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第6話 父との再会

 もっと吹けばいいのにと思っていた。  冷たくて強い風が吹けば吹くほど、文雄の体にくっつく言い訳ができた。甘える口実にできた。優しさを感じる機会にできた。たくましい腕に頬を寄せることを風のせいにできた。  冬の寒さがやっと好きになれた気がした。  文雄の大きな手に引っ張られながら、遠くに薄っすら見えている島に何があるのかを聞いていると、また風が吹いた。でも今度は違うものを運んで来た。  到流と文雄に白いビニール袋が飛んで来て、文雄が腕で到流をかばってくれた。こんなことでさえも二人の笑い声の素になった。 「大丈夫?」  文雄が笑顔のまま到流の顔を覗き込んで前髪についた砂を払ってくれた。 「大丈夫。中瀬さんも、ここ」  そう言って到流は文雄の腕についた砂を払った。 「サンキュ」 「うん」  また歩きかけたとき、文雄がこちらを向いた。 「そう言えばさ、俺たちが出会ったときも今みたいに白いメモが飛んで来たよね」 「ああ、そうだね。僕がホームからメモを落としちゃったから」  祖母から渡されたメモをホームで見つめているうちに風が吹いて手元を離れたのだ。 「あれ、住所っぽいのが書かれてたよね」 「あ、うん」 「何の住所だったの?」 「……まあ、大したことないよ」 「なにそれ。え、誰の住所? そういう言い方されるとめっちゃ気になるんだけど俺」 「……だって」 「なにそれ、なにそれ。言うまで永遠に手離さないけどいい?」 「ははは、やだ、もう」 「言って。誰の?」 「……父親の」 「……え、そういうことか。……なんかごめん」 「ううん。ばあちゃんに、ここに住んでるよってあの日の朝、渡されたんだ」 「……会わないの?」 「え? ううん、僕はいい」 「なんで?」 「なんでって……なんとなく」 「ふーん」  父親の事情はもう話しているが、あまり踏み込まれたくないことでもあるし、文雄に全てを見られたくない事柄でもある。  次の波が思ったよりも勢いがあって、二人の足元まであっという間にやって来た。靴が濡れる直前に、文雄が到流の肩を持って砂浜側にくるっと体を回してくれた。人形のように到流の体は簡単に動かされた。  文雄はそのままの位置だったので靴が波に濡れてしまった。 「中瀬さんも早くこっち」  到流が文雄を引っ張ろうとすると、文雄は動かなかった。 「え?」  到流はきょとんとして文雄を見上げた。文雄の顔は険しくなっていた。 「会わせてくれよ」 「え」 「到流のお父さんに」 「…………なっ」 「俺は会いたい」 「ちょ、ちょっと待って、八年間も僕も会ってないんだよ?」 「だから?」 「だからって、そんなこと急に言われても」 「会えばいいじゃんって言ったところで会わないでしょどうせ」 「そ、そんな、でも、向こうも僕に会いたくないかもしれないし」 「それはない」 「そうかな。会いに来て欲しいってお願いされたのに、僕は行かなかった、だから」 「お父さんは絶対に会いたいって思ってると思う」  到流は、つないでいる手を放した。 「……いいんだよ、今さら。どうせ家族としてはもう無理だから」  到流は立ち止まってうつむいた。 「今あのメモ持ってる?」 「え……っ」 「持ってる?」 「ま、一応」 「ほら、持ってんじゃん。どうせとか言うなよ」 「それは、緊急のときとか、なんかあったときのためで」 「見せて」 「やだよ」 「なんで見せてくれないの?」 「なんでって、無理矢理連れて行かれそうだし……」 「バレてたか。じゃ、俺が一人で行くわ」 「は……?」 「到流が行きたくないなら俺が一人で行ってあいさつしてくる。ならいいだろ?」 「そんなっ、向こうだって中瀬さんのこと知らないと思うし、なんかおかしいよ」  文雄は急に砂浜に座り込み、あぐらをかいた。その勢いで砂埃が舞い上がった。 「中瀬さん……?」 「そのメモ見せてくれるまでここから一歩も動かないから」 「中瀬さんっ、んもう」  文雄は海の方を見て黙っている。腕を引っ張ってもびくともしない。 「中瀬さん、そこまでしなくていいよ」 「する。お前も俺の親父と会ったし」 「中瀬さんの親子の関係とうちとは全然違うんだって。分かるでしょ?」 「同じだよ! 親子は親子だよ! ちょっとでも会いたいって思う気持ちがあって、ちょっとでも謝りたいって気持ちがあるなら絶対会うべきだって!」 「もう! そこまで心配してくれなくていいから! ほっといてよ!」  到流が感情的な声を出すと、文雄が腕を伸ばしてきて到流の腰を抱えて引っ張った。 「やめっ! えぇ、なにすっ!」  到流は文雄の股の間に尻もちをつき、横向きに寝かせられてしまった。 「ひゃっ、あ、なっ」  見上げると、文雄の射抜くような鋭い目が到流を睨んでいた。 「ほっとけねえんだよ!」 「……っ」 「俺はお前のこと絶対にほっとけねえんだって! どんなことにもウザいくらい関わりてえんだよ! ほっとけとか、そういうこと言うなよ!」 「中瀬さ……ん、っんん……ううっ」  文雄は荒々しく到流の唇を奪った。肩と腹部を強く抱き抱えられ、頭は文雄のたくましい二の腕に乗り、顔は口元に吸い付いた大きな口に動きを止められた。  波の音がだんだん静かになっていった。さっきまでうるさいくらいに砂を使って騒いでいたのに、今は波がその姿を消したかのように何も聞こえなくなった。  聞こえるのは、文雄の鼻息と口の中で舌が絡む音だけだった。  こんなにしつこく関わろうとする人は初めてだった。自分の家族のことをこんなに思ってくれる人も初めてで、こんなに強引に気持ちを押し込んでくる人も初めてだった。  大きくて温かい唇と舌が同時に動きながら到流の嫌がる気持ちを拭って吸い取っているようだった。強くされればされるほど、従いたくなる自分がいた。  大きな音を鳴らして唇が離れると、到流は自分の頬に涙が伝っていたことに気付いた。 「俺は……お前のことマジで好きなんだよ……寂しいこと言うなって」 「中瀬さん……僕も好き。ほっといてなんて、言って、ごめんなさい……」 「俺こそ大きな声出してごめん。でも、お前の問題は俺の問題だから。お前のお父さんは俺のお父さんでもあるって俺は思ってるから」 「…………」 「一人で抱えなくていいから。俺にもちゃんと背わせていいから。俺はそういうお前と一緒に生きて行くって決めたから」 「中瀬さん……」 「最初は一人で行きたいならそれでもいい。俺が会うのは次でもいい」 「……分かった……じゃ、一緒に来て……やっぱり一人じゃ恐い……」 「分かった、それなら付いて行ってやる」 「うん、でも、もし何かひどいこと言われても知らないよ、僕だって八年ぶりなんだし」 「分かってるよ、んなこと。逆にお前がもしひどいこと言われるような状況になったら守ってやるから」 「うん、それはほんと安心……正直、なんか言われたらどうしよって……八年前に会いに来て欲しいってお願いされたのに、無視したから、僕が」 「分かってるって、大丈夫。俺が横にいれば何があっても大丈夫」 「うん……」  文雄は到流の頬を指で拭ってくれた。  文雄はそのまま到流を抱き抱えたまま立ち上がろうとした。 「中瀬さん、僕歩くよ、え」 「だーめ。俺の大事なものだからこうする」 「や、ちょっと、なんかっ」  文雄は到流を抱き上げたまま歩いた。 「なんか?」 「なんか恥ずかしい……」 「俺から離れないようにしないと」 「離れないよ」 「本当か?」 「本当」  文雄が微笑んだので到流もつられて微笑んだ。  唇は、自然と重なった。 ◇◇  車で一時間半。カーナビのお陰もあって到流の父親の家には思っていたより早く着いた。  いてもいなくてもドライブになるからいいじゃん。  文雄はそう言って、到流の背中を押して、手を引いて今日を迎えた。  文雄の中にも単純な興味もあった。到流の親を見てみたい。どんな顔をしていてどんな背格好をしていて、どんな声でどんな仕草なのか。  到流と似ている部分を見つけられたらそれはそれでおもしろいと思った。自分の横で華奢な体で一生懸命に生きている到流の生きてきた歴史を見られるようで、はやる気持ちが湧き上がった。  砂利の道の両脇に平屋の家が並んでいた。歩くたびに石や砂が低い声を出した。ひびの入った壁が汚れていて小さな花壇にはいろんな種類の雑草がはみ出しながら生えていた。  玄関の周りを見る限り、人が住んでいるような気配はなかった。 「もう引っ越したかもしれないし、今日はもう」 「さすがにまだ引っ越さないだろ」  文雄はそう言ってベル式のインターホンを押した。思ったよりもボタンが固かった。  音は鳴るが反応はなかった。到流が肩を動かして大きく息を吐いた。  そのとき、ざく、ざくと低い音が聞こえたが、その音はすぐに止まった。文雄と到流はその音がした方を向いた。すると、ビニール袋を持った中年の男性がこちらを見たまま立ち尽くしていた。 「……ぁ……」  到流の小さなつぶやきが微かに聞こえた。 「到流か……」  中年男性はこちらに向かってそう言った。到流の表情が、中年男性が誰であるかを教えていた。 「まあ、入れよ。お友達さんもどうぞ」  到流の父親である田川政吉はそう言いながら引き戸の真ん中に鍵を射し入れた。 「ありがとうございます」  文雄がそう言うと、政吉は背中を向けたまま軽く頭を下げてくれた。到流はずっと俯いたままだった。  何もない部屋に置かれた座卓には未開封のカップラーメンが数個とつまみ菓子が乗っていた。奥の部屋には畳まれた布団と電気ストーブが置かれていた。  政吉と文雄はあぐらをかいて向き合った。どことなく到流と似ている部分もあるが、到流の目鼻の整い方はこの人のものではないと思った。もしかすると到流は母親似なのかもしれない。  到流を見ると、正座をして視線を落としていた。 「お宅さんは、お名前は?」 「自己紹介遅れてすいません、中瀬と言います」 「お友達とか同僚さんとかですか?」 「まあ、そんな感じです。仲良くさせてもらってます」  愛想笑いをした政吉は到流の方を見た。 「変わってないなぁ、高校生のときのまんまだな」  政吉が到流に話しかけたが、到流は俯いたまま何も答えなかった。 「到流、お父さんが聞いてるよ」  文雄がそう言っても到流は石のように固まって黙っていた。 「到流」 「中瀬さん、いいです、いいです」 「でも」 「いいんです。会いに来てくれただけでもいいんです。もう聞いてもらってると思うけど、いい別れ方してないんでね」  政吉は自嘲的に笑った。 「……お父さん……ごめん」  政吉の笑い声を鎮めるように到流の揺れた声が聞こえた。 「……あのとき会いに行かなくて、ごめんね」  到流の震えた顎と落ちる雫が見えた。 「お、お前が謝らなくていいよ、お前らに迷惑かけたのはこっちなんだから」 「……ずっと後悔してた。なんで会いに行かなかったんだろって。手紙くれてたのに」 「いいって、誰でもそうなるよ」 「八年も何もできなくて、ごめんなさい」 「……こっちこそ、お前らに取り返しのつかないことしまって、本当に申し訳ない……父親の資格ないことは分かってる」  政吉も声を詰まらせて顔を歪ませた。嗚咽を堪えるように下を向いた。  到流は涙を拭って顔を上げた。 「ううん、お父さんはお父さんだから。それは変わらないから」  政吉は下を向いたまま肩を震わせた。 「僕も本当は会うの恐かった……でも中瀬さんが教えてくれたんだ。親子なんだから会うべきだって。だから僕もそう思うことにした。あ、それと僕今、居酒屋と中瀬さんちの稼業の電機屋さんとかけもちで働いてるんだよ。ちゃんと頑張ってるから」 「……そうか……なら良かった」  政吉は声を詰まらせながら頷いた。 「それと、もう一つ話しておきたいことがあって」 「……なんだ」 「僕、中瀬さんと、付き合ってるんだ」 「え……?」  文雄は到流を見た。到流は、涙目ではあるが清々しい顔をしていた。  政吉は、到流と文雄を交互に見た。 「付き合うって、そのあれか、男同士でってやつか?」 「そう。同性愛ってこと」  政吉は視線を落とし、しばらくしてから口を開いた。 「そうか……分かった。話してくれて、ありがとう。お前が幸せならどんな形でもいいよ」 「ありがとう、お父さん。僕は幸せだよ。中瀬さんのお陰で幸せです」 「なら良かった」  政吉は文雄の方を向いた。 「中瀬さん、俺がこんなだから、どうか息子のこと、よろしくお願いします」  そう言って政吉は頭を下げた。 「いえ、こちらこそよろしくお願いします。到流君のことは俺が幸せにしますんで」  文雄も思わず頭を下げた。 「僕ね、今日中瀬さんが付いて来てくれるって言ってくれたときから、お父さんに紹介しようって思ってたんだ」  文雄は到流の気持ちが嬉しくて、小さく笑った。 「ずっとお幸せにな。陰ながら祈ってるから」  政吉はそう言って立ち上がって台所に向かった。 「お茶でも淹れるから、二人ともゆっくりしてて」 「ありがとうございます。ちょうど俺たちもお菓子とか買って来たんで」  と言って出しそびれていたコンビニの袋から買った物を取り出した。 「気使ってもらってどうも。さ、お茶淹れたら世間話でもしようか」  政吉は急に元気になって戸棚から緑茶の袋を取り出した。到流も急に笑顔になってチョコレートの袋を開け始めた。  二人を眺めていると、やっぱり親子だなと思った。それまでが辛くても、嬉しい出来事があるとすぐに切り替わって、素直に喜べる性格が同じかもしれない。  そう思うと、文雄は二人とも愛おしくなった。 「時々こうやって三人で集まって食事会とかいいっすよね?」  文雄が台所に向かってそう言った。 「え? ああ、二人がよければいつでもどうぞ」  政吉はそう言ってから遠慮気味に笑った。  文雄は、今日こうやって二人を再会させて良かったと心から思った。  横で笑っている到流の顔を見て、余計にそう思った。  後で思いっきり抱きしめるからな、と心でつぶやいた。

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