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第1話

 季節は秋。高校に入学して早六ヵ月が過ぎた。体育祭も文化祭も終了して三年生は本格的に受験シーズンに突入し、夏には青々と茂っていた庭の木々も今は茶色い枯葉を足元にどっさり積もらせている。この四限目が終わるまであと十分少々。窓の外を見ていた男子高生、千早伊依は持っていたシャープペンシルを置いて机に突っ伏した。  中学のころに比べ圧倒的に難しくなった勉強は、もう半ばあきらめかけている。今教師が説明している十分条件だか必要条件だかというのも、ほぼ理解不能だ。  中学まではそれなりに勉強も得意な方で、一応公立の進学校であるこの高校に進むことができた。しかし、高校に入ってからというもの、目標の志望校合格が実現してしまった所為か、特に将来の夢など持っていない千早のやる気は一気に降下している。世にいう五月病のような無気力さからどうにも抜け切れない。そうして季節行事だけはしっかり盛り上がり、勉強から逃げ続けて、今に至る。  だが、勉強をしない理由はそれだけではない。  千早も最近の高校生らしく、少しは遊びもする。中学の間だって結構モテていたし、彼女も片手の数ぐらいは経験があった。そんな千早が高校に入学して新しくできた恋人の存在は、まだ誰にも公言していない。人には言えない秘密の恋だからだ。  新しくできた恋人は、ものすごく頭がいい。そして、そんな人間にはありがちではあるが、とてもオクテだ。だから、千早がこうして質問事項を作っていないと一緒に勉強すらできない。馬鹿げていると思うかもしれないが、結構本気で悩んでいたりするのだ。少しでも一緒にいたいし、できれば会話もしていたい。勉強ができないということは、それらを全て効率的にクリアできる最善策だと、千早は思っている。 (ま、そんなの勉強しない言い訳に聞こえるか)  そんなことを思って、ふう、と一度息をつく。今度こそ眠りにおちてしまおうと目をつぶると、その直後。 「じゃあ、今日はここまで」  授業終了のチャイムが鳴って、学級委員が号令をかける。タイミングの悪さに多少むっとしたが、のろのろと立ち上がって半端な礼をする。途端、教室の中がざわざわと騒がしくなった。束の間の休憩。昼休みがきたからだ。 「千早!」 「うわっ」  後ろからがっしりと肩を掴まれ驚いて後ろを振り返ると、そこには中学からの友人である林と松野がいた。 「昼どうするよ?」 「俺らは購買行ってパン買うけど、お前は?」  持ち掛けられたのは昼食の話だった。千早も、今日は昼食を用意していない。 「俺も行く!」  笑顔でそう言うと、二人は短いいらえを返してから教室の出口に向かって歩き出す。千早もついていこうとしたが、ふと耳に慣れた声が聞こえてきた。 「奥田さん、手伝おうか?」 「え、いいの?」  声の主を探してみると、すぐに見つかった。教卓付近に立つ、背の高い男子高生。髪は黒く襟足が長い。太い黒縁の眼鏡をかけているため、顔の印象は「眼鏡」だけで終わってしまいそうだ。身に着けている既製品のYシャツとセーターも体に合っていない。体格の割に手足の長い彼は、袖の長さを合わせるために少し大ぶりの服を着ている。そのために服は全体的にだぶついていて、かなりだらしなく見えるのだ。だが、見た目よりスタイルも顔も悪くない、むしろ他の人より良いくらいだということは千早がよく知っている。一見、野暮そうに見える彼こそが千早の恋人──小原優吾だ。クラスからの評価は「無口なお人よし」。なんといっても、小原は本当に誰に対しても優しいのだ。女子が荷物運びに苦労していたら代わってあげるし、道端で重そうな買い物袋を提げたお年寄りを見つければ、家まで送ってあげる。挙句の果てには、迷子になっていた子供の家を一緒に探してあげたことまである。絵に描いたような親切さだ。ガラの悪そうな男子からは良いように利用されたりしているようだが、ほとんどのクラスメイトは小原を別段意識していない。見た目から受ける印象も大事なようで、背は高いが全くぱっとしない青年には皆一様に興味を示さない。だから、特別な好意を向ける者も今のところ現れない。ただ一人、千早を除いては。 (いつでもどこでも優しいんだよな。それに、マメだし。器用だし。……かっこいいし)  皆それに気づいていないだけなのだ。そう心の中で呟くけれど、同時に誰も気づいてくれるなと願うから自分は結構性質が悪いなと思う。  本当に、あんなことさえなければ千早だって気づかなかったかもしれない。 ──大丈夫、ですか?  先ほど奥田に掛けた声より、もう少し緊張を孕んでいた。少し低めで、優しくて、心地いい声。 「ちーはーや! 早くっ」 「えっ? あぁ、ごめん!」  もうとっくに廊下に出て待っていた林が、少し不機嫌な声をあげた。思い出に浸っていた千早は、はっとして出口へ向かう途中も、やはり小原を横目で見てしまう。 (やば、見惚れてた)  熱くなりかけた片頬を右手で覆って、小さく嘆息する。林も松野も好みのパンが売り切れてしまうのではないかと焦っているようで、千早の変化には気づいていない。良かった、と一人胸をなでおろし、千早も二人に続いて購買へ向かった。

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