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三千世界に極道の華62
「田辺の野郎、まーたサボってやがる!」
「ああ、例の女だろう? このところ毎日のように訪ねて来ちゃ、裏木戸の陰でイチャイチャしやがって! 真っ昼間だってのに逢引きしてやがるんだ。仕事も放っぽっていい気なもんだぜ」
「まあここは常夜だからな。いくら昼も夜もねえと言ったって、夕方になりゃ外界からの客も来て立て込むってのによー。四郎兵衛の親父さんも何であんな使えねえヤツを雇ったんだか!」
ここの者たちは主人の伊三郎のことを四郎兵衛と呼んでいる。江戸吉原の時代に会所を束ねていた時のままに彼を尊敬し、慕っているという証であろう。
「何でも知り合いに頼まれたとかで、半ば強引に押し付けられたらしいぜ。そうでもなきゃうちの親父さんがあんなヤツを雇うかっての!」
男たちはこの地下施設ができるずっと以前から三浦屋に勤めていた者たちらしい。主人の伊三郎と一緒に花街での仕事に誇りと生き甲斐を持ってやってきたそうだ。その彼らによると、最近になって新しく入ったという男がしょっちゅう女と逢引きをしていて、仕事もサボってばかりだというのだ。名を田辺というらしい。
春日野や源次郎らのことは花魁付きの下男であるし、主人からも一目置かれているという認識でいるらしく、少し尋ねたところいろいろと事情を話してくれたというのだ。
「田辺か……。その男は普段はどんな役目に就いているんだ?」
源次郎が訊く。
「ええ、何でも食材や着物などの他、細々とした必需品を業者から受け取ったりする雑務を担当しているそうです。当初は掃除などを主にやらせていたそうですが、いい加減でとても任せられないということで、荷の受け取りくらいならと配置換えさせられたそうですが……。そんな男にもちゃんと女がいるっていうのが不思議だと、皆さんも呆れていらっしゃいました」
「女か……。ひょっとすると、その女ってのは敵からの指示を田辺というヤツに伝える伝達役の可能性もあるな。今日も女が来ていたのか?」
「ええ。まさに今、店の裏手の塀のところで逢引き中です。よろしければ自分が女の後を付けてみようと思うのですが」
女が敵方へ帰れば黒で決まりというわけだ。
「そうだな――。任せてもいいか?」
「はい、もちろん!」
「橘の話じゃ、敵のいる界隈はあまり治安が良くないということだ。くれぐれも気を付けて、深追いせずに戻ってくれ」
「承知しました」
「私の方は田辺というヤツの周辺を洗ってみる。他にもまだ敵からのスパイが入り込んでいるかも知れんからな」
「兄さんもお気を付けて」
こうして春日野は田辺を訪ねて来た女の後を付けることとなったのだった。
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