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漆黒の記憶23
ただの情事では冰を裏切ることになろう。だが金でカタがつけられるひと時であれば、気持ちの上では裏切りとまではならないのではという里恵子の思いであった。
「ありがとうよ里恵子。言い辛えことだろうに、女のお前さんにまでそんな心配をさせちまってすまねえと思っている。だが本当に大丈夫だ。正直なところガキになっちまったあいつと過ごすのは新鮮といえるし、別の意味で満たされているからな。お前さんと森崎の気持ちは本当に有り難えと思っている」
「周さん……そうね。何て言ったって冰ちゃんが側にいてあなたを慕っているんですもの。お節介なことを考えちゃったけど許してね。もしも冰ちゃんさえ良ければ、気晴らしにいつでも遊びに来てくれると嬉しいわ。お店でなくても私たちの家の方でも大歓迎よ!」
「そうだな。じゃあその内言葉に甘えさせてもらう」
周は礼の気持ちを穏やかな笑みに代えると店を後にし、愛しい伴侶が待つ部屋へと帰って行ったのだった。
冰にとっての衝撃といえる事件が起こったのはそれから数日後のことだった。
いつものように午後から周の社長室へ手伝いに顔を出した時だ。どうやら来客中だったようで、次の間となっている応接スペースの方から話し声が聞こえてきたので、冰は邪魔にならないように出直そうと踵を返した。
ところが、部屋を出て行こうとしたまさにその時、どうにも気に掛かるひと言が聞こえてきてしまって、思わず歩が止まってしまったのだ。話しているのは周と、相手は女性のようだった。
「あなたに大切な奥様がいらっしゃるのは承知していますわ。でもご事情があってしばらくお会いになれないとか……。アタクシならば秘密は固く守らせていただきますし、お商売の上と割り切った関係で構いませんの。どうか考えてくださらない?」
若い女性の声がはっきりとした口調でそう告げる。子供の目線であっても彼女の話ぶりから相当に自信があるのだろう雰囲気が窺えた。
「どこでそんな話を聞いてきたか知らんが、あんたの言うような事実はねえな。要件がそれだけならお引き取り願おうか」
心なしか周の声音も剣を帯びていて、いつものやさしい感じとは違う。冰は次第に高鳴り出す心臓を抑えながら、その場に固まってしまった。
問答は続く。
「あら、ごまかそうとしたって無駄ですわ。だってアタクシ聞いてしまったんですもの」
「――何を?」
「あなたがこの間の晩、里恵子ママとVIPルームでお話しなさっていたことをですわ。偶然通り掛かった際に少しですけど聞こえてしまったの」
ということは、この女は里恵子の店のホステスということか。周にとっては店にどんな女性が勤めているかなど気にも留めていなかった為、見覚えはないといったところであった。
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