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那音は大きなジュラルミンのケースを片手に、何度来ても殺風景な灰色のドアの前でインターホンを押した。
くぐもった声の応答ののち、カードキーを使って解錠するとゆっくりとドアノブを回す。
その中は外の殺伐とした風景とは全く違うインテリアで統一された明るい空間だった。
以前はベージュ色だった壁紙も淡いブルーに張り替えられている。
それは以前、この場所で起きた惨劇の痕跡を跡形もなく消すものだったが、那音は何度来ても背筋が冷たくなりあの時の情景を思い出してしまう。
「――東都総合病院薬剤部の奥山です」
受付カウンターの向こう側でにこやかに微笑む女性スタッフは以前ここにいた人とは違う。
いわく付きでも高額な自給に魅せられて、ここでのパートを選んだのだろう。
那音はわずかに頭を下げ、受付横にあるドアをノックした。
「失礼します……」
声をかけながら入ると、甘いジャスミンの香りが鼻をつく。
その香りの根源を探すべく、素早く部屋を見渡すと書類の積まれたデスクの向こう側にその人物はいた。
「こんにちは。ご依頼のあったお薬をお持ちいたしました」
那音の声に顔をあげた女性は、以前この場所で瀕死の重傷を負った中沢杏美だった。
椅子から立ち上がり、長い栗色の巻き髪を払いのけた。白いシャツに黒いスカートというシンプルなスタイルのせいか引き締まったウェストがより強調されている。
膝上のスカートからのぞく長い脚に、相変わらず赤いハイヒールは健在だ。
以前より色香が増して見えるのはおそらく――。
「あら、いらっしゃい!」
真っ赤な唇が妖艶に微笑む。以前の那音であればこの絶世とも言える美人科学者に見惚れていただろうが、今は少し状況が変わっている。
「――お元気そうですね。よかった……」
「あなたたちのおかげよ。まあ座って!コーヒーでも淹れるわ」
「ありがとうございます」
あらかじめ用意されていたコーヒーメーカーからカップに注ぎ、ミニキッチンからテーブルに運んだカップは一つだけだ。
「――まだ、慣れませんか?」
「そんなんじゃないんだけど。やっぱり味覚を感じられないものは体に入れている気がしないのよ」
綺麗に手入れされた指先を口元に当てて微笑む。
那音はカップを手にしながらずっと気になっていたことを切り出した。
「――後悔、していませんか?」
杏美は意外だと言うような顔で驚くと楽しそうに声をあげて笑った。
「してないわよ。しても仕方がない。これが私に与えられた罰だっていうのなら、それに従うほかないもの」
「まだ……気にしてるんですか?」
「――自分の快楽のために大勢の人を殺めたことは永遠に消えない罪よ。だから今、その罪を償うために生かされてる。そうじゃなきゃレヴィは私を助けなかったと思う。彼とは長い付き合い。そう、これからもね……」
目を細めて微笑む彼女に、那音はなぜかほっと胸をなで下ろした。
レヴィの血を体内に入れ、急激な変化に耐えられず眠ったままになっていた彼女の眠りを覚ましたのは、かくゆう那音の血だ。
だから今、彼女の体には始祖の血が二種類流れている。それは複雑に混ざり合い、彼女を生かしている。
「――綺麗になりましたね。杏美さん」
「そう?あなたには勝てないわ、プリンセス」
那音は恥ずかしくなってわずかに俯いた。やはりその呼び方は好きではない。
「俺はまだ人間ですよ?知っているじゃないですか」
ゆっくりと顔をあげて栗色の瞳で彼女を睨んだ。。
「それに……。その呼び方ははやめてください。俺はまだ……そんなんじゃ…ないしっ」
「あのレヴィがあなたにベタ惚れだものね。どんな人にも屈しない鉄壁の男があなたの前では跪いて許しを乞う。冷血なアルフォード公爵が変わったって一族の中ではちょっとしたセンセーショナルよ?」
「それじゃあ、まるで俺がフィクサーみたいじゃないですか」
那音は自分で言ってから思わず笑いがこみあげてきて、肩を揺らした。
「ミラードが失脚した今、正式にJ・イーストの約三分の二を手中に治めたわけだから、それなりに敵も多くなるわね。ま、穏和なダウエル家が紛争を仕掛けてくることはまずないから、今の統治政権に不満を持つ政治家たちが水面下で動くことはあるかもしれない。そうなれば、嫌でもあなたに矛先が向くわ。それは覚悟出来てる?」
杏美は小さく吐息しながら那音を心配そうに見つめた。
その色っぽい眼差しは、世の男性ならばすぐにでも押し倒したくなる衝動に駆られるだろう。
だが那音はやっとおさまった笑いに滲んだ涙を指先で拭いながら、「もちろんです」と明瞭に答えた。
「なんの承諾もなく婚約の証を刻まれたのは不本意だったと思いますが、今はレヴィと共に生きる覚悟は出来ています。人間の生を捨て、浅ましくも人間の血を糧に生きる魔物として永遠に生きること。糧を失えば己の体は朽ちていく。それはレヴィを見て分かっています。すべてを踏まえて俺は彼からのプロポーズを受けました」
その時のことを思い出しても頬が熱くなる。
レヴィにきちんとしたプロポーズをされたのは、杏美が目を覚ました翌日――二週間ほど前のことだ。
そして、すべてを聞いた。
古くから続くアルフォード公爵家だが公にされているのはイギリスでも類を見ない資産家で、あらゆる事業や貿易に介入し巨額の富を得ている……ということだ。そして、バンパイア一族の中でも隠されている秘密がある。
その実、アルフォード家は代々皇帝と同じく始祖の血を継ぐ名家であり、王家との関係は深い。
レヴィの父親であるセルディ・アルフォードは皇帝直属の機関総長として任命されていたが、彼亡きあとは公爵の称号と総長の座を息子であるレヴィに引き継いだのだという。
いわば皇族と親戚筋――しかもかなり濃い関係でなければ皇帝が信頼をおく総長には任命されない。
そのことを公にすればレヴィにも、そして皇帝にも危害が及ぶ可能性があったため、始祖の血を汲んでいることは極秘にされていたのだ。
歴史の古いただの資産家――と、一族の中でもそう浸透させている理由だ。
そんな彼と婚姻を結ぶには皇帝の許可と直属機関の承認が必要となる。その審議に多少時間がかかるため、レヴィとの婚姻は先延ばしにされているのだ。
却下されることはまずない。それは人間であっても那音のような特殊な血の持ち主であれば一族として快く迎え入れられると言う事が分かっているからだ。
そして、彼の邸のバルコニーで身体を包まれるように抱かれながら甘く囁かれた。
「改めて――。俺はこの身を懸けてお前を守り、永遠に愛する事を誓う。共に生きてくれるか?」
甘いバラの香りに包まれ、那音は頷く事しか出来なかった。
嬉しくて涙が零れたが、それはすぐに彼の唇に吸い取られ、かわりに優しいキスをもらった。
緩いウェーブのかかった銀色の髪が風に揺れ、宝石のような紫色の瞳が那音だけを映している。
本来の姿ではあるが、牙も爪も短いのは那音を傷つけないための配慮だとわかった。
両親を失って長い歳月、孤独に我慢強く生きてきた那音にとって頼れる存在がいること、愛される喜びに身を震わせた。
この時――いや、もしかしたらレヴィと出会った時からこの運命を受け入れる覚悟は出来ていたかもしれない。
急に黙り込んだ那音を心配してか、杏美が小首を傾げて覗き込んできた。
「――レヴィに酷いことされた、とか?」
慌てて首を振って否定し、飲みかけの冷めたコーヒーを一気に流し込んだ。
「長居してしまいましたね?すみません……」
受領伝票を渡し、サインを求めながら頭を下げると、杏美はくすぐったそうに笑った。
「これじゃあ、どっちがご主人様なのか分かんないわね」
そう言って細めた瞳は片方だけが紫色に変わっていた。
杏美の体にはレヴィと那音、二人の始祖の血が入っている。つまり二人にとって共通隷属になる。
その証として始祖の血統しか現れない紫色の瞳を片方だけ持つことになる。
能力も他の者に比べればかなり高く、とてもつい最近まで人間だったとは思えないほどすっかり馴染んでいる。
やはり素質が良ければ力も簡単に使いこなせるようだ。
「――その瞳。憧れます」
那音が少し寂し気に微笑みながら呟くと、杏美は受領書を渡しながら立ち上がった。
「主が隷属に憧れるって……。おかしな事を言うのね。――送りましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
カウンターに座る経理の女性に一礼して、那音は事務局をあとにした。
背後で灰色の重厚な鉄のドアが閉まる音を聞いて、クスリと肩をすくめながら笑った。
自分の信頼出来る人物がここにもいるという安心感。そして……レヴィと想いが通じ合ってもなお、まだ同じものになれない寂しさ。
毎晩のようにキスを交わし、抱き合って眠っても体を繋げることはなかった。
男でありながら未通の“処女”である那音は、たとえレヴィであろうとセックスすることが出来ない。
もしも那音が婚約の契約を交わす以前に、他の男性と性交したというのであればこの“掟”は無効となり、いつ何時でも伴侶となる者と繋がることが出来る。
純度の高い始祖の血を後世に残すために、同じ血統を持つ者同士に関しては古くからの”掟“に縛られてしまうのだ。
近親婚は人間であれば禁忌とされているが、魔族には血を守るために推奨される場合がある。
特にバンパイアは純血種と言われる始祖の血を持つ者が少ない。それ故に、血統を継ぐために那音は他の男性との性交はもちろんのこと、正式な婚姻を結ぶまではレヴィとのセックスも許されないのだ。
想いが通じれば体を繋げたくなるのは自然なことだろう。だが、それが出来ない今、那音だけでなくレヴィもまた苛立ちを隠せずにいる。
レヴィの肌の感触と温度を思い出して体が疼き始める。
ぎゅっと唇を噛んでそれを我慢しながら、施設の敷地を出てしばらく歩いたところでタクシーをひろった。
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