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第3話 知りたい

「ごちそうさまでした。うまかったす」 「中瀬に教えてもらった通り、酒と濃い口を少し多めにしてみたんだぜ」 「ああ、やっぱり通りで、ははは」 「お前なあ」 「冗談すよ、大将の腕が元々いいからですよ」 「……いつでもいいぞ」 「え?」 「中瀬の『たっちゃん』復帰だよ」 「あ、いや、ありがたいすけど……」 「往生際が悪いなあ、なんちゃって。親父さんに悪いよな」  到流は、そこまでの会話を聞いて熱い緑茶を入れた急須を持ってカウンターを出た。  文雄のために一番茶を準備しておいたのだ。 「お、ありがとう。煮魚定食、めちゃめちゃいいアイデアだったんじゃない」 「ありがとうございます」  到流は、文雄の笑顔を見て嬉しくなった。  自分から何かを提案するなんて初めてだった。何かを考えても「どうせ」という言葉がいつも付きまとった。  文雄から言われたことがずっと頭に残っていた。いつもなら聞き流すようなことなのに、文雄から言われるとそれに応えたいという気持ちが自然と出てきた。それが人とつながることのような気がして、それが文雄との仲を深めるような気がした。他の人だったらいつものように「どうせ」という言葉が先に出ていたと思う。  例え新しいメニューを提案したことが文雄の耳に入らなくてもいいと思っていた。  自分の中にいる「文雄」に報告できればそれでいいと思っていた。  大将も文雄も優しい。すでにあった一品料理をランチに応用するくらいどこの店だって思いつくことなのに、こんなに褒めてもらえるとは思っていなかった。  きっと励まそうとしてくれているんだ。  狭い町なだけあって大将と奥さんは到流の父親の事情を知っているはずだ。口には出さないけれどそれを知っていて雇ってくれたのだと思う。時給は決して高くないし、別の場所で働いてもいいと思っているが、もしかすると全てを話さなくてもいいという安心の方が勝っているのかもしれない。  入口の引き戸が開き、大将の奥さんである幹子が買い物袋を提げて入って来た。 「あらっ、中瀬君じゃない。お久しぶり、今日も来てたの?」 「お疲れっす。晩飯で来てました。仕入れすか?」 「そうなのよ、子供ら塾まで届けて帰り。ほら、むっちゃんのとこの野菜、予約してたからもらいに行ってきたの」 「おお、新鮮っぽいすね。さすが陸田さん」 「むっちゃんもそうだけど、そう言えばここ辞めてからも中瀬君のお陰でいいとこいろいろ紹介してもらったよね」 「お役に立てて感無量す。地元の先輩んちがちょうど兼業農家してたのもありましたし、今のお客さんの伝手もあって」 「ほんと顔広いよね中瀬君。いい業者さんいたらまたお願いね」 「もちろんっすよ。また考えておきます」  太一と幹子と文雄の笑い声が大きくなっていく。人の笑い声がこんなに心地がいいなんて今まで知らなかった。  到流は、カウンターに置く煮物や漬物を大皿に分けながら、文雄の表情を窺った。  料理ももちろんだが、食材の仕入れ先の開発も文雄は好きなんだろうなと感じた。どこそこの何のどういう部分がいいという話をするとき、文雄の瞳はきらきらと光り出す。  顔が躊躇なく崩れてくしゃくしゃになる。笑い声が大きくなる。手を叩いて笑い出す。見ているこちらが幸せになるその顔を、ずっと眺めていたいと到流は思った。  到流があんな笑顔になったことがあっただろうか。少なくともこの八年間はなかったような気がした。  到流が高校二年のとき、父親である田川政吉が飲酒運転でひき逃げをして逮捕された。被害者が足の骨折だけで済んだのがせめてもの救いだった。でもそれだけではなく、その車の中に違法薬物があった。使用のためではなく密売のためだったので罪がより重くなった。しかも手を染めていた期間も長かった。  おまけに事故を起こす直前には、酔った勢いで密売人同士でけんかをして相手に重傷を負わせていた。罪に罪が重なって八年も収監されることになった。  政吉は酒を飲むと家でも暴れた。母親である秀美との間にはとうに愛情もなかった。だからか、母親は飲むことを注意することもなく政吉が暴れ出すと到流と外に出て冷静に避難した。今思うと、その冷静さは情も冷めていた証なのだと思う。政吉もそれを敏感に感じ取って、男の面子で口に出せない感情を物にあたっていたのかもしれない。  それから祖母が口癖のように「二人とも到流の親だから、許してあげなきゃだめだよ」と言われた。母親はそれから間もなく離婚して生活拠点を実家に移し、ほんのときどき到流の顔を見に来る程度になった。  結局はどちらも可哀想なんだ。今ではそう思えるようになった。そう思えるようになったからこそ、この人たちの笑顔と笑い声が心地いいのだ。  あの人のことはもう忘れよう。今のこの目の前の幸せだけを見ていこう。  笑い方を忘れていた到流の心の中に文雄の笑顔がどんどん沁み込んでくる。熱を持って入ってきて、到流の内側を焦がしていく。  中瀬さんのように笑ってみたい……中瀬さんなら、僕のこと笑わせてくれるかな……。  僕のこと……抱きしめてくれるかな……。  ……何考えてんの……。 「到流君、こんにゃく落ちそうだよ」  幹子の声が聞こえた。 「え……っ、あ、ほんとだ、すみません」  到流は、大皿からはみ出していたこんにゃくをレンコンと一緒に盛り直した。  文雄が食事を終えた頃、お茶をつぎに来た到流に話しかけてきた。 「到流君、今日はどうやって帰るの?」 「自転車ですよ。中瀬さんのお陰でライト点くようになりましたので」  到流は感謝の気持ちも込めて微笑みかけた。  文雄は顔を少しだけ引きつらせた。 「あ……そっか……」 「え、何ですか」 「いや、何でもない……」  どこか残念そうな顔をする文雄に不思議なものを感じながら、文雄の食べ終わった食器を片付けた。  文雄が使用した食器を運びながらそれを見つめた。骨だけになった煮魚、ご飯も味噌汁も小鉢もきれいに食べていた。  なぜだろう……食器が愛しいと思った。自分が洗う役割で良かったと初めて思った。  他の人の食べ残しなどは素手で触らないようにしているし、ゴム手袋を装着するときもある。なのに、文雄の使った食器は素手で洗いたくなった。  撫でるように、お茶碗もお皿もぬるま湯で優しく洗っていく。まるで一緒に暮らしている大切な人のものを洗っているように。そこに唾液がついているとしたら余計に手で触りたくなった。  こんなことおかしいって分かってるのに。独りよがりだって分かってるのに。  ダメだ……やっぱり、僕、中瀬さんのこと好きなんだ。  どうしよう。  ◇◇  良いことをしたのか馬鹿なことをしたのか分からなくなった。  文雄は、到流に自転車用のライトをあげたことを誇らしげに思いつつ、少しだけ後悔した。  到流を乗せて帰るという口実がなくなってしまった。  到流が喜んで使ってくれているならそれでいいはずなのに、距離を遠くしたような気になっている自分がいた。  こんなこと考えてること自体がおかしいんだって……。  店の電話が鳴り、大将が応対し始めた。到流の方を見ると、到流は表情が見えないくらいに俯いて洗い物をしていた。  焦ってること自体がおかしいって……相手は何とも思ってないかもしれないのに。  電話を切った大将が大きなため息をついた。 「幹子、おい幹子」  幹子が返事をしながら厨房からカウンターに入って来た。 「内野さんキャンセルだって」 「ええ、なんで」 「仲間の一人が風邪ひいたから来週に延長だってさ」 「仕方ないね。五人分の食材明日の近藤さんに回す?」 「日持ちするやつは回して。魚は……あ、到流、悪い」  呼ばれた到流は洗い場から顔を上げた。 「到流、マジでごめん。今夜はもう帰ってもらっていいか? 内野さんの予約なくなったらあとはぽつぽつしかないからさ」 「あ、分かりました。これ洗ったら上がります」 「ほんとすまん。その代わりこの魚と豆腐やるから、これで許して」 「いいですよ、大将が使って下さい。僕は大丈夫ですから」 「そうはいかないよ、お前だって金稼ぐために来てんだから。それにこれ持って帰ってくれるとほんと助かるんだよ」 「あ、はい、分かりました。そうさせていただきます」  到流が受け取った魚は一匹そのままの姿だった。文雄は、到流がさばけなかったら可哀想じゃないすか、と言いかけて口をつぐんだ。  文雄は大将に話しかけた。 「大将、俺もそろそろお愛想お願いします」 「おう、ありがとな。またいつでも来てくれよ、いろんな意味でな」 「ありがとうございます」  文雄はそう言って笑い声を上げた。到流が会釈をしてくれたが、頷くに留めた。    文雄は車の中で待っていた。バックミラーに到流が裏口から出て自転車を押して来る姿を確認してスマホの画面を立ち上げた。そして見るつもりのないネットニュースを見た。  運転席の横に到流が来たことに気付いたけれどわざとスマホを見つめ続けた。  気付いてくれることにかけていた。もし本当に気付かなくても電話していたと適当に言って声をかけるつもりでいた。  こんこん、と窓がノックされた。初めて気付いたように驚いて見せ、窓を開けた。 「おう、お疲れ」 「まだいらっしゃったんですか」 「うん電話がかかってきてさ、仕事のメールも急に来て。到流君、今日災難だったね」 「いえ、大丈夫です。今日はありがとうございました。あの……ではまた」 「あ、到流君」 「はい」 「寒いでしょ? 乗ってけば」 「え? いやあの、自転車……」 「後ろに乗るよ、それくらいなら」  文雄はそう言って親指でトランクを指した。 「え……っ」  到流は視線を彷徨わせ、また文雄を見つめた。その潤んだ瞳に吸い込まれそうになる自分を振り切るようにドアを開ける仕草を見せると、到流は自転車ごと避けてくれた。  文雄は自転車のかごに入っていたビニール袋を到流に渡すと、 「貸して」  と言って半ば強引に自転車を担ぎ上げトランクまで運んだ。 「え、あの中瀬さん、なんか申し訳ないっていうか」  文雄はそれを無視して軽バンのトランクに自転車を積んでトランクのドアを閉めた。 「もう乗せちゃいました。到流君も乗って」 「……は、はい」  上目遣いで頷く到流を抱きしめたくなって、文雄は慌てて視線を逸らせた。  車が動き始めても俯き加減で黙っている到流が気になったが、愚痴でもこぼせば空気も和むかと思った。 「うちの親父がさ、いろいろ世話焼きでウザくてさ。親と同居って助かる面もいろいろあんだけど、監視されてるようなとこもあって正直俺も一人暮らししたい。ってか、もうそろそろしようかななんて、はは」  到流はゆっくりと顔を上げた。 「……いいじゃないですか、いろいろ心配してもらえるのっていいと思いますよ」 「そうか? 子供じゃあるまいし、もう勘弁してくれって感じ」 「……僕は、そういうの羨ましいです」 「え?」  そこまで来て到流が両親と暮らしていないことを思い出した。 「僕は両親ともばらばらで暮らしているんで、そういうの憧れでした」 「……なんかごめん、そういうつもりじゃ」 「いいんです」 「話変えよ、ごめん、謝る」 「いいんです、何ていうか……し、知って欲しいっていうか」 「ん?」 「中瀬さんには話したいっていうか……」 「俺でいいなら何でも聞くよ」  信号が赤になって隣をそっと見ると、到流の瞳がカーステレオのライトに反射して揺らめいていた。

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