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周焔編(氷川編)44

「や、ちょ……っ、待っ……!」  残された冰は慌てふためく――などというどころではない。 「おいー、どーすんだよー……代わりに出とけってったって……そんな」  相手が周の恋人だったらと思うと、息が止まりそうだった。だがしかし、そんなことを言っている場合でもない。コールは鳴り続けている。緊急かも知れない。  冰は自分にそう言い聞かせると、覚悟を決めたように画面の応答をスワイプしたのだった。 「はい……もしもし」  きっと相手も驚くことだろう。  いったいどんな声の女性なのだろう。  それ以前に彼女にはこの状況を何と説明すべきか。自己紹介はどうすべきかなどと、次から次へと浮かんできて頭の中は軽いパニック状態だ。緊張も緊張、ド緊張といった冰の耳元に聞こえてきたのは―― 『よう! 遅くに悪ィな』  なんと男の声だった。  思わず拍子抜けさせられてしまう。すぐには返答の言葉さえ出てこないほどだった。 『もしもーし! 氷川ー? まさかもう寝てたってかー?』  画面の向こうでは男の声が暢気そうに話し掛けてくる。 「あの……氷川は今、風呂に入ってまして! 出たらかけ直すとのことです!」  直立不動の人形のごとくそう言った冰に、相手の男は一瞬言葉をとめたようだが、すぐにワクワクとした声音を返してきた。 『――もしかして冰君か?』 「え……!?」 『冰君だろ? 氷川ンところの! いやぁ、やっと会えたじゃん! つか、会えたとは言わねっか。俺、一之宮紫月(いちのみや しづき)! 氷川のダチだ』 「……ダチ……さんですか?」  香港育ちの冰には聞き慣れない言葉だったのだろう。電話の向こうからは楽しそうな笑い声がこう返してきた。 『ああ、そっか。キミ、香港から来たんだったな。ダチってのは友達って意味な。氷川からキミの話はよく聞いてるもんで、初めての気がしねえなぁ』  紫月という男はフレンドリーな調子で続けた。 『そういえばさ、この前はありがとな! 俺ンとこにケーキ届けてくれようとしてたんだってな! 俺、あそこのラウンジの、大好物でさ』 「ケーキ……」  冰は思わず「あ……!」と、声を上げてしまった。  周があの日に買っていたケーキはこの男の為だったのか。しかも、そのケーキを自分が届けると言ったことまで知っているということは――周が彼にそう伝えたというわけだろうか。 『わざわざ俺ン為にケーキを届けてくれるって、冰君の方から言い出してくれたんだってな? 氷川が――どうだ、イイヤツだろう――ってめちゃくちゃ自慢するもんでさぁ』 「自慢……ですか?」 『そう! 最近は会えばキミの話ばっかりだぜ。すげえ可愛い性質なんだとか、今日はどこで何食ったとかさ。もうノロけられちまって、こちとらたいへんよ!』 「はぁ……」 『――のワリには、なかなか会わせてくれようとしねえしさ。あんま独占欲の強え男は嫌われるぜって言ってやってんだけどな。だから今日は電話ででもキミと話せてすっげラッキーだったぜー』  紫月という男はいかにも楽しげに言いながら笑った。

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