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第2話

「梅ちゃんに言われた所、調べたよ?精神病院で起こった事件として、当時散々騒がれたみたいだよ?これがその時の記事…。」 映像研究会の部室。 長テーブルに対に座って、百合子ちゃんはそう言うと、俺の前にノートパソコンを置いて彼女のまとめた情報を見せてくれた。噂の数もさることながら、幽霊に遭遇した人のコメントが怖い…。追いかけられた…とか、刺された感覚が残る…とか、めちゃめちゃ怖い! その中に当時の地方新聞の記事が添付されている。 内容はこうだ。 精神病院、医師逮捕。患者で実験。ロボトミーを施術…と書かれている。 この短時間で、この情報量を集める百合子ちゃんの有能さに惚れてしまいそう… 「ありがとう!助かるよ!」 俺は向かい側に座る彼女にそう言うと、隣でYouTubeのコメント欄ウォッチばかりしている益田に彼女のノートパソコンを向けて言った。 「益田、これ見て見て?すごい怖そうだろ?」 「今、コメント欄に“益田、かっこいい”ってあったんだよ…」 俺は益田のパソコンを閉じて、彼女のノートパソコンを更に差し出した。 「あぁ…やばそうだ、どうやって見つけてくるの?ここ、そもそも入れるの?」 「入れる。」 俺は彼の顔を見て断言して言った。 「それでだ…問題は玄ちゃんをどうやって連れてくるか…?なんだよ。」 俺は神妙な顔をして続ける。 「彼のお父さんが、今回の一件で、俺にこれ以上心スポ探検するな!と言ったんだ。」 百合子ちゃんが手を挙げるので、発言を許可する。 「私が、デートに誘って…」 「ここに連れて行くの?玄ちゃんに嫌われちゃうよ?」 益田が的確な事を言う。 項垂れる百合子ちゃんをそっとしておき、策を巡らす。 皆で頭を傾けてう~んと唸る姿は、なかなかシュールだった。 「玄ちゃんのお父さんが居なかったら、玄ちゃんは梅ちゃんのお願い、確実に聞いてくれるの?それとも、玄ちゃんは騙して連れて来ないと来てくれないの?」 静かに本を読んでいた吉尾が、脇から話に参加する。 「玄ちゃんは…多分、来てくれる…」 俺がそう答えると、吉尾が言った。 「じゃあ、玄ちゃんのお父さんの手を煩わせて、その間に連れ出せばいい。」 お前って…悪いやつだな。 まぁ、怒られるのは俺なんだ…覚悟を決めるか… せっかく上手く立ち上がったこの企画を無駄にしたくない… 「じゃあ、それは吉尾に任せるわ。」 俺はそう言って玄ちゃんのお父さんの気を引き付けているうちに、玄ちゃんを連れだす事にした。 心霊フリークからも好評だった、同時公開は今回も続ける。 前回の反省点として、俺のカメラは手持ちじゃなくてGOプロを購入した。 あとは、玄ちゃん… 喧嘩になりたくないけど…仕方ないか… 決行する日を決めて、俺達は解散した。 「変な子が来てるんだよ。」 俺は玄ちゃんの家にいる。 玄ちゃんのお父さんがそう言って、戸惑った顔をしてウロウロとしている。 吉尾の奴…一体何をしてるんだろう… 俺が後で怒られるのに! 「ちょっと…また話してみる…!」 決心を付けた様に玄ちゃんのお父さんはリビングから去って行った。 ソファで寝転がりながら、隣に座って本を読んでいる玄ちゃんに声を掛ける。 「玄ちゃん…?」 「行かない!」 「まだ何も言ってない!」 「行かない…」 そう言ってムスッとした顔で俺を一瞥すると、すぐまた本に目を戻してしまった。 俺の作戦は失敗してしまったの? こんな所で、終わる訳にはいかないんだ!! 俺は食い下がって、玄ちゃんの膝を揺らして言った。 「今度で最後にするから!ね?お願い!危ない所で、玄ちゃんが居ないと…」 「行っちゃダメだから、俺は付いて行かない!」 頑固者!頑固者! 向こうで吉尾が頑張ってお父さんの足止めをしているのに…ここで終わるのか…? 否! 「良いよ…じゃあ、あいつとおしゃべりしちゃうから…」 俺はいじけてそう言うと、体を起こしてソファから立ち上がろうとした。 「待って!梅ちゃん、待って!本気で言ってるの?」 玄ちゃんが俺の腕を掴んで、真剣な目で俺を見てくる… 俺は…ここで終わる訳にはいかないんだ… 「だって、玄ちゃん…付いて来てくれないんだろ?俺のお願い聞いてくれないなら、俺だって、玄ちゃんのお願い聞かないよ。」 口を尖らせて、ふてくされた様に顔を背けて言う。 まさに、いじけた子供の仕草だ…。 幼い頃から知ってるせいか、未だにこんな風にするなんて、幼稚だよな… しかも、あの人のことを持ち出すなんて…完全に卑怯だ。 「ねぇ、玄ちゃん…せっかく課題が上手くまとまりそうなんだ…。これで視聴回数を上げられたら、コンテンツの論文だって書けちゃうくらい、良いデータが取れるんだ。ねぇ、卑怯な事したくないよ…俺のお願い聞いてよ…、ね?」 さすがに良心が痛んで、完全に情に絆す作戦に変更した。 お願い!お願い!お願い!お願い! そんな気持ちを込めて、両手を合わせて頭を下げてお願いする… 「…これで最後だよ…」 やった~! 俺は玄ちゃんの手を引いて、玄関の方に向かって歩く。 「なんでコソコソするの?」 「お父さんにバレたくないの…」 普段通りの声量で玄ちゃんが話すから、俺は指を立てて口元に持っていき、静かにする様にお願いした。 玄関から出る時、吉尾の声とお父さんの声が聞こえてくる。 「どうして、仏様は世界中の貧しい人を助けないんですか?あれは放っておいて、信じる人だけ助ける偽善の神と同じなら、俺は無宗教でいた方が良いと思うんです。」 「…うん。まぁ、君の好きにしなよ…」 そんなやり取りを聞いて、少し吹き出した。 彼の手を引いて、玄関を出る。 裏に停めた車に向かう途中、また俺に話しかける声がした。 「梅ちゃん、何処に行くの?」 「梅ちゃん、ここに来て…話がある。」 俺はそれを無視して、玄ちゃんの手を引っ張っていく。 振り返らない、答えない、 けど、 今日はやけにしつこかった。 「さあさ!玄ちゃんが来ましたよ!」 車のスライドドアを開けて玄ちゃんを座らせる。 百合子ちゃんが顔を赤くしたのが分かったけど、俺には分らないよ…好きになっちゃったのかな…玄ちゃんの事。 スライドドアを閉めて、助手席に乗る。 「さ!行こうか?」 車は動き出して、目的地まで進む。 今回の装備はばっちりだ。 何が来ても大丈夫。 お昼の12:30 山奥の一本道を進んでいく。 右側に見える山肌にポツンと白い人工物が目立つ。 「あそこだ…」 俺は指を差してみんなに教える。 一般道から右折する道を前方に発見する。 一台、軽トラが止まっていて、俺は車内からその人に手を振って合図した。 「俺、ちょっと話付けてくるから、待ってて」 大文字先生に紹介してもらった長谷川さん。 今あの土地を管理している不動産会社の人だ。 「初めまして、今回は急に無理を言ってしまって申し訳ありません!しかも、お待たせしてしまって、申し訳ないです。」 挨拶もそこそこに病院までの行き方を聞く。 元々が箱物事業で作られたものらしく、過剰なまでの大きな道路と良い、建物自体も需要に対して過剰に供給された立派な建物となっているようだ。 「迷子にならない様に、地図を持ってきたよ。YouTubeで公開するんだろ?楽しみにしてるよ。気を付けてね。夕方で帰るんだろ?でも、でも、もしもの時は、この道路の向かって懐中電灯を照らして?ここは警察の巡回ルートになっているから…」 こんな話を聞いて、最初に行った廃ペンションとの差を感じた。 巡回ルート?なぜ? 俺は長谷川さんにお礼を言って、車に戻った。 俺達の車が右折すると、長谷川さんが南京錠を外して、門を押し開いてくれた。 「今日の夕方6:00きっかりにここに来るから、もし君たちが来なかったら警察を呼ぶからね。」 尋常じゃない話が車内に聞かれない様に、俺は窓から顔を出して頷いて応える。 そして、車は過剰に整備された一本道を奥へと進む。 「これは、白樺かな?立派な道路だな…」 運転する益田がそう言って、俺の方を見る。 「箱物事業だよ。とりあえず、建築仕事を増やす為に作られた様な建物だ。」 長谷川さんからもらった地図を後ろに回して写真に撮らせる。 「梅ちゃん…広いね、ここ、すごく広いよ。」 そうなんだ、広い。 困ったな…目的を絞るか… 「今回は建物探訪しないで、目的の“手術室”に向かう事にしようか…それでも、入り口からは離れているから、結構時間取られそうだ。」 体を捩じって後ろを向くと、百合子ちゃんが持つ地図の手術室の場所を指さした。 地方の総合病院の1.5倍くらいの広さ… GPSも必要だったか… 白樺並木を進んでいくと、目の前に無言でそびえ立つあの白い建物が見えてくる。 随分と長いロングアプローチを経て、俺たちはやっと目的地の精神病院に着いた。 車から降りて周りを見渡す。 こんなにお天気なのに、太陽の光を反射する白い建物が何だか不気味に感じる。 俺はGOプロを首から下げて、付属のライトの確認をする。 益田はカメラと機材を下ろして、百合子ちゃんと玄ちゃんに何か渡している。 「何それ?」 「…GPS」 さすがだ、益田…最高だ。 「俺にもちょうだい?」 手を開いて待つけど、益田が俺にGPSをくれる事はなかった… 「高いんだ、2個しか買えなかった…」 そうか… 車のボンネットに先ほどの地図を広げて見る。 「…ここから、この階段を下りて…こっちの方向に行く。この曲がり角を曲がって…突き当りが手術室だ。中を見て回って…引き返す。トータルで3時間くらいかな…?益田、予備のバッテリー、念のため持って行ってくれ。」 百合子ちゃんの様子を見ると、彼女はすっかり俺を心配そうな顔で見ている。 「百合子ちゃんは今回は怖がらないの?」 俺は地図に目を落として彼女にそう聞いた。 「私よりも…梅ちゃんの方がヤバイって分かったから、意外と平気…」 俺は百合子ちゃんを見上げて少し強めに言う。 「それじゃダメなんだよ。君には賑やかしてもらわないと…。女の子がキャー!って言うのがどれだけの効果を生むと思う?頼むよ。演技でもいいから怖がってね…」 彼女は躊躇いながらも俺の真剣な顔が利いたのか、深く頷いた。 今日はこの前と違って薄ピンクのヒラヒラの付いた可愛い服を着ている。 髪の毛もサラサラで、風でなびく度に良い匂いがする… 玄ちゃんに見せるためかな… 俺はジャージにTシャツ…上に長袖のシャツを羽織っている。 洒落っ気の一つもない… 女の子は得だよな…居るだけで華やかになるし、居るだけで、こんなに可愛いんだから… 「玄ちゃん、何か変な感じする?」 俺は余計な事を頭の外に追い出して、建物を見上げる玄ちゃんに声を掛ける。 「うん。ここは危ないね…」 そうか、良い事じゃないか… 俺はキャップを被ってGOプロを頭に付けた。 「じゃあ、始めよう。」 益田がカメラを構える。 キューサインの後、俺がまた進行する。 「こんにちは。映研梅ちゃんの“心霊スポット除霊訪問”のお時間です。今回はまだ明るいお昼の時間からスタートになります。この場所。心霊フリークの方なら一度は聞いた事が有るのではないでしょうか?某有名精神病院です。特別に今回は許可を頂いて、撮影することが出来ました。今回のメンバーは、前回と同じ…」 こんな感じで各々を紹介していく。 撮影を始めると、後ろから…建物の方から…いくつもの視線を感じる。 玄ちゃんは、俺の表情を伺う様に注視してくる。 俺はわざと玄ちゃんの方を向いて目を合わせると、白目をむいて変顔した。 俺は怖くない。霊なんて信じてないからな。 「じゃあ、中に入ってみようと思います。心スポって、落書きとか沢山あるイメージですけど、ここは綺麗なものです。真っ白の綺麗な建物…です。では、入り口のカギを開きます。」 長谷川さんから預かっている建物のカギを使ってチェーンの間に留められた南京錠を外す。 手術室に行くまで、あと2個。鍵のかかった場所を通らなくてはいけない…。 しかし、閉鎖されてから何年も経っているのに、道路にしろこの建物にしろ…酷い劣化を感じないのはどうしてなんだろう…。まるでここだけ時間が過ぎていないみたいだ…この鍵でさえ新品の様にピカピカと光る。 病院の内部に入る。多少薄暗いが、外の光が窓から入ってきて、そんなに重苦しい空気は感じない。 なんだ、玄ちゃん…あんなに煽ったくせに… もしかしたら、ここはハズレかも知れない… 「梅ちゃん…あれ見て…」 百合子ちゃんが俺の後ろにくっついて指を差す。 天井から吊るされた電灯がぐるぐると回って揺れる。 「あぁ、回ってんね…」 益田が一緒に回る電灯をカメラに収める。 回る電灯は俺達の視線を集めると静かに大人しくなっていった。 エントランスを少し探索する。 とにかく白い…建物内に入ってきた太陽光のせいなのか、眩しい位に廊下の白池辺に反射して、全体が白く光って見える。 「サングラスが要る位明るいね…。」 俺はそう言って病院の中から窓越しに中庭を見る。 ここに入居した人たちはここまで来れたんだろうか…。 奥に見える渡り廊下に目をやると、キラキラ光る物が見えた。 しかし、今回はそっちには行かないんだ。 地図通りだと、こっちの廊下の先は院長室や、看護師の休憩場所のはず。 「特に何もないな…じゃあ、行こうか…」 俺が先頭を歩き、その次は玄ちゃん、その後ろに百合子ちゃんと益田だ。 日の当たる廊下じゃない、影になった廊下を、階段を探しながら歩いて進む。 「百合子ちゃん、大丈夫?」 俺が聞くと、百合子ちゃんは意外とケロッとしているた… 目で、怖がれ!と言うと、取り繕ったように怖がり始める。 可愛い魅力にあふれた彼女に演技力は無かった… 「怖い…梅ちゃん、やめよう…」 君のへたくそな演技を止めてくれ… 奥に階段を見つけて俺は少し早歩きになって進む。 「この階段で地下に向かいます。お昼のせいか、そんなに怖くないですね…」 言ったそばから入り口の方で何かが落ちる音がして、一同、固まって音の方に体を向けて耳を澄ます。 「何だ…?」 益田がカメラで辺りの様子を伺っている。 玄ちゃんの顔を見上げると険しい顔をして、音の方を見ると俺を見て、完全に固まっている… 俺には見えない何かが見えているのかな… こんな事に巻き込んでごめんね… 階段を下りて、封鎖された防火扉で2個目の南京錠を開ける。 ここのカギもピカピカと光って見える。管理が行き届いているだけなのか…? 「梅、ダメだ。引き返そう…」 扉を押し開けようとする俺の腕を掴んで、玄ちゃんが切羽詰まったような声で言う。 「どうした?何か見えるの?」 俺が聞くと、俺の耳元に顔を近づけて、小さな声で玄ちゃんが言う。 「何か様子が変だ。普通の心霊スポットじゃない…」 一瞬迷った…実際この病院は、異様な雰囲気を漂わせている。 気のせいなんかじゃない、異様な雰囲気… 「ねぇ、梅ちゃん…何か…足音、聞こえない?」 階段の下の防火扉の前で固まる俺達の耳に、百合子ちゃんの言った通り、誰かの足音が聞こえてきた。それは、先ほどまで俺達の居たエントランスの方から聞こえているようだった… 「誰か…来たのかな?」 俺が言うと、ガチャーン!と何かが割れる音がして、百合子ちゃんが叫んだ。 途端に駆け出し始めた足音は、確実にこちらに向かってきた。 百合子ちゃんがその足音にパニックになって、俺の方に詰め寄ってくると、地下への扉から中に入って走り出す。 「百合子ちゃん!待って!いけない!走らないで!」 俺は彼女を追いかけて走る。 暗闇だ。 この地下は、さっきまで居た光る廊下とは対極的に暗闇に包まれている。 俺はなんとか百合子ちゃんに追いついて、彼女の手を取って抱き寄せた。 「梅ちゃん…」 後ろから百合子ちゃんの声が聞こえる。 どういう事…? 俺が掴んだ、この人は…誰? 一瞬固まって、顔の向きをゆっくりと下に落として行く。 それは人形の様なツルツルの白い頭…それが徐々に後ろを、俺の方に振り返り始める… 「梅!見るな!」 玄ちゃんの声がして、俺はとっさに目を瞑った。 「ウメ…ミルナ…ウメ、ミルナ…見るな…見るな……」 目の前でそれがそう呟いている声がする…冷たい息がかかる… 俺が、それを抱きしめた手をゆっくりと解いて下に下ろすと、後ろから誰かに掴まれて引っ張られる。玄ちゃんだ… それがキャッキャッとサルの様に笑いながら、暗闇の中に消えていく背中を見た… 男?女?性別不明のそれは体毛が無く、ツルツルしていた… 百合子ちゃんが俺を強く抱きしめて背中を撫でてくれるけど、異質ではあったが、あれが幽霊に見えなくて、生きている人に見えて、困惑した。 「益田は…?」 俺が聞くと、ここ…と暗闇から小さく声がする。 あんな事があったから、俺は確認するために声の方に近づいた。 「撮った?」 俺の問いにコクリと項垂れて頷く。 「みんな一度落ち着こう…」 俺はそう言ってGOプロをナイトビジョンに切り替えた。 懐中電灯を灯して、周囲を照らす。 玄ちゃんがずっとあれが消えていった廊下の奥を見て、お経を早口で唱えている… やばい所に来てしまった… 「梅ちゃん…帰ろうよ…もう、嫌…」 腰が抜けた様にしゃがみ込んでしまった百合子ちゃんの傍に座って様子を見る。 そうだな…百合子ちゃんにはハードだよな…益田もかなり憔悴してる… ここまでか… 俺は玄ちゃんの方を向いて話しかける。 「玄ちゃん…帰ろうか…ここは危険だ。」 俺の声が聞こえていないのか、玄ちゃんはずっと同じ所を見て突っ立っている。 俺は彼の傍に近づいてもう一度言う。 もうお経を唱えるのをやめたのか、口は半開きに小さくパクパクしてる。 「玄ちゃん?もう帰ろう…」 様子のおかしい玄ちゃんに不安になり、俺は彼の目の前に立って、背伸びし、彼の視線の中に入って顔を覗き込んだ。 「ごめん…梅、先に帰ってて…行かないと…」 掠れた声でそう言うと、玄ちゃんは顔をこわばらせたまま、廊下の奥に行こうとする。 「玄ちゃん?待って…ちょっと、誰か!玄ちゃんを止めて!」 俺が必死に止めても、すごい力で玄ちゃんは先に進む。 「ダメだ!玄ちゃん!益田!益田!玄ちゃんを止めて!!」 すっかり戦意喪失した百合子ちゃんと益田は、俺の声が聞こえても恐怖で動けない様子だった。 俺は玄ちゃんに前から抱きついて、足を踏ん張って止めようとする。 でも、全然ダメなんだ… 俺の体と一緒に廊下の奥に進む。 「玄ちゃん…玄ちゃん…!」 俺が巻き込んでしまった… こんな危ない事に…彼は嫌がったのに…巻き込んでしまった… 暗闇に包まれても、玄ちゃんの体はどんどん迷いなく先に進む。 このルートは…手術室へと向かっているの…? 何もない場所に手を伸ばして何かを掴んだように手のひらを握る彼を見て、とうとう俺は怖くなって、玄ちゃんの頬を掴んで自分の方に向けて叫んだ。 「玄ちゃん!しっかりしろっ!お前は強い男だ!負けるな!しっかりしろっ!!」 そう言って頬を思いっきり打つ。 益田と百合子ちゃんの叫び声が聞こえて、すごい形相でこちらに向かって走ってくるのが玄ちゃんの肩越しに見えた。 「な、なんだ…。今度は何だよ!」 俺達を見つけると、益田が泣きながら俺にしがみ付いて、百合子ちゃんは玄ちゃんにしがみ付いた…。 彼らの後ろから先ほどの白い奴よりも大きな奴が体をくねらせながら走ってきた。 顔は逆さに付いているのか…首が捻じれているのか…走るたびにグラングランと顔を揺らして、奇声を上げてこちらに向かってくる。 「何あれ…!!」 俺は益田の体を抱いて、玄ちゃん越しに百合子ちゃんの体も抱いた。 「静かに…静かにして…」 俺は震える2人にそう言って息をひそめた。 キャーーーーーーッ!! それは俺達の目の前まで来ると、悲鳴のような声をあげて、ピタリと動きを止めた。ヌッと体を落として、俺を覗き込んで見る。 体毛ひとつもないこの体は、まるで解剖前の死体の様に白くて鈍そうだった… 眉毛もない…鼻もない…目と目が異様に近くて、瞳が濁っているのまで分かった。 俺がGOプロのライトを当てると、微かに瞳孔が反応して、まるで本当に生きているみたいだった。 玄ちゃんのお経を唱える声が耳の奥に聞こえてきて、俺は自然に両手を合わせて一緒にお経を唱え始めた。 こいつに俺達は見えない…こいつに俺達は見えない… そう念じて、玄ちゃんの声を頼りにお経を唱え続ける。 真言宗の密教には数々のお経が有って、時と場合によって使い分けているって前に玄ちゃんのお父さんに聞いた。 でも、俺と玄ちゃんが唱えるこれは、これと言って特殊なものではないベーシックな物。俺が唯一、覚えたもの… 「お経には1音1音意味があるから、唱える時は決して間違えてはいけないんだよ?」 玄ちゃんの言葉を思い出して気を引き締める。 こいつに俺達は見えない…こいつに俺達は見えない… ある意味自己暗示の様なお経に、頭が痺れてくる。 目くらましが利いたのか、そいつは体を起こすと、廊下の奥に歩いて行った。 「玄ちゃん…?」 暗闇にあいつが消えたのを確認して、俺は玄ちゃんの方を振り返って顔を覗いた。 まだ様子がおかしい…焦点は合わず、会話の受け答えさえ出来ていない… じゃあさっきのお経は、誰が唱えたんだろう…確かに玄ちゃんの声だったのに… 俺は益田と百合子ちゃんに小さい声で話す。 「ここから出よう。まず、玄ちゃんがおかしくなっている。だから、俺達は今ノーガードなんだ…。あいつらの目を一瞬欺くことは出来そうだが、それもいつまで成功するか分からない…この状態で、まずは階段の所まで戻ってみよう。そして、何があっても玄ちゃんから離れちゃダメだ…良いね?」 2人はコクリと頷くと、俺の指示通り玄ちゃんを支えて階段の方へと歩き始めた。 廊下の奥から、さっきの奴の奇声が聞こえる。 まるで脅して動揺させるように物音を立てているようだ…。 「俺たちが動揺するのを待っているんだ…反応してはいけない…」 玄ちゃんが言いそうなことを言って2人を落ち着かせる。 階段のドアの前まで戻ると、百合子ちゃんがゆっくりと音がしない様にドアを開く。 明るい光が差してくると思っていたのに、ドアの向こうは夜の様な青い色をしている。 とりあえず、皆で階段に戻り俺は南京錠のカギをかけた。 「玄ちゃん…玄ちゃん…」 呆けてしまった彼を抱きしめて必死に呼びかける。 どうしよう…彼がおかしくなってしまった… まるで心が無くなってしまったみたいだ…。 しかし、怖がる2人を連れてまずは外に出なければいけない… 俺は顔を上げて、玄ちゃんの手を握ると、階段を上って1階に戻り、先を歩いて辺りの様子を伺った。 ヒタヒタと歩幅の小さい足音や、物音、ドカドカと大きな足音…沢山居る事は分かったが、何よりも、ほんの少し地下に居ただけなのに、地上ではもう日が傾いてしまっていることが怖かった。 ここを出たら彼が元に戻る保証なんてない… このまま出てしまったら戻らない可能性だってある… 玄ちゃんの心をこんな場所に置いて帰る訳に行かない…俺の責任だ… 「益田、気を確かに持って。今から言う事を守って?お前はカメラを持って撮影しながらここを出るんだ。良いか?何も見えない。何も見えていないフリをしろ。あいつらは自分を認識してもらって喜んでる。だから、何があっても…何も見えていないふりをしろ。」 俺は益田の顔を見て静かに言う。そして、百合子ちゃんに視線を移して言う。 「百合子ちゃんには不本意かもしれないけど、益田に発情しながらここを出て?益田を大好き。抱かれたい!って思いながら、ここを出るの。あいつらは性欲を嫌がるんだ。性欲は生きる本能だからね…」 百合子ちゃんは益田を見ながら一生懸命イメトレしてる。 「そして、絶対に見えている事を察せられてはいけないよ。お前たちは何も見えていない…いいね?」 「梅ちゃんは?」 百合子ちゃんが心配そうに聞いて来る。 「お前たちが外に出るのを確認したら、玄ちゃんの心を探しに行く…。このまま外に出たら戻れない気がするんだ…。だから、お前たちは安全な所まで逃げて、俺達の事を待っていて欲しい。」 俺は玄ちゃんを連れて階段に戻り、百合子ちゃんと益田を見た。 2人は俺を見て深く頷く。俺はそれを見て同じように深く頷いた。 「いや~、何も撮れなったね…来て損した!」 益田の声に反応する様に辺りの足音が一斉に早くなる。 怖がるな…大丈夫だから、怖がるんじゃない… 俺は祈る気持ちで2人の後姿を目で追う。 早速二人の目の前に白い奴が現れて、脅すように走って近づいていく。 「益田君…大好きだよ。本当に大好きになっちゃったの…」 百合子ちゃんが益田にしなだれかかって歩く。 上手く発情したのか…白い奴は百合子ちゃんを怖がって避けた。 おじちゃんの言った通りだ… 生きている人が、生きようとする力が…一番強い。 前から後ろから…どこからともなく沸いた白い奴に取り囲まれながら、益田と百合子ちゃんは出口を無事に通過した。 白い奴らはつまらなそうに解散して散っていく。 あいつらはここの病院から出られないんだ… 良かった…良かった。 俺は傍らの玄ちゃんに視線を移す。 呆けた顔もイケメンだ… 俺は彼の頬を撫でておでこにキスした。 「玄ちゃん…俺が助けるからね…」 そう言って、彼の手を握ると、階段を下りて南京錠を再び開けた。 ガチャッと音を立てて扉を開く。 目の前に大きな白い奴が、まるで待ち構えていたかのように佇んでいる。 俺はそれを見えないフリして通り過ぎる。 玄ちゃんと握る手に汗をかく。 白い奴がわらわらと集まって、俺達の後ろを付いて来る…怖くて走りたくなるのをこらえる。呻き声や、笑い声が聞こえる中、俺は精神を“普通”にキープして歩く。 地図で見たルートを思い出す。 ここを曲がる… !! 違う白い奴に角待ちされて、危なく驚く所だったが、見えないフリをしてそのまま先を進む。 怖い…玄ちゃん、助けてよ… 「玄ちゃん…覚えてる?昔、お前んとこのお祭りでさ、俺がキツネのお面買ったの、すごく怒ったろ?その時、俺が言った事覚えてる?」 俺は白い奴に取り囲まれながら、視線を前に向けて歩きながら手を繋ぐ相手に話しかける。 「…だったら、大仏のお面だけ、売ればいい…」 玄ちゃんの掠れた声が聞こえて、俺はクスクス笑って話を続ける。 「そうだよ。そう言った。だってそうだろ?売ってるから買ったんだもの。」 手を引いて自分の傍に玄ちゃんを引き寄せて笑う。 「…的屋に大仏のお面は置いてないよ…」 だいぶ受け答えのしっかりしてきた彼に、彼の心がこの近くにある事を悟った。 「そうか…なら、お前が作ればいいのに…」 俺がそう言うと、傍らの彼は声を出して笑った。 不思議だな。怖くない… 目の前の白い奴が気持ちの悪い動きをしても、突然現れても、顔を覗き込まれても… 「ミエテルンダロ…ミエテルンダロ…」 さっきからずっと耳元でそう言われているけど、ちっとも怖くないんだ… 玄ちゃんが居るから、怖くない…怖くないんだ。 目の前に手術室の表示が見える。 白い奴らはここには近づけないみたいで、前を進む俺達から続々と離れていく。 手のひらは汗だくで、足も震えて今にもしゃがみ込んでしまいそうだ… だが、俺は玄ちゃんを取り戻さなければいけない… 手術室の扉の前で最後の南京錠を外して中に入る。 手術室に入ると、中はやっぱり新品の様に綺麗で、時の流れを感じさせないのは他の部屋と同じだった。置かれているメスやバットに俺のGOプロのライトが当たって、キラキラと反射して光った。 玄ちゃんの心…どんな形なのかも、どんな物なのかも分からない。 でも、確実に彼は心を奪われて呆けてしまった… 「玄ちゃん…お前の心は何処に行ったの?」 彼の顔を見て俺が尋ねると、先ほどまで俺と話していたはずなのに、また呆けた顔に戻って話さなくなってしまった。 あれ…さっきのは玄ちゃんが本当に話していたのかな…? 頭の中で、会話していたのかな…? それとも、勝手に想像していただけなのかな…? いよいよ何が正解なのか、分からなくなってきて、気が狂いそうになる。 その時、呆けた顔の玄ちゃんがスッと手を上げてある方向を指さした。 彼の指さす方に向かって歩く。 手術室の奥の小さい小部屋。 俺は手を伸ばして扉を開いた。 中から腐った肉の様な匂いが漏れて、吐きそうになる。 血の匂い、肉の腐った匂い、消毒の匂い… 様々な匂いの混ざった匂い。 俺は玄ちゃんを連れてその部屋に入る。 扉が後ろでバタンとしまって、狭い部屋に人の声がひしめき合ってこだまする。 意味不明の単語の羅列であったり、笑い声であったり、怒鳴り声であったり… 俺は玄ちゃんにもう一度聞く。 「玄ちゃんの心は何処だ…?」 背後に何かの気配を感じる。 見つめる玄ちゃんの視線が上に上がる。 もうそれだけで後ろに何が居るのか察しが付くよ… きっと大きなものなんだろうな… 俺は玄ちゃんの体を抱きしめた。 俺の体が引っ張られて、壁の中に引きずり込まれていく。 玄ちゃんは我に返って俺に手を伸ばす。 「あぁ、玄ちゃん…良かった。」 俺は元に戻った玄ちゃんの頬を撫でて、涙を落とした。 そのまま壁に飲み込まれる感覚を体中に感じる。 「どうして?どうして…お父さんとお母さんは死んだの?」 「それは運命だから、仕方ないんだよ。」 幼いころの記憶… 両親の死後、俺は施設に預けられていたが、なかなか周りに馴染めずにいた。 唯一の俺の安らげる場所が玄ちゃんの寺の境内だった ここで、夕方まで1人で砂いじりをして過ごすと、鬱屈した気持ちが大分ましになると気付いてしまったから、俺は毎日のように遊びに来ては1人で地面を掘っていた。 そんな事をしていたある日、いつもの様にしゃがんで地面を掘っていると、声を掛けられたんだ… その人は…あったかくて、大きくて、優しかった… 「もう…お父さんと、お母さんに、会えないのかな…」 足元の土をほじくりながらその人に聞くと、その人は俺の頭を撫でて言った。 「私なら、お父さんとお母さんに、もう一度…会わせてあげられるよ?」 俺は顔を見上げてその人に尋ねた。 「本当に?」 その人は満面の笑顔で頷いて言った。 「本当だよ…君が望めばね?」 急に胸が痛くなって飛び起きる。 明るい部屋…白が眩しい位に目に刺さる部屋で目覚める。 音を立てながら扉が開くから、俺は廊下に出た。 窓から中庭を眺めていると、向こうの方で何かが動くのが見えて、目を凝らして見た。 あれは…俺だ… この精神病院に訪れたばかりの時の俺が、向こうで窓越しに中庭を眺めている… 時間が繰り返されているのか…それとも、悪い夢でも見ているのか… 俺は足元に落ちているガラスを拾うと、向こうに向けて太陽光を反射させて合図した。 “帰った方が良い…今なら引き返せるから…帰って!” 向こうの俺は反射する光に気付いたのに、踵を返して奥の方に行ってしまう… あの時…こっちに来ていれば変わったのかな… いいや、結局…何も変わらないのかもしれない… 玄ちゃんが俺を守るのも、俺が玄ちゃんを助けたいと思うのも… どんな状況だって、これは変わらないから。 諦める訳でもなく、俺は彼らの居る方に近づいて行った。 エントランスに来ると何かにぶつかって床に落としてしまった。 音がしたのか、皆がキョロキョロして辺りの様子を伺っている… こちらを見て固まる玄ちゃんと目が合う。 彼は俺を見てるの…?それとも、違う何かを見ているのか…? しばらくすると、ガチャーン!と何かが壊れる音が後ろからして、俺がもう一人現れた… あの白い奴の様に、白くブヨブヨと鈍い塊の俺…髪の毛が半分抜け、常人じゃない目つきに変わり果て、口元を上げてヒャッヒャッと短く笑いながら歩いて来る。 階段の方で百合子ちゃんの悲鳴が聞こえた。 もう一人の俺は、その音を聞くと、目を吊り上げて笑って走って向かう… あれ…?これ、既視感がある… 俺が階段に着くと、丁度みんな地下へ行ってしまった後で、防火扉がゆっくりと閉まっていく様がスローモーションに見えた。 もう一人の白いブヨブヨの俺は、床に突っ伏して泣いているみたいだった… なんだか、ものすごく…可哀想だ…… 俺は階段を下りて、彼らを…玄ちゃんを追った。 暗闇の中、へたり込んで座る益田を確認して、玄ちゃんを通り過ぎる。やっぱりお前はイケメンだ…。立ち尽くす百合子ちゃんを通り過ぎて、俺の前に行く。 白い奴を捕まえたんだな… 目を瞑ってる自分の顔もなかなかイケメンでよかった… 玄ちゃんが向こうの俺の手を引っ張って、引き寄せる。 良いな… 白い奴はキャッキャッと声を出しながら俺を通り過ぎて、暗闇に消えて行った。 皆の方に向き直って、近付いて行く。 “皆…もう帰った方が良いよ…” 聞こえる訳無いと思ったけど、言わずにはいられなかった… 玄ちゃんの早口のお経が聞こえる… 俺は周りを見渡して、玄ちゃんの…彼らの脅威を探した。 “玄ちゃん、大丈夫。何もいないよ?” 俺は玄ちゃんにそう言って、笑いかける。 ピクッと玄ちゃんの眉間が動いて、お経の強さが増すのが分かる。 “玄ちゃんには、俺には見えないものが見えるのかな…” そう言って、俺はまた周りを見渡して、彼に微笑む。 「玄ちゃん…帰ろうか…ここは危険だ。」 向こうの俺が、玄ちゃんに話しかけてる。 “そうだ、帰った方が良い。じゃないと、こうなっちゃうよ?” 俺が言うと、玄ちゃんが小さい声で聞いて来た。 「何で?何で…?」 俺をじっと見て、こわばった表情でそう尋ねてくるから…彼が自分に話しかけていると思って、応えてしゃべってみた。 “不思議だけど、俺と玄ちゃんもさっきまでここに居たんだ…でも、運悪く、俺は出られなくなっちゃった…だから、お前たちは、今すぐここから出るんだ…” 俺を見て固まる玄ちゃんに、懇願してそう伝えた。 「ごめん…梅、先に帰ってて…行かないと…」 帰ろうと促す向こうの俺にそう言うと、玄ちゃんが俺の方に歩いて来る。 触れたら良くないと思って、俺は玄ちゃんから逃げるように後ずさった。 “玄ちゃん、もう帰って!” 泣きながらお願いするのに、玄ちゃんはずっと俺を追いかけてくる。 とうとう追いつかれて、俺は向こうの玄ちゃんに腕を掴まれた。 その瞬間、彼の体から青白く光る何かが抜けて行くのが見えて、直感的にそれが玄ちゃんの呆けた原因だと分かった…。 それを捕まえようとするけど、俺の手では透過してしまって掴むことが出来なかった。 青白い玄ちゃんの心は俺の前を通り過ぎて、向こうの俺の体の中に静かに沈んで行った。 向こうの俺が放心する玄ちゃんを引っ叩いている… もう、彼はそこに居ないよ… お前の中に入っていったんだ… だから、あの時お経が聞こえたのかな… だから、あんなに冷静にみんなを誘導できたのかな… 探しても無いはずだ…俺の中に入ってるんだもの… 意味が分かったような、分からないような… 難解な詩を考察するような途方もない気持ちになる。 そのまま行く宛もなく手術室へ向かった。 …そしてあの部屋に入る。 壁一面に白い奴の顔だけが付いていて、俺を見て嗤う。 胸が痛くなって、前かがみに倒れて膝まづく。 体がドロドロと溶けていく感覚がして、気が狂いそうになる。 両手で抱えていた頭の皮膚が解けて、腕にドロッと滑り落ちてくる感覚がする。 目の前に玄ちゃんを連れた俺がやってくる… “玄ちゃん…痛いよ…怖いよ、たすけて…” 伸ばした手の先が白い骨になって、ボロボロと崩れて落ちる。 玄ちゃん… 目の前が暗くなって、また明るい白い部屋で目覚めた。 繰り返しているのか…これを、何回も? だから、白い奴になりかけの自分が居たのかな… 一体いつからこれを繰り返しているの? 今の俺は何度目の俺なの…? 俺はさっきと同じように、廊下に出て、自分たちを確認した。 今度こそ、ああなる前に玄ちゃん達を止めないと… そう思って、俺は経験した事のないパターンを試してみる。 音を沢山出して怖がらせ、病院の外に引き返させようと頑張るけど、彼らは結局地下に向かってしまう。 そうなったらあとは同じ事だ。 ループを繰り返すうちにパターンが見えてくる。 この俺を見た向こうの玄ちゃんが、助け出そうとして俺に触れて、心が体から離れて…あっちの俺に入ってしまう。 何度やっても同じ結末を迎え、今が何回目で、時間がどれ位たったのか…分からなくなっていく事が怖かった…そして、白い奴になってしまうのではないかという恐怖に駆られて、泣き叫んで暴れる自分が怖かった。 恐怖からの狂気こそ、あの白い者の姿なのだ。 そして、そのうち俺もあれになるんだ… 玄ちゃんが俺を守るのも、俺が玄ちゃんを助けたいと思うのも… どんな状況だって、これは変わらないから。 自分の言葉が声になって頭の中に聞こえ、立ち止まる。 玄ちゃんを助けたい一心で、俺は彼の前に姿を現してしまっている…それが結果的に玄ちゃんのその後の行動を誘発している…では、彼の前に行かない選択をするべきなんじゃないのか…?でも、彼に会いたい…もう2度と会えなくなるかもしれないのに…会わないで、こんな場所に永遠と閉じ込められるなんて…こんなことを何回も繰り返させられるなんて…そんなの…そんなの 狂った方がましだ… またループの最後を向かえ… 白く光る部屋でまた目覚める。 扉が音を立てて開いても、俺は行かない… 手が震える。 喉が痛くなる。 体なんて、無い様なものなのに、心がギシギシと痛くなる。 行かない選択… 彼を無事に返したいなら…そうするべきだ… 俺は部屋の角に移動すると、膝を立てて体育座りをして、両手で両膝を抱えて、襲ってくる恐怖と戦った…。 彼らの元に行かない。 胸の中で、玄ちゃんと2度と会えなくなるかもしれない恐怖と戦う。 どの道…俺の寿命は俺の知るところに無い… 彼の為になるのなら、それで良いじゃないか… 悲しく笑って涙を落とす… こんな事を…こんな気持ちを…持つなんて思ってもみなかった… 白い部屋の壁をじっと見ながら、涙をシトシト落として泣いた。 白いだけかと思った壁は、小さなエンボス加工が施されているようで、 やや凹凸のある模様が描かれている。 その中の一点を何となく見つめる。 どんどんその一点に吸い込まれていくような感覚に陥って目を瞑る。 グーーーンと頭が伸びるような、気持ちの悪い感覚に髪の中に鳥肌を立てる。 気を失って目が覚めると、 俺はまた白い部屋の中に居て… 音を立てて扉が開くのを視界の隅で見た… 何も変わらなかった… また繰り返しだ… 声にならない悲鳴を上げて、今にも狂ってしまいそうだ…!! どうしたら、出られる? どうしたら、終われる? どうしたら、玄ちゃんを助けられる? 玄ちゃんを助けるのを諦めても、出られない。 この施設から出るのを諦めても、終われない。 終わる事を諦めて…狂うしかないじゃないか… 俺は廊下へ出て、窓ガラスを破ると中庭へ出た。 そして天を見上げて祈った。 「俺の寿命…全部やるから助けに来てよ…もう、疲れた…」 膝まづいて、項垂れて地面のクローバーを見る。 こんな狂気の沙汰なのに…足元の緑の色を美しいと思えた… 視界の隅で、俺が窓の外を眺めている姿が見える… 「狂った方が…ましだ…」 そう呟くと、自分の皮膚があの壁の様に白く変色していく。 「うぅ…玄ちゃん……怖いよ…俺も…あれになっちゃうのかな…うっうぅ……」 手の先が白く染まって、むくんだ皮膚の様にブヨブヨになる。 髪の毛が抜け落ちて地面に落ちていく… 「げんちゃぁん…うわあぁん…げんちゃぁん!!あっ…はぁはぁ…んぐっ…」 喉の奥が腫れて気道がゆっくりと潰されていく… こんな風になる位なら、あの時、お父さんとお母さんに会って死ねばよかった… もうここで狂ってしまおう…あの人たちみたいに… 俺はすべてを諦めてそのまま体を前に倒した。 俺の体が地面に落ちない… 誰かが前に居て支えてくれている… 黒い服の…革靴が見えて… あの人が来てくれたと…安心した。 「梅ちゃん、ここはマジで気を付けて。」 目を開けると大文字先生が居て、俺の事を見て怪訝な表情をする。 目の前の大文字先生は例の手帳を片手に俺を凝視してる。 事態が飲み込めなくて、俺は辺りをキョロキョロ見回した。 手を見ると、いつもの俺の手…握って開いて…確かめる。 大きく深呼吸をして俺は大文字先生に言った。 「ここは行っちゃダメなところだ!ガチの所!」 俺は先生をキッと睨むと奥に行って、ナポリタンを手に取る。 大文字先生の前にナポリタンを出しながら言った。 「もっと怖くない所教えて!そこは行っちゃダメな所!」 予知夢の様に…事前に危機を察したのか…? それとも、俺はまだあの精神病院に居て、ただ夢を見ているだけなのか…? 考え出したら、気が狂いそうになるから俺は考えることを止めて、バイトの接客とオーナーのおばちゃんとのおしゃべりに集中した。 本当の行ってはいけない場所。 それは人を狂わして、捕えて、逃がさない… 自分の今さえ疑い出してしまうような… ずっと頭にこびりついて離れない、究極の恐怖を焼き付ける。 行かなくてよかった。 そう…行かなくてよかった。

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