつもりだった。ちょっと早いかもしれないが、待てなかった。これでも我慢した方だと自分の中では思っている。
到流君、俺が突然現れたら驚いてくれるかな……とか言って……バカだな。
常連の客たちが来る時間帯の前に『たっちゃん』に着いた。この時間は仕込みが終わって暇を持て余しているタイミングなのだ。
「いらっしゃい、……あれ、中瀬」
大将の威勢のいい声が聞こえた次の瞬間、大将は抜けたような顔になった。
すると、すぐに奥から到流が暖簾を払って出て来た。
大将に声をかけながらすぐに到流の顔を確認した。到流は、瞬きを繰り返しながら頬がなんとなく赤くなっているように見えた。
「中瀬さん……いらっしゃいませ」
「おぅ、お疲れ」
「この間は送ってもらってありがとうございました」
「こっちこそコーヒーごちそうさまでした」
カウンターを挟んで到流と微笑み合った。この時間がずっと続けばいいのに。
「えっ、到流、お前、家に上げたの?」
「え……あ、はい」
「珍しいなあ、お前が人付き合いするなんて」
「そ、そうですか……」
到流が困ったような顔になった。
「大将、俺が喉乾いたって言ったからですよ」
「そうか、まあ仲良くなるってのは悪いこっちゃないな。で、今日はどうした?」
「あ、いや、晩飯ここで食おうかなって、配達のついでだし、到流君とも知り合いになったし」
「お前も珍しいな」
「言っておきますけど今日は普通の客ですからね」
「はいよ、じゃなんにしましょ。ははは」
「手のかからないやつでいいっすよ」
「うちのことを考えていただいてそりゃどうも、あっそうだ、もう一つ珍しいことがあんだよ」
「なんすか」
「到流がさ、急に新しいメニュー考えたいって言い出してよ」
「え」
文雄は到流と交わした自分の言葉を思い出した。
「ちょうどそれが煮魚定食。ランチ用だけどさ夜もいけるなって。到流の地元の漁師から魚を直売してもらってさ」
「そ、そうなんですか」
「おつまみ用に仕込んでる煮魚をランチに応用したらどうかって。なかなか合理的ときた」
「…………」
「中瀬? なんだよ急に黙って」
「あ、いや、それはいいっすね。味噌汁と小鉢さえあればいけますもんね」
到流が自分のアドバイス通りにしてくれたことに胸が苦しくなった。
「その通り。到流の奴いつの間にって感じだよ」
「じゃ、それ、到流君が考えたメニューでお願いします」
「あいよ。到流、早速お前のメニュー第一号さんができたぞ」
奥から到流の返事が響いた。少し強張っているような固い声だった。
ふと顔を上げると大将の太一が嬉しそうな顔をしていた。
「な、なんすか大将」
「いや別に」
「なんすか」
「お前、まさか」
「まさかって?」
「いや、うちは歓迎だよ、歓迎だけど、いいのか稼業の方は?」
「へ?」
「作りたいって腕が疼いてきたんじゃねえのかよ」
「……ああ、そ、そうじゃないんです、けど」
「いいって、いいって。今は何も言うな」
「そうじゃないんす、けど」
太一は高笑いをした。
到流に会いたかったなんて言えるわけもなく、文雄は湯飲みに手を伸ばした。
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