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*第34話* 広い世界を知った後でも

 頭から熱いシャワーを浴びると、冷えた指先がジンジン痺れ、寒さで強張っていた体が少しずつ溶けていくようだった。  勢いで部屋に来てしまったが、良かったのだろうか。ここにいると、嫌でもあの日の事を思い出してしまう。  薄暗い寝室、ベッドの軋む音、荒々しい息遣い。もう二年以上前の出来事なのに、何もかも鮮明に覚えている。それなのに、久我の方は少しも意識していないようだった。  これ以上傷付きたくない玲旺は、必死に想い出を霧散させる。  期待してはいけない。ずぶ濡れの玲旺を放っておけず、保護されただけだ。自分があの黒い猫を不憫に思って、抱き上げたように。  言い聞かせながらバスルームを出て、久我が用意してくれたセットアップのパーカーに着替えた。玲旺も決して身長は低くないのだが、久我の服は大きくて、袖と裾を捲らねばならない。  おずおずとリビングを覗くと、久我がカーテンレールにスーツを吊るして形を整えている所だった。玲旺に気付いて「髪は乾かした?」と尋ねるので、コクリと頷く。 「応急処置はしておいたから、後でクリーニングに出しておけよ。それにしても、フルオーダーはやっぱり良いな。総毛仕立てだろう? 裏地はキュプラか。手間が掛かってるなぁ。俺も奮発して一つ作ろうかな」  久我は惚れ惚れしたように、玲旺のスーツを色々な角度から眺める。少年のようにキラキラした目で、服が本当に好きなんだなぁと玲旺は微笑ましくて思わず口元に手を当てた。 「桐ケ谷、そこに座ってて。ホットミルクでも作ろうか。砂糖たっぷり入れたやつ」  久我は玲旺をソファに座らせ、ちゃんと乾いてるかどうか髪を摘まんで確かめた。それから脇に置いてあったブランケットで玲旺を包むと、キッチンへ向かう。  あんまり子ども扱いするので、玲旺はソファで膝を抱えて口を尖らせた。 「久我さん、知ってた? 俺もう二十四歳なんだよ」 「へぇ、そっか。じゃあ、ブラックコーヒーの方がいいかな」    グッと言葉に詰まる玲旺を見て、久我は笑いながら冷蔵庫から牛乳を取り出した。玲旺は拗ねたように視線を逸らし、そのまま何となく部屋を見渡す。リビングのすぐ隣にある寝室のドアが目に入り、胸がぎゅっと締め付けられた。  クッションを手繰り寄せ赤くなった顔を隠すように埋めた時、足の先で何か踏んでしまった感触がして、テーブルの下を覗き込んだ。  絵が描かれた用紙を見つけ、手を伸ばして拾い上げる。良く見ればソファの周りにも何枚か散らばっていて、テーブルの上には紙の束が乱雑に積み上がっていた。

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