3 / 1208
漆黒の人3
その後、冰 は老人と共に生活するようになり、これまで通っていたインターナショナルスクールにも引き続き在籍することが叶った。一般校と違い、日本人も多いその学園は、費用の面で言えば少々贅沢ではあったのだが、大切な母国語を忘れてはいけないとの思いから老人が気遣ってくれた厚情だった。
傍から見ても仲睦まじい老人と冰 は、まさに血の繋がりを超えた固い絆で互いを思いやりながら暮らし、両親を失った哀しみも過ぎゆく月日とともに思い出へと変わっていった。
しばらくはそうして穏やかな日々が続き、当時の悪夢や傷もようやく癒えようとしていた頃、運命の出会いは訪れた。冰 らの住むアパートメントのすぐ近くでまたしても抗争が起き、今度は以前にも増す大惨事となってしまったのだ。先の――冰 の両親が巻き込まれた事件に絡んだ諍いの報復戦らしく、前回を遥かに上回る大抗争に発展したのだ。
冰 らが暮らしていたのは香港でも有数の繁華街だ。そんな中での銃撃戦は付近一帯を恐怖の渦に突き落とし、住んでいる者たちには無論のこと、観光客やら野次馬、マスコミに警察――と、辺りは再び蜂の巣を突いたような大騒ぎと相成った。
如何にチンピラ同士の揉め事とはいえ、二度も銃撃戦に至るまでの惨事に、事態を重く見た地元マフィアの幹部が鎮圧に乗り出してくることとなったのは、抗争が激化し掛かっていた最中のことだ。
そんなどさくさの中でのこと。冰 はまだほんの子供だったが、運悪くといおうか、一見して華のある見目の良い容姿に目を付けられ、チンピラ集団によって人身売買を目的に拉致されてしまうという不幸に見舞われた。
黄 老人は身を盾にしてなりふり構わず冰 を守ろうと応戦したが、その甲斐も虚しく、家は荒らされ怪我まで負わされてしまった。あわや連れ去られそうになった冰 を間一髪で救い出したのが漆黒を身にまとった怜悧な男だった――というわけだ。
なんと、彼は抗争鎮圧の為に出向いて来た香港マフィア頭領 の息子だったのだ。
[こんな小っせえガキを売り飛ばそうなんざ、クズ以下だな]
彼はそう言ってチンピラ連中の手から冰 を取り戻した。そして、恐怖の為か真っ蒼になって震える冰 の前で屈むと、『怖い思いをさせたな。すまなかった』そう言って謝ったのだった。
冰 は動揺の中にあって、広東語と日本語が入り混じった言葉で取り留めのないことを叫びながら泣き崩れてしまっていた。九歳の少年にとっては当然だろう。その様を見て、男は呟いた。
「日本人か――?」
それはまさしく日本語だった。冰 にとって、愛する両親が日常の中で使っていた大切な言語だ。生まれ育った異国の地にあろうとも、本能でそれが自らの母国語だと認識されたのだろう。冰 はそのひと言で泣き止むと、おそるおそる男を見上げながら訊いたのだった。
「お……兄ちゃん、誰? 日本の人……なの?」
そのやり取りを目にしていた黄 老人が、慌てたようにして飛んで来ては、冰 を抱き寄せながら男に向かって頭を垂れた。
[申し訳ございません、周大人 ――! 口の聞き方も分からぬ子供ですので、どうかご容赦ください。お助けいただいて……何と御礼を申し上げてよいか……本当にすみません!]
床に擦り付けん勢いで頭を下げる黄 老人を横目に、男が訊いた。
[こいつはあんたの子供か?]
[い、いいえ――。この子は私の隣に住んでいた子供でして]
[隣だと? 親はどうした]
[は――! この子の親は……亡くなりまして]
[亡くなった? 病か何かでか?]
[……いえ、その……。この子の両親は先日この辺りで起きた抗争に巻き込まれまして……不運にも二人共同時に……]
老人の説明に、男はハタと瞳を見開くと、わずかながら眉根を寄せた。先のチンピラ同士の諍いが原因だと悟ったのだろう。直接は関係しておらずとも、今回同様自分たちファミリーの息の掛かった者らが起こした不始末の結果に違いはない。
男は静かに詫びの言葉を口にした。
ともだちにシェアしよう!