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周焔編(氷川編)8

[突然押し掛けた失礼をお許しください]  すると、李は少々驚いたようにわずか瞳を見開いたが、受付嬢らは面食らったように固まってしまったのが気配で分かった。やはり彼女らに広東語は分からないのだろう。冰にとってはこれ幸いである。別段聞かれて困ることもないが、聞く耳を持たない相手に敢えて聞かせてこじらせることもない。冰は広東語のまま李という人物に用件を告げることにした。 [自分は雪吹冰(ふぶき ひょう)と申します。周焔(ジォウ イェン)さんにお世話になっている者です]  李はその名に聞き覚えがあったのか、更に驚いたように目を見張ると、すぐに広東語で応じてよこした。 [――では(ウォン)氏のご子息の……] [黄をご存知なのですか?] [――失礼。申し遅れました。私は(ジォウ)の秘書をしております(リー)と申します] [あ、はい、初めまして。実はその黄が亡くなりまして……。周大人にはたいへんお世話になっていると聞きました。それで、どうしても一目お会いして御礼を申し上げたくて伺いました]  李はひどく驚いたようだった。 [――亡くなられたのですか?] [ええ。息を引き取る間際にこれまでのことを聞きまして] [少しお待ちください]  李は言うと、懐から携帯電話を取り出して通話を始めた。おそらく相手は漆黒の男、周焔なのだろう。丁寧な話し方で、たった今冰が告げた内容を伝えているようだった。むろん広東語でだ。  すると、その様子を窺っていた受付嬢の女が小声でこう言った。 「内緒話だなんて、卑怯なことするのね。外国語で喋るなんて、私たちには言葉が通じないからってバカにしてるのかしら? ほんっと……クズ!」  広東語でのやり取りが気に入らなかったのだろう。と同時に、通話中の李には聞こえないと思ったらしく、冰に向かってきつい眼差しで言い放った。 [お待たせ致しました。ご案内致します]  通話を終えた李は冰に向かって丁寧に頭を下げると共に、女に向かってひと言、 「それがお客様に対する態度か? キミは今日はもう上がっていい。それから――のちほど配置換えの辞令が下ると思っておくように」  今度は日本語でそう言い、怜悧に一瞥(いちべつ)をくれると、すぐに(きびす)を返して冰に道を譲るべく今一度腰を折って深々とお辞儀をしてみせた。  驚いたのは女だ。配置換えと聞いて、受付嬢をクビになると悟ったのだろう。 「待ってください、李さん!」  冰に放った嫌味が聞こえてしまったと思った女の顔色は真っ青になっていた。焦った声を裏返して縋ったが、李はもう彼女を振り返ることはなかった。  エレベーターが閉まると、 [只今は弊社の者がたいへん失礼を致しました。どうかご容赦ください]  またしても深々と頭を垂れる。 [いえ……そんな……] [周がお目に掛かります]  エレベーターはペントハウスで止まった。

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