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周焔編(氷川編)1

「日本人か――?」  そう訊いてきたのは眼光鋭い怜悧な男だった。生まれ育った香港の地での出来事だ。  濡羽色の髪、黒曜石のような瞳、身にまとう服も全身墨一色で、おいそれとは近付けない――いや、近付いてはいけない雰囲気の男。わずか九歳にも満たなかったその時でさえ、それだけは本能で感じ取ることができた。 ◇    ◇    ◇  それから十二年――。  二十歳の誕生日を明日に控えたその日――雪吹冰(ふぶき ひょう)は東京都内にある巨大なビルディングを見上げながら大きな溜め息を漏らしていた。ここは汐留に林立する商業ビル群の中の一画だ。 「まさかこんなでけえビルだなんてよ……。あの(ひと)、ホントにここに居るんだろか――」  見上げる鋼鉄の壁は、その頂上が見えないくらいに天高くそびえ立っている。雲間に呑み込まれそうなそれは、今にもこちら側に倒れてくるんじゃないかというくらいの錯覚をも起こさせる。  幼き日に出会った”漆黒の男”に会う為に一人香港を離れ、ここまでやって来たわけだが、いざとなったら足が竦んでしまいそうだった。  そんな冰の頭上からはちょうど天心に差し掛かった太陽の日射しが、分厚い雲間を縫って、まるでスポットライトのように彼を照らし始めている。  午前中はどんよりと曇っていた天候が、時間を追うごとに刻一刻と変化する。  流れる雲は早く、入道雲を連想させそうなくらいにモコモコと膨らみを増していく。秋深くなったこの時期には珍しいことといえた。  風が撫でるのは、若い男にしてはキメの整った陶器のごとくなめらかな肌だ。顔周りを覆う絹糸のようなゆるい癖毛の髪が、その整った顔立ちを一層引き立てるようにフワフワと揺れている。  ビルの前で上を見上げたまま突っ立っているこの男を、通り過ぎるほぼすべての人々がチラリチラリと遠慮がちに窺っていく。真昼のビジネス街には不似合いなほどに目を引く容姿は、確かに美しいといえた。 「……ッ、ここで突っ立ってても埒があかねえ。こうなったら腹括るしかねっか……」  もったいなくも無造作にワサワサと髪を掻き上げる、そんな仕草のひとつさえ通りすがる誰の視線をも釘付けにしてしまう。気付いていないのは本人のみだろう。 「それ以前にどっから入ればいいのか、デカ過ぎてワケ分かんねえよ……」  ぼやきつつも、ビルを出入りする人の流れに従って視線をやれば、エントランスらしきを見つけて、冰はおずおず、そちらへと歩を向けた。 ◇    ◇    ◇

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