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深い深い沼の底から浮上するような感覚で浅くなっていく眠りのなかで、那音は自分に何度も問いかけた。 レヴィの甘い声がまだ耳の奥に残っている。 薄れていく意識の中での事でも、ハッキリと思い出すことが出来る。 首筋を噛む痛みになぜか安堵した。レヴィが自分の血を口にしてくれたことが素直に嬉しかった。 彼を生かしているのは自分だ。そして、彼と交わした契約が婚姻の約束だったことに驚き、同時に舞い上がるほどの幸せを感じた。 自分の思いを抑え込んだまま“隷属”として生かされると思い悩み、レヴィへの感情を雁字搦めに縛りつけていた。 そんな那音の想いがレヴィがくれた首筋へのキスで解き放たれた。 体が軽い。目を閉じていても分かるほどの眩暈も頭痛も感じない。 穏やかな呼吸を繰り返しながら、柔らかい感触の中で那音はゆっくりと目を開けた。 心地よい甘いバラの香りは間違いなくレヴィのものだ。 羽枕に沈んだ頭をゆっくりと横に向ける。 「――那音?」 もう一度目を閉じたら消えてしまうのではないか、幻なのではないか。 今、目の前には逢いたかった人がいる。最愛の――。 「レヴィ……?」 少しやつれた感じはするが妖艶な美貌はそのままで、宝石のような紫色の瞳でじっと見つめ返してくれる。 那音の頬にかかる乱れ髪を払いのけた手には黒い手袋が嵌められている。 見慣れていないせいで違和感を感じるが、上質な革で作られた柔らかいものだった。 その手をとり、自分の頬をすり寄せた。 「気分は――どうだ?」 「大丈夫……」 「奴らが採取した血液はすべてお前の体に戻した。それでも貧血が酷くて、あれから三日も眠ったままだった」 那音は後ろ手をついてゆっくりと体を起こすと、次第にはっきりしてくる視界に何度か瞬きを繰り返した。 薄暗い部屋は以前、那音が介抱された部屋だ。  体を起こした那音の背中にクッションを挟み込みながら、レヴィは体を支えてくれている。 「俺……病院。無断欠勤……」 栗色の髪をぐしゃりとかきあげて呟いた那音を、レヴィは腕を伸ばして肩を抱き寄せる。 そして首筋の痣に唇を寄せた。その心地良さに目を閉じる。 「安心しろ。お前ほどの薬剤師をそう易々とクビにさせるわけがないだろう……」 那音はわずかに視線をあげる。レヴィの銀色の髪が頬をなぞりくすぐったい。 彼はこの国を統治している権力者だ。一国民である那音を病院に引きとめておくぐらいのことは簡単なことなのだろう。 無職にならずに済んだとホッと胸をなで下ろしながら、レヴィが纏う甘い香りにうっとりと目を細めた。 「落ち着く……」 優しく背中を撫でる手袋越しの手がもどかしくて、レヴィの肩に手をかけて体を引き離すとその手を掴んだ。 「これ……イヤだ」 那音はレヴィの体温を直接感じていたかった。人間と違い体温が低いのは分かっているが、それでもその綺麗な指先で直接触れてほしい。 レヴィは少し困ったような表情を見せると、初めて那音から視線をそらした。 「――ごめん。俺、まだあの時のことが夢の中だったんじゃないかって思えて。でも霞んだ意識の中でレヴィの声だけはハッキリ聞こえた。――ねぇ、俺の勘違いだったらハッキリ言ってくれていいから!本当のことを今、知りたい。あなたと交わした契約は……」 レヴィに噛まれた首筋が甘く疼き始める。手で押さえたままその熱を逃がそうとするが、余計に体中を巡り吐く息さえも熱くなり始める。 彼はキュッと眉根を寄せると、黒い革の手袋をゆっくりと外した。 白い手首から甲、そして指先。すべてが見えた時那音は小さく息を呑んだ。 その手は骨と皮だけのまるで枯れ枝のような状態になっていた。長く伸びた爪も欠け、まったく生気が感じられない。 「これは……っ」 「永劫の時を生きる者の宿命だ。ミラードに使った力が体に負担をかけたようだ」 「レヴィ……!もしかして、俺の……せい、なのか?」 「いや。言っただろう?宿命だと……」 那音はその手を引き寄せると何度も唇を押し当てた。 ミイラのような手でも愛しい者には変わりはない。 「那音……」 「どうすれば……いい?レヴィは俺以外の血を口にすることが出来ないんだろう?だから――なのか?」 再び眉根をきつく寄せ、目を細めた彼は低い声で言った。 「――どうしてそれを?」 「ノリスさんに聞いた。でもまさか……あの契約が婚姻の約束だったなんて知らなくて」 言ってからはっと息を呑んだ那音だったが時すでに遅しとはこのことだった。一体何のためにノリスがレヴィに内緒で話したのか、バレてしまった今では全く意味をなさない。 それなのに、レヴィは「余計な事を」とため息交じりに呟きながらも唇を綻ばせた。 「――生死を彷徨うほどの貧血状態の人間から血をもらうほど俺は鬼畜じゃない。それがお前であれば尚更だ。お前が無事ならば、それでいい……」 自分を犠牲にしても守られていると感じた那音は、哀し気な目でレヴィを見つめると、着ていたシルクの寝間着のボタンに手をかけて一つずつ外していった。 驚いて黙って見守るレヴィをよそに、すべてを外し終えると襟元を大きく開けた。 そして困惑の表情を浮かべるレヴィに向けて、白い首筋をわずかに傾けた。 「俺はもう、平気……だから」 那音の言葉に目を見開いたレヴィだったが、何気なく顔をそらして、聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声でボソリと呟いた。 「――だけでは……なる」 「え?うわっ!」 聞き返す間もなく那音はベッドに押し倒されていた。 枯れ木のような手で那音の手首を掴んだまま、レヴィが上に覆いかぶさるようにして唇を重ねた。 「んんっ!」 突然のキスで上手く息が出来ない。酸素を求めてわずかに開いた唇の隙間から冷たい舌が滑りこんできた。 歯列をなぞり、逃げようとする那音の舌を追いかけるようにして絡ませてくると、むせ返るようなバラの香りが広がっていく。 レヴィがキスを深くすればするほど、その香りは甘く淫靡なものへと変わっていく。 「ぅう…んっ……っ」 経験が少ない那音に抗うことなど出来るはずもなく、レヴィの舌に翻弄され腰にも脚にも力が入らない。 ただただ心地よく、ずっとこうしていたいと思うだけだ。 銀色の糸を纏わせながら唇を離したレヴィは那音の首筋に舌を這わす。 噛まれた場所が熱く火照り、そこから全身へと毒が回るように痺れはじめる。 「ぁぁあ……はぁ…はぁ……っ」 耳朶を甘噛みされ、背中が反り返る。 ゾクゾクと襲い掛かる快感を掴もうと、那音の体もレヴィを求め始めていた。 「――誘ったのはお前だぞ?那音……」 「いやぁ……、レヴィ……っ…んぁあ」 「今の俺がお前の血を飲むだけで終われると思うのか?どれほどお前を欲し、どれほど愛しているか……。分からせてやるっ」 レヴィの硬く鋭い牙が那音の首筋の皮膚を破って食い込んでいく。 「あぁっ……」 背中がシーツから浮き上がるほど体をそらせ、深く穿たれた牙の熱さと快感に身を震わせた。 獣が獲物に食らいつくかのように激しく、啜りあげ、嚥下する喉の音が間近で聞こえ、その音でさえも那音の体を熱くさせていく。 那音の手首をしっかりと押さえこんでいた枯れ木のようなレヴィの手はいつしか元通りに戻っていた。 これが那音の血が持つ力なのだろう……。そこにはしなやかで美しいバンパイアの手があった。 長く伸びた爪も綺麗に研ぎ澄まされ、そっと触れただけでも傷ついてしまいそうな威力があった。 レヴィは、那音の恍惚の表情を見ながらゆっくりと焦らすように牙を引き抜くと、くっきりと浮き上がった赤い鎖の痣に何度もキスを繰り返した。 始祖の血を引く者に選ばれ、婚姻の約束を交わした花嫁にだけに出現する痣は、レヴィが那音を永遠に離さないと言う証だ。 しなやかな指先で赤く濡れた唇を拭う彼は、より妖艶さを増している。 「――戻った、の?」 息を荒らげて問うた那音に優しい微笑みで返すレヴィが再び唇を重ねようとした時だった。 部屋の入口のドアに気配を感じ、二人は訝しげに顔をあげた。 「――え~と。お取り込み中のところ申し訳ないが。ゴホンッ!――いつまで待たせる気だよ、レヴィ!」 ドア枠に凭れ、金色の髪を面倒くさそうにかきあげながら、イラついた表情を見せていたのはルークだった。 ――が、その姿に目を見開いた那音はレイの肩を押しのけるようにして上体を起こした。 「あ…、あなたはっ!え??ルーク……さん?あれ……ちょっと待って……??」 髪はラフに崩されているが、銀縁の眼鏡に白衣という出で立ちには見覚えがあった。 病院内で、そしてあの更生施設で会った医師だと思っていた人物と瓜二つだったからだ。 「お、元気そうじゃん!」 軽口を叩く彼は両手をポケットに入れたままニヤリと笑うと、ゆっくりした足取りでベッドに近づいた。 「病み上がりのところ非常に申し訳ないんだけど、レヴィを復活させたついでにもう一人、お前の血を分けてもらいたい人がいるんだけど……」 「え…?」 混乱する那音とは裏腹に、いい雰囲気をブチ壊され機嫌の悪いレヴィがルークを睨みながら小さく吐息した。 「――何度も言わせるな。その眼鏡はお前には似合ってない」 「うるさいなぁ!今の俺は医師としてここにいるんだから、那音の様子を見に行くと言ったきり戻って来ないお前にとやかく言われる筋合いはないのっ。俺が呼びに来なかったら、那音と致しちゃってただろ?病み上がりの彼を襲うなんて、どこまで鬼畜なんだよっ」 軽く舌打ちをしてベッドから下りたレヴィは、状況がつかめずに呆然としている那音の耳元に顔を近づけて囁いた。 「無理はしなくていい……」  そんなレヴィの声も今の那音には届いていなかった。  ずっと気になっていた医師がルークだと分かった今、那音はそっちの方にすべての意識を持っていかれてしまった。 「本当に……医師なんですか?東都総合病院の総務課であなたの事を聞いたんですが誰も知らないって……」 「あれ?もしかして疑われてる?」 レヴィはベッドの横に置かれたソファに掛けられた、那音のために用意されたガウンを手に取りながら、苦笑して見せる。 「――どの世界にそんなチャラい医師がいる?」 「レヴィ、お前まで不信感を煽るような事を言うなっ」 ルークは身を屈め、ベッドに座る那音と視線を合わせるとずいっと身を乗り出した。 眼鏡のレンズ越しに深海のような青い瞳が二回瞬きする。 近くで見れば見るほどその瞳は綺麗で、吸い込まれそうになって那音はハッと我に返った。 「信じるか信じないかはお前次第だけど、杏美を目覚めさせるにはお前の血が必要だってことは事実だ。極度の貧血を起こしていただけに完全な体調の回復が認められなければ延期せざるを得ない。――だが!この男とチチクリ合って、しかもコイツの貧血まで回復させたってことは、もう完全な状態にまで回復したと判断する。だから――今のお前には拒否権はないっ!」 キッパリと言い切られ、とても断われる雰囲気ではないことは分かっていた。しかし、何より気になったのは杏美の安否だ。ノリスの話では命は取り留め、今は眠っていると聞いている。 那音は真っ直ぐにルークを見つめると、唇を震わせながら言った。 「杏美さんは……本当に助かるんですか?」 その真剣な眼差しにさすがのルークも動揺したのか視線をそらして体を起こした。 金色の髪を落ち着きなく何度も撫でながら、苦笑いを繰り返す。 「まぁ、やってみなきゃ分かんないんだけどな。今はその方法しか思いつかない」 「もし……失敗、とかしたら?俺の血を使うとどうなるんですか?」 「おいっ、人聞きの悪いことを言うなよ。それに彼女を実験材料にする気はないから。ミラードと一緒にするなよ……」 「あ、いえ…、そうじゃ、なくて…。そもそも杏美さんが襲われたのって俺のせいなんですよね?だから罪悪感……というか罪の呵責に耐えられるのかなって」 それまで黙って二人の話を聞いていたレヴィが手にしたガウンをそっと那音の肩にかけた。 ふわりとバラの香りが舞い、まるで彼に抱きしめられているかのような温もりが感じられた。 「――大丈夫だ」 見上げたレヴィの顔は、絶対的な自信に充ち溢れた余裕のあるものだった。 裏社会を、この国を統べる覇者である彼が言うのであれば、それは間違ってはいないのだろう。 「ただ……」 ふと、何かを思い出したかのようにルークが言葉を切った。 「一つ大きな問題がある!レヴィが那音の血を杏美に提供することを承諾するか、否かだ。決定権はお前にある。杏美の命を取り留めたのはお前だからな」  ルークはレヴィを見つめて、その答えを導き出そうとした。だが、予想していたよりもあっさりと返答が得られた。  独占欲の強いレヴィのことだ。きっと那音の血を提供するとなれば、いろいろと難癖をつけてくるに違いないと思っていた矢先の事に、ルークは拍子抜けしてしまった。 レヴィは「全く問題ない」と、小さく首を左右に振った。 「――彼女は優秀な研究者だ。隷属として手元に置く事には何の不満はない。それに、那音の血を入れたからといって俺との関係性が変わるわけじゃない。那音の血は婚約者である俺のみを承認し受け入れる。他人に対しての恋愛感情的なものは一切感じないはずだ。ただ主と隷属いう忠実な主従関係が生まれるだけ」 「それって……どういうこと?」 那音はレヴィを見つめた。しかし、その答えを口にしたのはルークの方だった。 「人間があれだけの傷を負って大量出血して生きている事の方が奇跡だ。更生施設からここに連れて来た時はもう、呼吸もほぼ止まりかけてた。時間も選択の余地もない状況で、レヴィは自分の血を杏美に分けた。――ここまで言えばもう分かるだろう?杏美はもう人間じゃない。バンパイアの始祖の血は絶対だ……」 「杏美さんが……バンパイアに?」 「たとえ驚異的な治癒力を持ったレヴィの血であっても、人間からバンパイアへの急激な体の変化に体力がついていかず杏美は眠ったままだ。その細胞を目覚めさせるには那音、お前の特殊な血が必要だ」 「俺の……?」 那音は俯いたまま黙り込んだ。自分のせいで重症を負い、その果てには人間ではなくなってしまった彼女。 しかし、このまま眠らせておくわけにはいかない。彼女は優秀な研究者であり更生施設の所長だ。 セロンがばら撒いたドラッグはまだほとんどが回収されていない。だからドラッガーたちが増えるのは必至だ。 そんな彼らを救えるのは彼女しかいない。 那音はベッドに手をついてゆっくりと床に足を置いた。 長いガウンを肩にかけたまま、ルークを見上げて微笑んでみせた。 「あなたを有能な医師と信頼して、俺の血を預けます」 ルークは驚いたふうに目を見開いたが、すぐに満足げな笑みを湛えながら口角をあげた。 「お前がそう言ってくれるならレヴィも文句はないよな?――マジで転職考えようかなぁ」 レヴィが経営する高級ホストクラブの店長兼ナンバーワンホストとしての地位を揺るがす発言に、レヴィが片方の眉をあげて睨みつけた。 ルークは「やべっ」と小さく漏らしながら、何か言いたげなレヴィを無視するように那音の肩を抱くとドアへと向かった。 ふと言い忘れたことでもあったのか、足を止めて肩越しに振り返るとレヴィに言った。 「――心配するな。きっかり一時間後に、ここに送り届けてやるよ」 ルークの言葉に自嘲気味に笑って見せたレヴィは、ベッドに腰掛けると長い脚を組んだ。 「一時間だぞ……。一秒でも遅れたら許さないからな」 「はいはい。分かってるって!」 支配者然と言い放つレヴィにヒラヒラと片手を振ったルークは、那音の肩を抱き寄せると部屋をあとにした。

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