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第3話
そんな出来事があったあと、千早は小原をなんとなく意識し始めた。教室や体育館、帰り道などに見かけても、小原はあの日バスで見せたような笑顔は一度もしていなくて、千早はそれが少し寂しいと同時に、嬉しかった。誰も知らない、小原の笑顔を見たことがあるのは自分だけだと、小さく優越感を覚えていたからだ。その代わり、誰に対しても小原は優しくて、千早はそんなところに小さく嫉妬した。
(別に、俺じゃなくても小原は優しいんだよな)
その事実が小さな棘のように胸をチクチクと刺して、数週間、千早は不機嫌なままだった。
そうして心が居心地の悪いまま、ある日の放課後、小原と教室で鉢合わせてしまった。そのときも、小原は掃除当番が忘れていた黒板消しの掃除をしていて、千早はもう、我慢ができなかったのだ。
──そういうの、もう、やめたら。
自分でも信じられないくらい冷たい声が出て、千早自身も驚いた。だが、小原はもっと驚いたようで、目を丸くしたまま千早を見つめた。
──……どういう、意味?
──あの……だから、えっと……。
何も考えずに口に出した所為か、次の言葉がどうしても見つからなかった。夕日のオレンジに照らされた小原の顔と生徒用の机を交互に見つつ、言葉を探す。焦れば焦るほど言葉はかき消されていくようで、千早は黙って唇を噛みしめるしかできない。
──なんでも、言って。おれ、聞いてるから。
掃除中だった小原は用具を全て置いて、正面からこちらを向く。いっそう、何か口に出さなくてはという気持ちが強くなり、心臓が早鐘を打った。
(俺……、俺は……)
あまり回りの良くない頭を必死で使って、口に出す言葉を作った。うろうろと視線を彷徨わせていると、いつの間にか近くに来ていた小原が、頭に右手を置いた。
──な、に。
──まとまってなくて、いいよ。なんでも、言いたいこと言って。
人に触れることに慣れていない手が、優しく頭を撫でる。それだけで胸に刺さったままだった棘が抜けていくようで、焦った心が落ち着いた。そして、知らぬ間に口から言葉が零れていた。
──小原は、誰にでも優しいんだって、気づいて。
あの日のように、小さく相槌を打ちながら、小原は話を聞いてくれる。
──なんか……それがすごく、むかつくっていうか……嫌、で。
今度は暖かい感情が心臓を動かしているのがわかった。心臓は先ほどと同じように早いスピードで脈を打っていて、なのに感情だけは焦るでもなく、混乱するでもなく、高ぶっている。
(なんか、これって……)
──俺……そういう意味で、お前のこと好きみたい。
言った瞬間、顔が赤くなって恥ずかしかった。頭を撫でていた手も止まってしまって、小原の顔が見られない。口に出してみて、やっと腑に落ちた。すとん、と心の中にその言葉が落ち着いたように感じた。
(俺……小原のこと、好きなんだ)
それからしばらく、小原は何も喋らなかった。返事がないことにだんだんと不安が増していって、千早は考えるより先に口走っていた。
──ごめん、いきなりこんなこと言われても……き、気持ち悪いよな。別に、ダメなら断ってくれて、全然いいから!
頭の上にあった小原の手が、離れていって、心臓をぎゅっと掴まれた気がした。一瞬で頬から表情が抜け落ちて、冷水を頭から掛けられたような気分になった。
(ああ、やっちゃった……)
体から力が抜けていって、机に手をつこうとしたとき、急にその手を掴まれた。
──え……?
顔を上げると、小原があの日のような笑顔を浮かべていた。
──……千早も、人と話すとき、いつも笑顔だよね。おれだけじゃ無いんだなって、思ったよ。
一緒だね、と笑った小原はオレンジ色の夕日に染められて、すごく綺麗だった。心臓が一度大きく跳ねて、千早は一瞬、本当に息が止まった。
──小原……? そんな風に言うと……俺、都合良く考えちゃうよ……?
──うん。いいよ。
笑顔でこくりと頷いた小原は、どうかしていたと思う。普通、同性の同級生にそんなことを言われて、あっさり了承するのはおかしい。だけど、その時の千早はもうそんなことどうでもいいと思ってしまうほど、舞い上がっていたのも事実だった。
その日から千早と小原は世にいう「恋人同士」になった。今まで、クラスのいわゆる「チャラい」グループに属していた千早は、当然真面目で一匹狼の小原としょっちゅう一緒に居ることなど叶わず、放課後待ち合わせをして一緒に帰るのが限界だった。それでも、そんな少しの時間を利用して、この肌寒い季節になるまで、必死でお互いの距離を縮めてきた。恋人になってすぐ、千早は小原を「優吾」と呼ぶようになった。そちらの方が、何となく小原に近しい者である気がしたからだ。夏には小原と勉強合宿もしたし、そこで初めて体も重ねた。夏休みが終わってからも必死に時間を見繕って、しっかりアプローチをしてきたつもりだ。しかし、やはり小原は相変わらず他人に優しいし、かと思えば自分に厳しい。勉強合宿のときも、昼はみっちり数学と英語の講習に時間を費やしてくれて──夜にはみっちり保健体育も教え込んでやったが──、今まで一度として完成することのなかった夏休みの課題は、全教科締切までに提出できたほどだった。
(いや別に、それが悪いってわけでもないんだけどさ)
それでもやはり、もっと小原との関係を進めたいと考える千早には、どこか後ろめたいものがある。なぜなら、千早がちょっかいを掛けるとき、小原は決まってこう言うからだ。
──え、どうして? 勉強、するんだろ。
「……そりゃまあ、勉強教えてっつったのは俺だけどさ」
それを口実にしてまで一緒に居たいんだということを、いい加減気づいてはくれまいか。
千早がため息をついて肩を落とすと、不意に走るような足音が聞こえてきた。
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