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周焔の東京好日2

 幸い黄老人は今なお健在の様子で、万が一という事態になっていないのは喜ばしいことであり、ただ李には自らの主人の心の内を思えば、少しばかり切なく感じてしまうのもまた確かなのであった。 「次の春節には――訪ねてみようかと思っている」 「……! ではお会いになられるのですね?」 「ああ。親父やお前たちの助力のお陰で仕事の方も軌道に乗せることができた。黄のじいさんもいい加減高齢だろうからな。たまには直に顔を見てくるのもいいだろう」 「そうでございますか! きっとあの少年……いえ、今はもう青年ですね。彼も喜ばれることでしょう」 「さあ、どうだかな。坊主がまだ俺を覚えていてくれればだがな」  周は微苦笑するが、その表情は穏やかで、早く春節にならないかと待ち遠しい思いが滲んでいるように感じられる。  いつの日か、彼がこの部屋に住まう時が訪れるだろうか。雪吹冰という名にちなんで白で揃えられたカーテンや調度品の数々が、午後の陽射しに照らし出されてやわらかな佇まいを見せている。まるで淡雪のようなやさしい青年に早く使って欲しいと待ち焦がれているかのようだ。 「よし、それじゃ今宵はお前たちの厚意に甘えるとするか。で、どこで飯を食うつもりだ?」  ずっと窓の向こうに香港を思っていたのだろう周がくるりとこちらを向いて笑顔を浮かべる。 「はい、老板のお好きな香港料理の店を予約してございます」 「そうか。いつもすまない」 「いえ、私共こそお付き合いいただけて光栄です」  そっと白い部屋の扉を閉めれば、いつもと変わらぬ日常が戻ってくる。  この数日後、香港の風が運んでくる嬉しい再会の瞬間がもうすぐそこまで迫っていることを、この時の周はまだ知らずにいたのだった。  そして運命のその日――。  午後の社長室でパソコンに向かっていた周は、卓上の携帯電話が震える様子に視線をやった。相手は側近の李からである。 『老板、今よろしいでしょうか』 「ああ、李か。今夜の会食の件で急ぎのメールが一件あるが、構わん。何かあったのか?」  李とはつい先程まで一緒にいて、昼食を共にしたばかりである。同じ社内の――しかも扉一枚を隔てて隣の部屋にいるはずの彼からわざわざ携帯に連絡が入ることも珍しいので、そう訊いたのだ。 『私は今ロビーにいるのですが、実は香港から黄氏のご子息の雪吹冰様が訪ねていらしております。黄氏がお亡くなりになられたそうで、雪吹様がこれまでの老板のご助力に御礼を申し上げたいと』  それを聞いた瞬間に、周の漆黒の瞳がみるみると大きく見開かれた。 「――! 分かった。すぐに通してくれ」 『かしこまりました!』  次第に早く脈打ち出した心拍数を鎮めるように急ぎのメールの返信を打ち込む。  ほどなくして開かれた扉の向こうに立派に成長した青年の姿を目にすると同時に、書き終えたメールの送信ボタンを押す。 「周焔だ。よく訪ねてくれた」  デスクから立ち上がる周の背中を秋の傾き出した陽射しがやわらかに照らし出す。  遠きかの日に見た橙色の夕陽が鮮やかに脳裏に蘇る。  白く輝く雲を染め上げて、二つが一つに溶け合っていったあの日に感じた哀愁が懐かしく胸を締め付ける。  初めて出会ったその日から十二年の時を経て――今まさに、運命の歯車が噛み合わさろうとしていた。 周焔の東京好日 - FIN -

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