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【1】穏やかな始まり……①

 惣太(そうた)はその日、久しぶりに実家の和菓子屋である霽月堂(せいげつどう)を訪れていた。店は三歳年上の兄、凌太(りょうた)が継ぎ、両親と兄夫婦、六歳になる姪っ子がここで生活をしている。惣太が二階の自宅から一階の店舗に下りると、着流し姿の男性が目に入った。  長身で恰幅がいい。髪は薄くないが白髪交じりのオールバックで、還暦を過ぎているように見える。大木のような威厳と風格があり、ラフな着物姿が板についていた。  この界隈――日本橋を贔屓にしている噺家か何かだろうか。  着物の生地の張り感や独特の光沢から白大島だと分かった。単衣に仕立てられた大島は、梅雨が終わり、これから夏を迎える間にぴったりの選択だが、普通の男性なら泥染めや藍染めの紬を着る。男で白物を着るのはそれなりの貫禄が必要だが、目の前の男は白大島を堂々と着こなしていた。これならきっと高座の時の黒紋付も似合うだろう。 「いつもありがとうございます」  兄が藍色の紙袋を男に差し出した。どうやら常連客のようだ。 「また月の終わり頃にな」 「はい。よろしくお願い致します」  兄が頭を下げると男性は店舗の出入り口に向かった。  自動ドアが開く瞬間、男と目が合った気がした。  なんとなく気になった惣太は、その背中を見送った後、兄に尋ねた。 「常連さんなの?」 「ああ。ここ半年ぐらいでよく来てくれるようになったんだ」 「落語家さんかな」 「かもしれないな。いつも生菓子をたくさん買ってくれるからありがたいよ」  ふと扉の近くに目をやると床に何か落ちているのが見えた。 「あ……ハンカチかな。俺、届けてくる。兄ちゃん、またな」 「ああ。これ持っていけ。おまえも仕事頑張れよ」 「ありがと」  惣太は兄からお土産の紙袋を受け取ると、急いでハンカチを拾い、男の背中を追い掛けた。  店を出て商店街の小道を走ろうとすると、男が待ち構えていたかのように足を止めた。ゆっくりとこちらを振り返る。  ――あれ?  その瞬間、前にどこかで会ったような気がした。  眉と目に見覚えがある。  理由は分からないが胸が微かに騒いだ。 「あの……ハンカチ、落とされましたよ」  惣太が近づいて差し出すと男は笑顔でそれを受け取った。 「霽月堂さんのご子息か。店主の彼とよく似ているな」 「……あ、はい。いつもご贔屓にして頂いて、ありがとうございます」 「礼を言うのはこっちだ」 「え?」 「ハンカチだよ」  男はハンカチを軽く指差すと微笑んで袂に入れた。 「うん。可愛いな……」 「え?」 「いや、拾ってくれてありがとう。感謝するよ」  男はもう一度、微笑むと、ゆっくりと踵を返して商店街の奥へ消えた。

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