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広い世界を知った後でも②

「これ、デザイン画?」  色が付いている物もあれば、鉛筆だけで描かれた物もある。玲旺の問いに久我が「ああ」と答えた。 「そう言えば昨日氷雨が夜通し描いてたなぁ。アイツ煮詰まると、アポなしで突然転がり込んで来るんだよ。近所に引っ越してきてからは、週二回は来てるかも。参るよな」  久我は何でもない事のように言ったが、玲旺はデザイン画を持ったまま固まった。 「氷雨って呼び捨てにしてるの? 夜通しって……部屋に泊めるような仲なんだ」  恋人以外は泊めない主義だと言っていた久我の言葉を思い出す。抑えなければいけない感情だとわかっていながら、灼けつくような胸の痛みに耐えきれず、自分の心臓を(えぐ)り出したくなった。  玲旺の纏う空気が変わったことに気付いたのか、久我が様子を伺うように声を掛ける。 「桐ケ谷?」 「久我さん、色々ありがとう。俺、もう行くね」  か細い声で告げ、玲旺が立ち上がった。久我は手にしていたカップをテーブルに置き、玲旺の肩を押してもう一度座らせる。 「どうしたんだよ、急に。ほら、これ飲んで落ち着いて」 「……帰らなきゃ」  この部屋にいてはいけない。そう思うと同時に、この部屋にいたくないとも思った。アポなしで突然転がり込む? 近所に引っ越してきた? 週二回は来てるかも?  ああ。でも、二人はお似合いじゃないか。 「桐ケ谷、何で泣いてるんだよ」  言われて頬が濡れていることに初めて気づく。まさか泣くとは自分でも思わなかった。堪えようと結んだ口から嗚咽が漏れ、情けなくて両手で顔を覆う。久我は一つも悪くない。未練たらしくまだ焦がれている、自分自身の問題だ。 「ごめん。何でもない。大丈夫」  感情をコントロール出来ない事が悔しい。困らせている状態が申し訳なくて、玲旺は急いで涙を拭いた。 「泣いてるのに、何でもないって事はないだろう」  気遣うような眼差しで玲旺の顔を覗き込む。涙の理由に大体の察しを付けたようで、久我は先程の問いに答えるように、落ち着いた声で話し始めた。 「氷雨を呼び捨てにするのは、同じプロジェクトの仲間だし、気安くなっただけで深い意味なんてないよ。部屋に泊めたことなら、藤井や吉田だってあるぞ。氷雨とは、お前が思うような関係じゃないよ」 「だって、昔この部屋で言ったじゃん。『恋人以外は泊めない』って」 「ごめん、覚えてないや。多分、桐ケ谷を帰す為に咄嗟に言ったんだと思う」  なんだか久我が嬉しそうに見えて、玲旺は怪訝そうに首を傾げた。玲旺の涙を拭いながら、久我の頬が緩む。 「もしかして、妬いてくれたの?」 「そ、それはっ」  急に聞かれて玲旺は顔を真っ赤にさせた。言い逃れ出来ない恥ずかしさに、着ていたパーカーのフードを目深に被り、俯きながら「そうだよ」と怒ったように答える。 「まだ好きなんだよ。悪かったな」  あぁ。ただの弟に戻れるチャンスを失ってしまったと、引っ込んだ涙がまた出そうだった。久我が息を呑む気配がしたが、どんな顔をしているのか怖くて見ることが出来ない。

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