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慟哭3

『一之宮紫月さん?』 「――え?」  聞こえてきたのは何とも感じの悪いふてくされたような声音だ。変声器とまではいかないが、くぐもった感じからすると布か何かで口を押さえて地の声をごまかしているといった印象だった。性別は女性と思われるが、声の高い男かも知れない。しかもわざわざ一之宮という旧姓で呼び掛けてくる。自治会の相談などではない――紫月は咄嗟にそう理解した。 「どなたかな? どういったご用でしょう?」  旧姓を知っているということは、ある程度こちらの素性を把握している者に違いない。だがしかし、それがどこの誰かまでは思い付かないままで紫月は緊張を抱き締めた。 『あなたのご主人を預かってるの。彼の命が惜しければ、今から言う所に一人で来てちょうだい』 「――――!?」  拉致――か。  そう判断する。  鐘崎は朝から依頼の仕事で幹部の清水を従えて出掛けている。父の僚一も海外ではなかったが、一週間ほど前から依頼の仕事で大阪へ行ったきりだ。 『いい? よく聞いてちょうだい! あなた以外の他の誰かにこのことを話せば、ご主人の命は保証しない。組の人だろうが誰だろうが、ひと言でも他言したら即お陀仏よ。彼を助けたければあなた一人で来ることね』  話ぶりからするとやはり女の可能性が高いか――声の主はもう二つ三つ条件らしきを付け加えてよこした。  それは、鐘崎自身の携帯電話などに確認を入れないこと。  組員の誰にも怪しまれずに家を出てくること。  絶対に他言しないこと――であった。  つまり、これが偽の脅迫なのか、実際に鐘崎が拉致に遭っているのかなどを確かめてはならないということだった。 『あなたも一応極道の端くれでしょうから、まさか警察になんか通報しないとは思うけどね。あなた以外の誰かが少しでも動いたり、おかしな素振りをすれば彼の命はないわ』  相手は証拠を見せると言って、メールアドレスを訊いてきた。  組で公に使っているアドレスを告げると、すぐに一枚の画像が届く。開くとそこには鐘崎の姿ではなく、爆弾の機器のようなものが写し出されていた。 『それ、何か分かる?』 「……爆弾――か」 『そう。あなたが少しでも妙な行動をすれば、それが爆発して彼は死ぬわよ』  解ったらすぐに言う通りにしなさいと言って通話は切られた。  指定された場所は港にある倉庫街のひとつだ。 「――は、参ったね。どこまでホントか知れねえが、単なる脅しってわけでもなさそうか……」  あなたが少しでも妙な行動をすれば彼が爆弾で吹っ飛ぶ――ということは、どこからかこの邸が見張られている可能性が高い。敵の正体も定かではない。  源次郎は邸に居るし、相談することも可能だが、万が一にも盗聴などされていないとも限らない。この邸内では常に盗聴器や監視カメラのような代物が仕掛けられていないかの探査を怠っておらず、そういった警備の点では万全を期しているつもりだ。それでも万が一ということも視野に入れなければならない。  おそらくこれは罠だ――頭の中では分かっていた。  だが、行くしかない。  紫月は組事務所の若い衆らに自治会へ出掛けてくると明るく言い残して、指定された倉庫街へと向かったのだった。

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