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――二ヶ月後。
那音はイギリスにあるレヴィの本邸にいた。小さな街の郊外にある小高い丘を上がり切った場所には、目を瞠るほどの広大な敷地。そこに建てられた豪邸の一画にある庭が見渡せるバルコニーで那音は一人、夜風に当たっていた。
何も遮る物のない空には眩いほどの星が輝き、ほんのりと満月があたりを照らしていた。
敷地内にある湖から流れてくる霧が綺麗に手入れされた庭を妖しく美しく見せている。
冷たい風が乱す髪を指先で払いながら左耳のピアスに触れてみた。
今は血のような赤色だ。それはまだ那音が人間である証拠なのだそうだ。その体が完全な魔物と化した時、ダイヤモンドは漆黒に変わる。
それも、もう間もなくのことだ。
「――那音様」
バルコニーへと出るガラス戸の向こうから聞こえた声に振り返ると、ノリスが心配そうな表情で立っていた。
「この辺は特に温度差がある場所です。夜風は体を冷やしますよ?」
「あ……すみません」
彼の心遣いに素直に従い、部屋の中に入ると冷え切っていた体を包む温度に驚いた。
暖炉には火は入っていないが、それほど外気との温度差があったことに今更ながら驚いた。
「間もなくお時間ですが……。大丈夫ですか?」
寸分の隙もなく着こなされた黒いスーツは健在で、左腕にはカシミヤのショールが掛けられている。
そのショールを那音の肩に掛けながら、優しく微笑む。
「大事なお体です。何かあってはレヴィ様に私が叱られます」
「大丈夫。――クシュンッ!」
言うそばからくしゃみをして、ノリスが困ったような顔をする。
純白のフロックコートに身を包み、襟元には大きなリボンタイが結ばれている。
乱れた栗色の髪を白い手袋の先で丁寧に直してくれるノリスにもう一度「大丈夫」と言ってから、大きく深呼吸をした。
「――いろいろ」
「え?」
「いろいろとご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」
恭しく頭を下げた那音にノリスは両手を振り、急いでその場に片膝をついた。
動揺したアーバンの瞳がかすかに潤んで見える。
「滅相もありません!私の方こそ那音様にはご迷惑をおかけしてしまって……」
彼は那音の右手をそっと持ち上げると甲にキスするように顔を近づけた。
「――この夜が明けたら、私はあなたの隷属。どうかノリスとお呼び下さいますか?」
那音は彼のブルーブラックの髪を見つめながらゆっくりと頷いた。
自分がこの場所に立つことを想像出来ただろうか。
白衣を着て、殺風景な白い部屋で調剤する――それだけの人生だと思っていた。
危険を伴う更生施設への薬剤の運搬を任されて、もしかしたらその施設で逃げ出したドラッガーに殺されていたかもしれない。
思い起こせばロクな仕事ではないな……と自分の進路を疎ましく感じた時もあった。
でも――。
「あなたにお仕え出来ることを幸せに思います。レヴィ様と共に……」
そう言って彼はすっと立ち上がると、那音の手を持ったまま歩き始める。
部屋を出て長い廊下を進み、いくつかの角を曲がった場所に大聖堂の入口が見えた。
かなり古いものではあるが荘厳な造りの建物で、しっかりと閉ざされたドアの前には黒いフロックコートを着たレヴィが立っていた。
「異種族はここに入ることは許されません。那音様、レヴィ様の元へ……」
那音の肩からショールを外し、そっと手を離したノリスは恭しく一礼すると、レヴィは満足げに頷いた。
優雅に手を伸ばして、歩み寄った那音の手を掴むと迷うことなく唇を重ねた。
豪華な刺繍が施された彼の衣装は銀色の髪と深い紫色の瞳をより鮮やかに見せ、那音にとっては安心感を覚える表情だ。
黒いレースの手袋を嵌めた手で引き寄せられると、上を見上げるような身長差に改めて吐息する。
「那音――愛して…いっ」
綺麗な唇が言いかけた言葉を那音の人差し指が素早く遮った。
そんな二人を見ていたノリスが目を見開いたまま動きを止めた。
「――終わったら。全部、終わってから……聞かせて」
まるで小悪魔のように笑った那音にレヴィも嬉しそうに目を細めた。
ノリスが安堵するのが分かる。どうやら那音の言動に一喜一憂するのはレヴィだけではなかったようだ。
そんな彼に小さく会釈して、那音はレヴィを見上げて微笑んだ。
「行きましょうか……」
レヴィは那音の手を握ったままドアの前に向かう。二人がドアの前に立った時、渋い音を立ててゆっくりと扉が開いていく。
聖堂内は闇よりも暗い。しかし那音は不安も恐怖も感じることはなかった。
(この手を握っているのは間違いなくレヴィだから……)
一瞬、気管が収縮ほどの冷気に驚きながらも、落ち着いた足取りで歩き始める。
強力な結界内に足を踏み入れたことを知る。
二人の背後で扉が閉まる音と共に、レヴィと那音の婚姻式が始まった。
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