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厄介な依頼人54

 紫月にしてみれば、特にこの徳永という男が印象に残っていたわけではないのだが、裏社会に生きる鐘崎の伴侶という立場上、一度会った相手の顔立ちや特徴を自然と記憶してしまうのが習慣となっている。まあ、鐘崎ほど切れ者ではないにしろ、いつ何時どんな事態に転がるやも知れないこの世界では、会った人物や行った場所の情報をどれだけ脳裏に蓄積しておけるかが生死を握る鍵となることも有り得るわけである。  そんな理由であの時あの場にいたこの男のことも記憶していただけなのだが、当の男にとっては紫月に覚えていてもらえたということが何より嬉しかったのだろう。感激の面持ちで、今にも泣きそうな勢いで興奮しているのがよくよく見てとれる感じだった。 「で、お前さん、いったいここで何してるんだ?」  紫月が尋ねると、男はこれまた皆が目を剥くようなことを口にした。 「俺、姐さんに惚れました! この前の廃墟でのあなた様の采配に感激しまして、これからの人生、このお人の側で働きたいと思い参上した次第です! 便所掃除でも草むしりでも何でもします! どうか俺をここに置いてください!」  男の言うには、あの時はいい金になるバイトがあるからと学生時代からの友人に誘われて、よく事の詳細を知らないままに頭数の一人に加わっただけなのだそうだ。当然、三崎繭とは何の面識もなかったらしい。暇つぶしに出向いただけだったのだが、そこで紫月に出会い、感銘を受けて、彼がここ鐘崎組の姐だと知り出向いて来たらしい。 「はぁ……。まあ、話向きは分かったが。お前さん、ここがどういうところか知ってて来てるのか?」  紫月が訊くと、男は『もちろん存じてます!』と胸を張った。 「俺、こちら様の組のことについてはめちゃくちゃ調べました! ヤ、ヤクザさんってことも承知してます!」 「ヤクザさん……って、お前ねぇ」  まあ、正確にいうと少々意味合いは違うのだが、世間一般的にはそういう解釈となるのだろう。 「自分の親もこちら様のお名前は知っていましたし、自分がここで働きたいっていうこともちゃんと伝えて理解してもらって来ました! 俺はその……取り立てて何ができるってわけでもないですが、体力だけは自信があります。本当に姐さんに惚れたんです! お願いします、この通りです!」  あまりに必死な様子に紫月はもちろんのこと、清水や若い衆らも唖然である。さて、どうしたものかと顔を見合わせていると、後方から重々しい声がこう言った。 「聞き捨てならねえことをほざいてるのは何処のどいつだ」  ともすれば地鳴りのするような圧を伴ったバリトンボイスに皆が振り返れば、そこには眉間に皺を寄せた鐘崎が般若のような形相で仁王立ちしていた。 「わ、若……ッ!」  皆がいっせいに背筋を伸ばして表情を強張らせる。どうやら紫月よりも少し遅れてやって来た鐘崎の耳に、男が言った『姐さんに惚れました』という部分だけが聞こえてしまったようである。

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