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第2話

小原と千早が出会ったあの日は、からりと晴れた初夏の日だった。  入学してまだ1ヶ月と半月ほど。千早は入学してからそれまで毎日自転車で通学していたのだが、中学に入りたてのころから使用していたそれは、先日タイヤがパンクして乗ることができなくなってしまった。普通に市販しているようなシルバーの自転車で特に気に入ったスタイルというわけではなかったのだが、もう三年も乗りこなしていると愛着が湧いていて買い替えには気が進まなかった。だから、わざわざ自転車販売店に修理を依頼したのだ。  そんな経緯があって、千早は修理期間の一週間ほど、家の近くから出ているバスで通学することになった。  その日は良く晴れていた。空は雲一つなく真っ青で、ブレザーを着るには少々暑い天気だった。午前中に行われた講習会は予定より十五分延長して終了し、生徒はそれぞれ帰途についた……のだが、千早だけはそれができなかった。  講習会終了後、すぐさま千早は英語の教師に捕まった。入学当初からサボり続けていた課題を清算しろと言われたのだ。林も松野も──今現在はともかく――そのころはしっかり課題を提出していたために、一人だけ教室で居残りを行う事になった。その時点でもう昼食を逃したも同然で、腹を空かせた千早は二時間かけて必死で課題を終わらせた。  空腹と疲労感を抱えて帰り支度を始めて数分後、千早は鞄の中に財布が無いことに気付いた。 「あれっ?……確か、朝ここに入れて──」  呟いて、すぐに思い出した。今朝急いでバスに飛び乗って学校の前で降りた直後、焦っていた千早はスクールバッグを取り落した。そして中身を派手にぶちまけてしまったのだ。多分その時に財布を道に置いてきてしまったのだろう。 「あー……、どうしよ」  朝に落した財布がまだ同じ場所にあるだろうか。望みはごく薄いが、取りあえず探してみようと思い、準備する手を早めた。ふと時計を見ると、バスの時間はもう五分後に迫っていた。 「やばっ!」  鞄をひったくるように手にして、教室を出た。誰もいないのをいいことに廊下を必死で走る。一年生の教室は一階だが、昇降口からは学校で一番遠いところにある。その途中には角も多いので、それ程スピードが出せるわけでもなく、結構な時間がかかってしまった。息が上がって苦しくなったが、どうにか下駄箱までたどり着いた。息を少し整えてスニーカーを履くと、またすぐに走り出す。昇降口のドアを開け、外の階段を一気に駆け下りた、その直後。ぶちり、と鈍い音がして足がもつれ、転びそうになった。数歩よろけたが体制を整え、何が起こったのかと足元を見ると、右足のスニーカーの紐が見事なまでに切れていた。 「うわ、これ気に入ってたのに!」  ふらりと入った店で見つけたスニーカーの紐は、ほとんど衝動買いだった。黒地に紫のボーダー柄で、白地のスニーカーにぴったりだったのだ。ものすごく大きな後悔が胸を占めるが、今はそんなことを気にしている暇はない。 「そ、そうだ。バス!」  はっとしてまた走り出すが、締め付けの無くなったスニーカーでは走りにくい。走っているというより早歩きしていると言えそうなスピードで、やっと学校の敷地を出ると、バスが走る通りが見えた。 (まだ来るなよ)  通りまではあと三十メートルほどある。お願いだからまだ通り過ぎてくれるな、と祈って足を速める。しかし、紐の切れたスニーカーではままならず、もういっそ脱いでしまおうかと逡巡したとき。 「あっ」  十数メートル目の前を、バスが通り過ぎて行った。慌てて走って通りに出てみると、誰もいなかったバス停を通り過ぎて、ぐんぐんと遠ざかって行くのが見えた。 「……うそだろぉ」  トボトボと歩いてバス停まで行く。途方に暮れてバスの過ぎた方向を見つめるが、突っ立っていても状況は何も変わらない。ふと財布のことを思い出してベンチの下を探すが、周辺を見回しても、やはり朝落したはずの財布は跡形もなくなっていた。  体から全部の力が抜けたように、どさりとベンチに腰を下ろす。鞄を隣に置いて、深く溜息をつきながら右足を抱えた。  朝から財布は落とす、講習後には教師に捕まる、昼食は食べ逃す、お気に入りのスニーカーの紐は切れる、挙句の果てには乗るはずだったバスが目の前を通過していった。 「……ついてねぇ」  呟いて、膝に顎を乗せる。土曜日で休日ダイヤが適用されるため、バスは少なくともあと三十分は来ないはずだ。  本当に不運続きだ。ついていない。フラストレーションがどうしようもなく体の中に溜まっていて、吐き出したくて仕方ない。イライラしながらベンチをひとつ、強く叩いた。その直後だった。ざり、と砂を踏むような音がして顔を上げると、そこには背の高い、黒縁の眼鏡をかけた男子高生が立っていた。走ったおかげで一層暑く感じていた千早は、そこに立っていた生徒がブレザーを着ていたことに神経を逆なでされた。 (暑苦しいよ。何コイツ)  髪は襟足がYシャツの襟に届くくらいで、前髪は眼鏡にかかっていた。それがいっそううざったく見える。千早は彼を頭から足まで眺めてから目をそらした。 (……っていうか、もしかしてコイツもバス乗り遅れ?)  次のバスが来るまであと三十分。その間ずっとこの男とこの場所で止まっていなければならないのだろうか。 (最悪だ)  不運はこんなところまで続くのか。千早はまた長い溜息をついて、今度は両足とも抱えた。膝に顔を埋めてじっとしていると、隣に立っていた彼がベンチに座ったのがわかった。また一層不快感が煽られる。目をぎゅっときつく瞑ると、自然と眉間に皺が寄った。 (あー……。バス代どうしよ)  急いでいてそこまで頭が回らなかった。財布はこの場所にはもう落ちていなかったし、バスに乗ったとして運賃を払う術がない。 (なんかもう、どうでもいい)  バスなんか乗らないで気分が晴れるまでここでじっとしていたっていい。空腹は既に限界を超えていて、最早食欲すら失せた。家まで歩く気力すらなくなって、どうやって帰るかなどと考えるのも億劫だ。もう何もかもどうでもいい、どうにでもなれ、と半ば本気で考えていると、いきなり隣の生徒が口を開いた。 「大丈夫、ですか?」 「……え?」  思っていたよりも、なめらかな心地いい声だった。少し低めで小さなその声は、イライラとささくれ立った千早の心をするりと撫でた。 「いや、あの……なんか、困ってる? みたい、だし」 「……あぁ」  声の主を見ると、おどおどとした様子で視線もうろうろと泳いでいる。先ほどから態度の悪かった千早に警戒しているのだろう。 (つか、そんなビビるなら声かけんなよ)  自分がびくつくくらいなら事情なんか聞かなければ良いものを、と思いつつ、千早はあいまいないらえを返した。 「ん、まあ……ちょっと色々あってさ」 「色々?」 「あー……、まあ、初対面のやつに話すことでもねえしさ」  男子生徒が反復のように聞き返してくるので、すこし驚きながらもやっぱりはぐらかすことに決めた。まさか、初対面で今日一日の不運を打ち明けるわけにもいかず、ましてバス代を借りるわけにはいかない。暗に放っておいてくれと言っただけだったが、男子生徒は苦笑いを返してきた。 「あー……、えっと」 「……何?」  相手が口ごもるので、千早は不思議になってその生徒を覗き込む。彼は一度ちらりと視線を合わせたあと、またすぐにうろうろと泳がせた。なんだかどこかで見たことがある顔かもしれない、と千早は思った。そして、もしやどこかで会ったことがあるか、と問おうとしたとき。 「同じ、クラスなんだけど」 「えっ」  まさか、と思って声をあげる。きっとどこかですれ違ったとか、もしくは少し会話をしたとか、そんな程度だと思っていた。しかし、クラスメイトとなれば話は別だ。一ヵ月半も一緒に生活していながら、まだ顔も覚えていなかったとは。千早は愕然とした。 「うわ、ごめん。俺、覚えてなかった」 「いや、全然、気にしてないよ。おれ、影うすいし」  素直に打ち明けると、彼は別段傷ついた様子もなく、淡々と答えた。その慣れた表情に一瞬驚いた千早は、そう、と呟いて黙るしかなかった。  しばらく、二人の間に沈黙が流れた。気まずくて目をそらしていると、視線の端の方で彼が大きく深呼吸をするのが見えた。 (なんだろ……緊張、してんのか?)  そういえば、先ほどから流れる沈黙の中に微かな緊張感が漂っている気がする。千早は不運続きでテンションが下がっていたために、心の中は割と穏やかだ。しかし、目の前の彼はそうでもないらしい。なんとなく声を発し辛い状況になってしまった。 「……あの、さ」 「……なに?」  張りつめた空気の中、千早はなるべく静かに声を出した。空気に穏やかさが滲んで、隣にいる彼は肩からふっと力を抜いた。それを見て、千早はさらに続ける。 「名前とか、教えてくんない? 俺、マジで覚えてないっぽくてさ」 「あ、うん」  わざと明るめに声を出すと、彼はふっと息をついた後、快い返事をしてくれた。それを聞いて、なんだか足を上げているのも悪いと思い、しっかりと足を地面につけてベンチに腰かけた体制で、彼の方に向き直った。 (うわ……なんだ、コイツ結構美形?)  間近で見ると睫毛が長いのが分かる。それから、眉も自然ないい形になっているし、肌も綺麗だ。唇も少し肉厚で形が良い。 (つか、なんで俺、男の顔観察してんのよ)  目の前の男子生徒の顔を思わず隅々まで凝視してしまった千早は、呆れとも自嘲ともつかない息をついた。 「ええと、おれは……小原優吾、です」 「小原か、よろしく。俺、千早伊依」  お互いに名前を言い合って、変な空気が流れてしまったので、小さくお辞儀をした。不運続きで何もかもどうでもいいと思っていたのに、いきなり現れたクラスメイトとお互い自己紹介をし合って、礼儀正しくもお辞儀までしてしまっている。いきなりの状況変化にやっと頭がついてきたらしい。冷静に物事を振り返ってみると、いきなり可笑しくなってきた。 「ふ、はは。ははははっ」 「……?」  いきなり吹き出した千早に驚いたのか、小原が顔を上げる。そのまま笑いの収まらない千早の顔を覗き込んで、よく分からないとでもいうように眉間に皺を寄せた。 「ええと……」 「ああ、ごめん、ごめん。はは……あー、なんかすっきりしたわ」  腹筋がまだひくひくと動いている。余程ツボにはまってしまったらしい。千早はうっすらと目尻に浮かんだ涙をセーターの袖で拭って、ふう、と大きく息をついた。そして、異様にすっきりとした気分のまま、言葉が勝手に口から零れだしていた。 「俺、今朝財布落したんだよね」 「えっ」  小原が目を見開いて驚くから、また笑ってしまった。気分がだんだんと浮上してきて、千早は話を続けた。 「さっき帰りの支度するまで全然気づかなくてさ。やばい、と思ったらバス出る五分前くらいで。すげえ急いでたら靴の紐切れちゃって」  ほら、と右足を上げてみせるとまじまじと靴を見てくる。反応がなんだか面白くて、また口角が上がった。足を下ろしてベンチの背にもたれかかると、小原も同じように背を預けた。 「それでも走ってここまで来たんだけど、目の前、バスが通り過ぎて行って。バス停探しても財布はないし、バスも休日ダイヤだからすぐには来ないし。おまけに今まで居残りだったから飯も食ってねえしさあ……ついてねえわ、ほんと」  一通り話し終わって長く息をつくと、先ほどまでささくれ立っていた心が嘘だったかのようにすっきりしていた。小原はずっと、軽く相槌を打ちながら聞いてくれていて、そのお蔭もあったのかもしれない。 (見た目はアレだけど……小原って結構いいやつじゃん)  先ほどまでイラついてた相手だったが、見た目だけで偏見を持っていたらしい。ちょっと申し訳ないなと思いつつ小原を見ると、視線に気づいたのかこちらを見遣った。 「大変だったね」 「え……ああ、うん。まあ」  かけられた言葉が予想以上に甘い響きだったので、すこしどきりとした。そう感じた自分にも驚いて、千早は曖昧な返事をしてしまった。 「あ、財布ないってことは……バス代は」 「ああ、いや……うん。そういうこと」  ここまで言って隠すのも良くないと思い、正直に白状した。この年になって一銭もお金を持っていないだなんて少し恥ずかしいけれど、この状況ならもう何を言っても大丈夫な気がした。  すると、今までおどおどとしていた小原が千早を真っ直ぐ見て、心配そうに言った。 「バス代、貸す?」 「え……けど、悪いし」 「でも、無いと帰れないだろ?」  千早は口を噤む。小原の言うことは事実だし、もちろん貸してもらえたら千早だって助かる。しかし、たった今自己紹介も終わったばかりの、ほとんど初対面と言っても良いようなクラスメイトに、愚痴まで聞いてもらった挙句にバス代まで借りることはできないだろう。 「……ええと」  どうしよう、と本気で悩んでいると、小原はその間に財布を鞄から出していた。 「ちょ、小原っ」 「えっと……いくら?」  財布を開いてこちらを見てくる小原は、至極真面目らしい。 (コイツ、超お人よし……)  クラスメイトとは言え、お金が戻ってくる保障などない。しかも、今まで話したこともなかったわけだから、多分普段一緒に行動しているグループも全く違うのだろう。しかも、バス停に着いた直後の千早は本当にイライラしていて、かなり態度も悪かった。小原も少なからず千早に警戒心を持っていて、怖がっていたはずだ。 (なのに、ちょっと話しただけでさらっと『バス代貸す?』とか……。俺がほんとに性質の悪い不良とかだったらどうするつもりだよ)  頭でぐるぐると考えていると、また変な緊張感を孕んだ空気が流れてしまった。会話も途切れて、話もしづらい。 「えっと……」  内心かなり冷や汗をかきつつ、躊躇の相槌をかろうじて打つ。けれど、他に何を話せばいいのか欠片も思いつかない。  焦って、もうほとんどパニックになっていると、微かにバスの走る音が聞こえてきた。 「あ……」 「バス、来た」  小さく近づき始めたバスを見て、二人とも鞄を持って立ち上がる。それは同時に、もう考える時間がほとんどないことを表していた。 (やっぱり、悪いから歩いて帰るとでも言えば──)  千早の家はここから歩いても二時間ほどかかる場所にあるのだが、どうしても帰れないというわけではないし、もともとが自転車通学なので道も分かる。  もうそう言って断ってしまおうと思った時、目の前にバスが止まった。今だ、と決心して口を開きかけた。 「やっぱ俺──」 「千早、このバス?」 「へ?」  逆に質問されて、出鼻を完全に挫かれた。一瞬頭が真っ白になってしまったが、どうにかこくこくと首を縦に振る。 (え、いや……そうじゃなくっ)  千早は、はっと気づいて本来口に出そうとした言葉をもう一度復唱しようとした。 「あの、小原、俺──」 「お客さん、乗らないんですかー」  怠そうな運転手の声が、ドア脇のスピーカーから流れてくる。千早の声はそれでかき消されて、またも小原に届かない。それでも千早は諦めずに小原に話し掛けた。 「小原、俺、大丈夫だから!」 「え、でも……ああ、もう!」  何度かバスの入り口と千早の顔を交互に見て、小原は焦れたように少し大きな声を出した。  いきなり小原が出したその声に千早は少し驚いて、一瞬ひるんだ。そしてその隙に。 「う、わっ」  右手を掴まれて、すごい力で引き上げられた。数歩よろけて体制を崩し、小原のブレザーにつかまる。すると、空気の抜ける音がして、バスのドアが閉まった。その音にはっとしたときには、千早はもうバスの中にいた。 「え……え?」 「……ごめん、乱暴して」  バスが走り出して、弾みで近くにあった椅子に腰かける。小原も隣に腰かけてきて、照れたように首元に手を当てて少し乱れた髪の襟足を梳いた。  時間が経つにつれ、だんだんと状況が呑み込めてくる。不自然に掴まれたままだった右手は、気づいた小原がゆっくりと離した。 「どっか、痛くしなかった?」 「いや、全然、大丈夫……。つか、お前唐突すぎ……」  小原はまた小さくごめん、と呟いて下を向いた。幸い、昼間の田舎のバスには乗客もおらず、堂々と話ができた。 「乗っちゃったじゃん」 「だって……千早、このままだと、歩いて帰るとか、言い出しそうだったし」  ぼそぼそと小原が呟くことは、かなり図星だった。先ほどまでまさに、そのことを言おうとしていたのだ。 (分かってたのか)  だから、多少強引でも、と自分をバスに引き上げたのか。  千早はなんだか急に恥ずかしくなって、小原から目をそらした。そして、ぶっきらぼうに呟いた。 「……バス代、貸して?」 「……うん」  いいよ、と小さく小原が呟いて、千早の心を全部見透かしているような、穏やかな笑みを浮かべた。千早はそれがなぜか少し嬉しくて、それでも照れ隠しに少し意地悪なことを言った。 「……返ってくるか、分かんねえぞ」 「はは、返してもらえないのは、ちょっと困るなあ」  初めて小原が素直に笑ったのを見たとき、千早はきゅっと胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 (いい顔して笑うじゃん)  それから千早の降りるバス停に着くまで、小原は何も喋らなかった。でも、ずっと唇に微笑みをのせて、穏やかな雰囲気で隣にいたのだった。
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