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第4話 一緒に

 父親のことを話し終える頃には、車は到流の家の前で停車していた。  文雄は両腕をハンドルに乗せて前を見ていた。  中瀬さん、どう思ったかな……。もし嫌われるとしたら、早い方がいい……。  今なら、自分の気持ちに蓋ができそうだった。まだ後悔しない場所にいる。自分の家族の本当の姿を知ってもらって判断して欲しかった。それで、このまま深く関わらない知人か友人のままでいようと思ったのなら、それでも良かった。  今、そう思ってくれたら、こっちも助かる。そう思ったのなら、僕のこと、避けてくれたらもっと助かる。  こんな風に優しくされると、苦しくて仕方なかった。中瀬さんのこと、本当に忘れられなくなりそうで、恐かった。  なんで僕に優しくするんだろう。まさかって思うけど、思いたくない。後で嫌われる方がもっともっと辛い。  僕のこと嫌うなら、どうか今、嫌って下さい……お願い……。 「……そっかぁ、いろいろ大変だったんだね」  文雄は前を見たままそうこぼし口角が少し上に動いた。  到流は頷くのが精いっぱいだった。 「ごめんな、なんか辛いこと思い出させて」 「……いえ、僕が話したかったので」 「分かった。今の話はちゃんと覚えとく。俺にできることあったら何でも言って」 「あ、はい……」  文雄がどういう気持ちでそう言ったのか、到流はそれを推し量れずにいた。社交辞令かもしれない。 「それで、その魚どうすんの?」 「え……っ、魚……?」 「うん、それ」  文雄は到流が膝に置いているビニール袋を指した。 「あ、ま、そうです、ね……っていうか、今の話聞いてその、僕の父親のこと」 「ん、まだ何かあるの?」 「いや、あの、僕こんな家族抱えてますけど、それでも仲良くしてくれるんです、か……」 「もちろん。なんで?」  文雄は眉毛を上げた。 「なんでって……悪いことした人間だし、そのご迷惑かけることもあるかもしれないし」 「ああ、でも到流君は到流君だし、到流君のお父さんなんだし、それはそれじゃない? 俺への迷惑なんて考えなくていいよ」 「…………」 「俺は到流君と仲良くしたいと思ってるよ。……到流君はどうなの?」 「……僕も、中瀬さんと、できればですけど、こんな僕でよければですけど……」 「うん」 「……仲良くしたいと、思って、ます……」 「分かった。じゃ、仲良くなったついでにその魚どうする?」 「えっ」 「早く冷蔵庫入れた方がいいよ。はらわた取ってるみたいだけど早めに三枚におろした方がいいしね。さばける人いないでしょ。あ、おばあちゃんがいるか」  到流は、ばあちゃんならさばけると思ったが、その言葉は飲み込んだ。 「ばあちゃん最近手首が痛いって言ってて、今さばくのは無理かもしれないです」 「じゃ、俺がしよっか?」 「は、はい、ぜひお願いします」 「オッケー。じゃ今日もお邪魔していい?」 「はい、どうぞ」  二人で微笑みあった。文雄はハンドルに置いている両腕に顎を乗せて声を上げて笑った。到流は魚を入れている袋をぎゅっと握って声を上げて笑った。  なんで急に二人で笑ったか分からなかった。でも到流は嬉しかった。  父親のことを何でもないことのように言ってくれた文雄の優しさが嬉しかった。  それに、笑った自分の声を久しぶりに聞いた気がした。    二人並んで台所に立つと、文雄との距離が今までで一番近くなった。文雄のたくましい腕に到流の肩がつきそうになるたびに、体の中心が甘痒くなる。 「まずここ、ここに包丁をこうやって入れて、分かる?」  少し八の字になった眉毛と波打った額、動かない瞳と通った鼻筋に見とれてしまった。はっとして文雄の真剣な横顔から魚に視線を戻した。 「は、はい、分かります」 「そしたらこうやって、すうっとうまく切れるから」 「なるほど、すごい」 「簡単そうに見えるけど、慣れるまではちょっと練習が必要かも」 「そうですね。僕なんかにできるかな」 「大丈夫。何でも慣れだから。ほらこうすれば、できた」 「ほんとだっ、三枚になってる」 「ね」 「うん」  横を見上げるとすぐ近くに文雄の笑顔があって胸に何かがつっかえた。お互いに視線が彷徨ったが、文雄は包丁を洗い始めた。 「コツさえつかんだらいけそうでしょ?」 「はい、まあ」 「すぐ覚えられるよ」  到流の体の中が急に熱くなった。すぐ横にいる文雄が遠い場所にいるような感覚がして、自分だけが孤独になるような寂しさが湧き上がった。まな板の上の魚の骨を見つめていると、操られているように口が動き出した。 「……覚えたくない、かな」  自分でも理解できない言葉が勝手に出た。 「え……」  文雄は手を止めてこちらを見た。到流自身ではコントロールできない自分がいた。 「だって……これ覚えちゃったら、中瀬さんに来てもらえなくなるん、ですよね……」 「到流君……」  到流は切り替わったように文雄を見た。文雄の強い眼差しが当たって自分の頬に熱が帯びるのを感じた。 「はぁっ、いやっ、ごめんなさい、違うんです、お、覚える自信がないっていうか、そういう意味じゃなくてっ」 「俺も同じこと考えてた、今」 「……え……」  文雄の表情が少し柔らかくなった。 「自転車のライトもこれも、結局さ、一緒にやること減らしちゃってるなって」 「…………っ」  到流は鼻の奥が痛くなった。 「ごめんな、気つかなくて」 「ううん、僕の方こそせっかく教えてもらってるのに、ごめんなさ……」 「謝らなくていいよ。到流君の言ったことが俺の気持ちでもあるし」 「……中瀬さん……」 「涙こぼれちゃうぞ」 「だって……だって僕なんかっ」  到流が下を向きかけたとき、体が温かいものに包まれた。弾力のある壁に頬が埋まっていて、背中に回ったたくましい腕が到流の動きを封じた。 「だってとか僕なんかとか言うなよ。俺は同じ気持ちで良かったって思ってるよ」 「……僕……」 「俺すっごい不安だった。ほんとはめちゃめちゃ緊張してた」  到流は鼻をすするだけで言葉が出なかった。 「マジで安心したわ……」  文雄の揺れた声が聞こえたと同時に到流の体がより強い力で抱きしめられた。  到流も細い腕を恐る恐る広い背中に回した。見たことのない世界に手を伸ばしているような気持ちになった。でも手の行き着いた場所はすごく温かかった。 「中瀬さん……」 「男同士でこんなことっておかしいんだろうなってずっと思ってた。間違ってるんだろうなってずっと思ってた。でも、到流君に会って、なんかそういうこと考えなくなったっていうか、どうでもよくなってきてさ」 「……う、ん……」 「自分に正直に生きてみるのも悪くないかなって。まだ知り合ってちょっとしか経ってないのにこんなこと考えるのおかしいよな」 「僕も、ずっと、同じこと思ってました……」 「じゃあ、ただの知り合いから、けっこうハイパージャンプしたってことでいい?」 「ふふっ、はい、僕でよければ……」  抱きしめ合ったままで二人でくすくす笑った。  中瀬さんはやっぱり僕を笑わせてくれる人なんだ。  やっぱり、そんな気がした。 ◇◇  その日はハグ以外何もしなかった。  三枚におろした魚を一緒にラップで包んで冷凍庫に入れて、到流も早めにまかないを食べていたこともあって、お茶しながらテレビを観て、世間話をして帰った。  たったそれだけなのに幸せだった。  ハイパージャンプしたと言ってもどこにジャンプしたのかなんて文雄にもよく分からなかった。ただの知り合いではなくなったということは確かで、お互いに同性が好きだと暗に伝え合ったこととお互いになんとなくタイプだねと黙認し合った程度だ。  到流もそう思ってたような気がする。到流は自分の父親のことを告白してすごく気にしていたが、文雄は言葉通りの気持ちだった。  確かにびっくりはしたし到流が不憫だとも思った。でもだからといって、到流と距離を置こうとは思えなかった。  何ならその逆だったかもしれない。到流が困ったり悩んだりするほど、俺を頼ってくれる。俺ともっと親密になる。  そして、到流が孤独であればあるほど、早く俺のものになるような気がした。  ずるくてもいい。それが文雄の本音だった。  海外線に乗ると、黒い海の上に月明りが散らばっていた。  車を運転することは嫌いじゃない、むしろ好きな方だ。誰かとドライブするなら絶対に運転する方だ。  でもこうやって一人で車に乗っていると、時々このままずっと一人で運転し続けるのかと思うことがある。そういうときは胸の中が真っ暗な海の底に沈んだようになる。  今日はそう思わなかった。今日からはそう思わなくなるような気がした。  海辺の町で生まれ育つと海に珍しさはなくなるが、海が好きな気持ちは変わらない。到流を助手席に乗せて海外沿いをドライブしたくなった。砂浜を手をつないで歩きたくなった。  この町は特に夕陽が沈む光景がきれいだ。遠方からもそれを見に来る人も多い。ここの住人はもうその光景は見慣れている。  だけど、到流と二人でじっくりと見つめてみたい。そう思える奴に出会えたって幸せだな、と文雄は思った。  こう思ってしまうのはちょっと早いかな……。でもどうせすぐにこんな気持ちになるのが目に見えている。 「だよな」  文雄はそう呟いてアクセルを踏み込んだ。  翌朝、歯ブラシに磨き粉を着けようとしていると、トイレに入ろうとしていた父の恭平が洗面所を覗いた。 「おお。おはよう。お前、昨日は遅かったな」 「うん、大将とも話が弾んでさ」 「ふーん、お前の顔がなんか弾んでるぞぉ」  恭平はにやっと笑ってトイレの扉を閉めた。文雄は黙ったまま鏡を見た。自分では弾んでいるようには見えなかった。  トイレから出てきた恭平が手を洗いに洗面所に入って来た。 「母さんが、彼女でもできたのかなって言ってたぞ」  恭平は手を洗いながら小声でそう言った。 「ああ……」 「親戚もうるさくなってきたし、母さんもそろそろ気付いてるし、今のうちだぞ」 「なにが……」 「今は父さんが防波堤になってるけど、連れて来るなら今のうちだってこと」 「……あ、ゆすぐからどいて」 「二回目の忠告な」  文雄はその言葉を無視してうがいを始めた。  連れて来られるものならそうしたい。到流との関係が進んでいて、男同士の関係が認められるのであれば、とっくにそうしている。  口の中の水を吐き出した後、はっと思いついて鏡を見た。  待てよ……。そうだ、連れて来るってのはいいかもしれない。今仲良くしている田川到流君だよって紹介したらどんな反応をするだろう。  何かを察してくれるだろうか。察して見守ってくれるなら有難いのに。  ふいに到流を抱きしめた感触が蘇った。柔らかくて細くて、強く抱きしめたら壊れそうな体。文雄に助けを求めるようにしがみついてきた弱々しい手。守ってやりたい。ずっと自分にしがみつかせたい。  俺なしじゃ生きていけないって言わせたい……。  親とか親戚とかそんな理由で到流との関係をなかったことにするなんて、できない。まして到流への気持ちを捨てて女と結婚するとか……ありえない。  文雄は歯ブラシを乱暴になおした。水しぶきが飛んで顔にかかった。手の甲でそれを拭って洗面所の電気を消した。  朝食も会話が発展しないようにそこそこで済ませ、配達に出た。  重い家電の配達も、ついでに行う修理も、外回りはもう文雄の仕事になっている。やっと一人になれる時間でもある。  いつも見ている海なのに、朝陽を浴びた海がこんなに輝いているなんて気付かなかった。  到流とデートするならどの浜辺がいいかな。そうやって海岸の方ばかり見つめて、ふさわしい場所を探している自分がいた。  文雄の頭の中には、砂浜を手をつないで歩く二人の姿がずっと映っていた。

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