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第5話 同じ方向

 普段はめったに見ない山あいの景色が広がった。さっきまで見ていた海の色と同じで山の色も固かった。  エンジン音が濃くなってスピードが上がった。文雄の運転する軽バンの助手席に乗るのはこれで三度目だ。 「寒い? 温度上げようか?」  横から柔らかい声が聞こえてきた。 「はい、ありがとうございます」  大きい手がエアコンの操作ボタンに伸びた。太い指がボタンからはみ出していたのを見て、到流の体の真ん中が少し温まった。  体が縮こまっていた理由は寒さもあったのかもしれないが、それだけじゃない。  うちでもバイトしないかと文雄から声をかけられたことが一番の理由かもしれない。雇い主にもあたる文雄の父親にあいさつに行くことになって、文雄がわざわざ迎えに来てくれたのだ。  金銭面では確かに助かる。休みの日は特に何をするわけでもなく、居酒屋『たっちゃん』のシフトに入れる日数も時間も限られている。  個人経営の電機屋での店番、清掃、配達、修理補助と聞けば到流にでもできそうな内容ばかりだった。かけもちで働けるなんて本当はありがたい。  普通に考えれば感謝すべきお誘いだったが到流は最初は言葉少なに断った。心の中で好きだと思っている人と一緒に働けるなんて幸せなことだと思った。いつもそばにいられる。  でもそれは同時に文雄の両親とも親交を深めることになる。前科のある自分の父親のことを知られてどうという気持ちじゃない。それで追い払われたら自分から去ればいいだけだと思っているし、今までもそうしてきた。  そうではなかった。自分をかばうためじゃない。それは申し訳ないという感情に近い。文雄への思いが漏れてしまったらどうしようという恐怖にも近かった。まだはっきりとは確認していないけれど文雄も到流のことを友達以上には想ってくれているはずだ。じゃないと抱きしめたりしない。  少なくとも到流の中にある文雄への密かな気持ちを抱えながら、彼の両親の顔を真っ直ぐに見られるか不安だった。  なのに文雄は強引だった。「いいじゃん」「遠慮すんなって」「はい決まり」という言葉が何度も出た。両肩を持って顔を覗き込まれた。到流が「うん」と頷くまでそれは続いた。  車は海岸線道路を降りて住宅街に入った。文雄の話に相槌を打っている間に『中瀬電機』と書かれた看板の前に着いた。  初老の男性が店舗のガラス戸を開けて出て来た。短く刈り揃えたシルバーグレーが日焼けた顔に似合っていた。整った顔立ちと大きな体格で、誰なのかがすぐに分かった。 「あれうちの親父」  文雄の声が聞こえたと同時に到流は車から降りた。 「はじめまして、田川と申します」 「はじめまして、どうぞ」  振り向いて文雄を窺うと文雄は口角を上げて頷いた。恭平の手招きに応じて店舗の中に入った。そっと見た恭平の顔は穏やかだったのでとりあえず安心した。  履歴書などの書類を渡し、ソファで簡単な面接を受けると、恭平は書類を置いた。奥から母親だと思われる人がお茶を運んで来た。恭平はリラックスした雰囲気で口を開いた。 「田川君は『たっちゃん』で文雄と知り合ったの?」 「はい、そうです」 「いろいろと仲良くしてくれてるみたいで」 「いえ、僕の方が何かとお世話になってばかりで」 「田川君と知り合ったくらいからこいつ、いつも嬉しそうにしててね」 「そ、そうなんですね、あ、僕も、中瀬さんと知り合えて良かったなって思ってます」  湯飲みを置いた恭平は黙ったまま文雄の方に視線を走らせた。到流は何かまずいことでも言ったのかと視線が自然と落ちた。雇ってもらわなくてもいいから早く帰りたいと思った。でもそれじゃ文雄の好意を無駄にしてしまう。どうすることが一番いいのか分からなくなった。  ソファのひじ掛けに、ポケットに手を入れたまま腰かけていた文雄が立ち上がった。 「じゃ今日から早速働いてもらうから」  その言葉には返事をせずに恭平はローテーブルを見ていた。 「じゃ行こっか。配達の手順教えるから」 「え、あ、はい」  文雄が出口に向かったので到流も立ち上がった。そのとき、恭平が文雄の背中に声をかけた。 「文雄」 「ん?」  文雄が眉間に少しだけしわを寄せて振り返った。 「この店はそろそろお前に譲ろうと思ってたところなんだけどさ、田川君を入れるのもお前の采配でしたらいいし、どういう方向にするのかもお前に任せる」 「おぅ、頑張るわ」 「だから一つだけ確認させてくれ」 「なに」 「……この店、お前が責任持って引き継ぐってことで、いいんだな?」 「…………」 「もう、飲食には戻れないかもしれないけど、いいんだな?」  恭平の視線は、商売の厳しさを伝えているような、息子の覚悟を確かめているような、温かいのに冷たい温度を感じた。  文雄は意を決したように、落としていた視線を上げた。 「ひとつだけ……ひとつでいいから俺にも条件出させて欲しい、引き継ぐことの」 「なんだ……」 「……俺、いずれはこいつと店やっていきたいと思ってる……それ、認めてくれたら……俺が親父の店守ってくこと、約束する」  文雄の目が少し光った。到流は息が止まったような苦しさと熱い高まりを感じた。  文雄の母親はお盆を持ったまま俯き、恭平は胸を動かして鼻から大きく長い息を出した。  しばらく続いた沈黙を破ったのは母親の和代だった。 「私は、それでいいよ、文雄。あんたはあんたの人生を歩んだら?」 「母さん……」 「ね、お父さん、いいじゃない。店守ってくれるって言ってるんだから、それでいいじゃない。一人息子が私たちの生活守ってくれるってことだよ。ありがたいじゃない。あとのことはね、文雄は文雄の生き方があるの。そこまで親がどうのこうの言うのおかしいよ」 「分かってるよ、そんなことお前に言われなくても」 「はいはい、やんちゃは言わないの、もう若くないんだから」 「るせえ、俺だって同じこと考えてたんだよ」 「だって。良かったね、文雄」  和代は文雄と到流の方を見て微笑んだ。 「じゃあ、文雄。あれか、俺が早くしろって言ってたことの答えが、こういうことか?」  文雄の表情が強張った。 「……うん……こういうことだよ…………ごめん」  文雄の声が揺れた。到流は、「ごめん」の意味も親子でどんなやり取りがあったのかも知らない分、見守ることしかできなかった。 「俺……俺さ」 「分かった、それ以上は言わなくていい」 「親父……」 「ごめんなんて言ったら、田川君に、失礼だろうが馬鹿」 「あっ……へへ、そうだな、到流ごめん」 「えっ、いや、僕はそんなっ、何も」 「文雄、お前はほんとに、俺に似てるわやっぱり。デリカシーないとこ」  恭平の目もゆらゆらと光り出した。文雄は無造作に頬を拭って鼻をすすった。親子の笑う声が混ざった。  事情を知らなくても到流の目にもなぜか温かいものが上ってきた。親子三人の表情がそうさせるのかもしれない。何かを乗り越え、何かを理解し合っているように見えた。  文雄の言った「ここの店を到流と一緒にやっていく」という言葉の真意も推し量れなかったが、親子で気持ちを共有するということ、子供の生き方を親が認めてくれたということ、そんなぼんやりしたことはちゃんと感じた。  両親とずっと距離を取って生きてきた自分にとってそれは羨ましいことでもあり、同時に文雄の葛藤の深さと、その辛さを思った。  親がそばにいればいるで自分の生き方を認めてもわらないと前に進めない。文雄のように家族経営ならなおさらだろう。到流にとって家族と言える存在は祖母だけだ。祖母は到流の生活に口を出してこない。黙って見守ってくれているだけだ。  到流が人と違う生き方を選んだからといって誰も何も言わない代わりに、報告したり相談したり説得したりする煩わしさもない。  文雄は、何かに踏み出すとき、こうやってひとつひとつの壁を乗り越えないといけないのだ。その中で、父親との折り合いをつけながら仕事もこなしてきたのだ。到流にはそんな器用なことは到底できそうになかった。  そんな文雄と一緒に一歩を踏み出せたことを誇らしくも嬉しく思った。文雄の葛藤を少しでも減らせるのなら、文雄の仕事の夢に一歩でも近づくのなら、そして父親との仲が良くなっていくのなら、自分がこの人を支えよう。  到流は、少し前を歩く広くて大きな背中を見つめながらそう思った。 ◇◇  出した言葉はもう引っ込めることができない。そのことをやっと実感したのは、到流を乗せてしばらく走ってからだった。  海が見えたとき、さっきから何も言わない到流に話しかけた。 「なんで黙ってんの?」 「え……あ、いや別に……すいません」 「なんで謝んの、むしろ謝らなきゃいけないのは俺の方だろ」 「……え」 「自分で勝手に決めてごめん」 「…………」 「到流君が俺の店で働きたいかどうか聞く前にあんなこと言っちゃって。嫌なら嫌って言っていいよ、ってもう遅いって?」 「ふふっ……そうですね、大分遅いですよ。でも、嫌では、ないです……」 「ほんとに?」 「はい」  到流がこちらを向いて微笑んだ。文雄はその顔を見て安心した。 「あのさ、ちょっとさぼろっか、仕事」 「え?」  文雄はぽかんとしている到流を無視してハンドルを切った。高速道路の出口から海外線を降りた。 「どこ行くんですか?」 「海」 「え……海?」 「そう。親父たちには言うなよ」 「はい……」  到流と一緒に歩きたいと思っていた砂浜が近づくにつれて文雄の胸の中がくすぐられた。  砂浜に適当に停めた軽バンから降りると、潮風が吹いてきた。 「さっむぅ」  文雄はそう言って両手をジーパンのポケットに入れかけたとき、到流が手を胸の前にして寒がっているのが見えた。  手を伸ばしかけて、引っ込めた。温める意味でもいきなり手をつなごうとした自分が恥ずかしくなった。風の冷たさより、手がつなげないことに身が鋭く切られた。  さらに強い風が吹いて到流の前髪が全部上がって、白くてきめの細かい額が露わになった。風に背を向けるようにして到流の顔がこちらを向いた。前髪を下ろしているときと印象が違って、凛としたものを感じた。  少し寄せた眉根のすぐ下で、透き通った薄茶色の瞳が濡れ光った。まるで裸まで見てしまったような緊張が一気に走った。  と思った瞬間に、文雄は到流の肩を抱き寄せて、唇を重ねていた。 「……ん……」  唇の奥から弱々しい音が聞こえた。でも重ねただけでは自分の欲情は言うことを聞いてくれなかった。肩と腰に回した手に力を入れた。  舌でもつぶせそうなくらい柔らかい唇を吸いながら同時に舌を這わせた。到流の口元の緩みでその動揺が分かった。その抵抗しない遠慮のようなものが文雄を余計に駆り立てる。  唇の裏側と前歯を味わったら性欲の切っ先がやっと引っ込んでくれた。  開いたばかりの花びらのような唇をもう一度ゆっくり吸って口を離した。遠ざかる到流の頬が少し赤くなっていた。  到流の顔を見下ろしながら自然と口が開いた。 「可愛いんだよ、お前……」  到流は黙って文雄を見上げていた。潤んだ瞳を食べてしまいそうな自分が恐くて額と額をくっつけた。 「……ごめん、これも急だよな。嫌だった?」 「……ううん……」  額のつながり目が優しくよじれた。 「今日から呼び捨てにしていい?」 「うん」  また額に弱い振動が起こった。  文雄は黙って到流を抱きしめた。文雄の背中にそっと到流の手が添えられた。 「やっと出会えた……」 「うん……」  しばらく黙って抱きしめ合っていたが、気持ちをちゃんと注げられたと思ったので体を離した。  見つめ合うと苦しかった胸が少し楽になった。文雄は当然のように到流の手を握って、歩き出した。風が吹くと、到流が文雄にくっついてくる。文雄の腕の付け根に到流のこめかみがちょこんと柔らかい感触を与えてくる。  いくら田舎でも誰かが見ているかもしれない。高速道路からも見えるし、公道からはすぐの場所で、民家も広がっている。誰もいない砂浜で男同士で手をつないで歩いている。  到流が小柄で細身だとしても女性に間違われることはないだろう。 「到流の手、やっと温まってきたな」 「うん、中瀬さんの手ほんとあったかい」  変な噂が立つかもしれない。揶揄されるかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。悪口を言われるかもしれない。仕事に影響があるかもしれない。  それでも文雄はいいと思った。  見た目がタイプで、中身も好きで、守ってやりたいと自然と思えて、自分のことも好きになってくれている奴なら、ずっとこいつと一緒にいられるなら、それでいいと思った。  さざ波の音が聞こえて立ち止まった。何度も濡らされてはその色を濃くしながら、砂が削られている。小さな波がまた打ち寄せてその砂を元に戻している。  何度泣いただろうか。男が泣くなんてみっともないと思っていた。だから泣くときはいつも一人のときだった。  本当に愛せる人に出逢いたいと思いながら、それは決して到達できない地平線の向こうにあることだとずっと思っていた。泣いて鼻をすすってため息を吐いたら元通りの生活に戻って頑張っていたのに、またその哀しさが襲ってくる。何度も何度もそれは繰り返された。抵抗する間もなくいつも心の中にそれを戻されていた。  哀しさの波が止まることなんてずっとなかった。 「あれ」  到流が屈んで片手で何かを拾い上げた。見せてきたのは小さな貝殻だった。薄い桃色と薄い橙色を混ぜたような色だった。 「可愛いね」  到流の言葉が聞こえ、笑顔が目に入ったとき、もうあの苦しみは襲ってこないんだろうなと何となく思った。 「そうだな、可愛いな」  海の向こうの靄の中に微かに光っている太陽が見えた。 「今日の夕陽ってこの貝殻の色に似てない?」  到流はそう言って二人の前に小さな貝殻をかざした。 「どれどれ」  文雄は少し屈んで到流と高さを合わせた。顔を並べて片目を閉じて海の向こうの沈みかけた太陽と貝殻を見比べた。 「ほんとだ。同じ色」 「でしょ?」  片目をつぶったまま到流と見つめ合って笑い合った。  思わずキスをすると二人とも両目を閉じた。唇が離れると同時に目を開けて微笑み合った。  また一緒に海の向こうを見つめて、貝殻の色を感じていた。

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