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三千世界に極道の華72
「な、何するんだい! お放し……!」
女はジタバタともがいたが、男の腕の中に抱え込まれては思うようにはならない。頬と頬とがくっ付くほどの近距離で見上げた男の面立ちは、昼間見た若い男を渋くしたような男前である。整った眼差しを細めて穏やかに笑む彼の胸元からは、うっすらと立ち上る仄かないい匂いが感じられて、女はいみじくも染まった頬を隠さんとそっぽを向いてみせた。
「蓉子さんよ、女将になる目前だったってのに、どうしてあんたはこの地下世界で遊女をしている? 何があったか詳しく聞かせて欲しいんだがな」
僚一は周らと別れた後で、すぐにこの酔芙蓉という女について調べを進めていたのだ。それによると、彼女は元々千束にある高級料亭で中居をしていたのだが、熱心な仕事ぶりと美しい器量を買われて女将に抜擢されたものの、どういうわけかその直後に姿を消してしまい、行方知れずとなっている蓉子という女だということが分かった。
料亭芙蓉といえば、政界の大物や有名俳優などもお忍びで使うという老舗中の老舗だ。浅草が近いことから芸妓たちも頻繁に出入りしていて、宴の後の秘密裏の接客もなされているという暗黙の了解の店としても有名であった。いわばクラブのアフターと同じで、芸妓たちを斡旋したりもするというわけだ。そこの女将を務めるには、それ相応の度量がなければならないことは自ずと想像がつく。客の秘密を厳守するのは鉄壁の掟であり、酸いも甘いも熟知したプロでなければ到底務まるものではない。
「料亭芙蓉の女将にまで抜擢されたあんたがどんな理由でここに来たのか興味があるんでな。良ければ話しちゃくれねえか?」
女も僚一が根っからの悪人ではないと踏んだのか、はたまた彼の渋い男前ぶりに魅せられたのかは定かでないが、これまでの警戒心を解いたかのように落ち着いた素振りでじっと見つめてよこした。
「わ、分かったよ……。あんたもなるほどプロってのは嘘じゃないようだね。確かにアタイは芙蓉の女将に抜擢された女さ……。でも……女将になった途端に運悪くアタイを後押ししてくれてた男が失脚しちまったのさ」
「失脚だと? するとお前さんに肩入れしてたってのは政治家かなにかか?」
「ふん……、あんたに嘘はつけないようだね。その通りさ。賄賂がバレるなんてヘマをするような人じゃなかったってのに」
女は僚一に素性を言い当てられたことで一種認めるところがあったのか、素直にこれまでの経緯を話し出した。
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