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9話-1 パフューム・トラップ
いつも通りの朝、いつも通りの会社、いつも通りの仕事。
しかしながら、今日の俺は少しばかり緊張している。恋人となった入谷 からの、ささやかなミッションを拝命しているからだ。
忘れてないよな、と駅へ行きしなにこっそり鞄の中を確かめる。先日入谷に貰ったばかりの、香水を小分けにしたアトマイザーのキャップが、その存在を主張するようにきらりと光った。
遡ること数日。
金曜日の就業後、俺は入谷と連れ立って馴染みの居酒屋に来ていた。いつか常葉 と変な空気になった、あそこだ。
テーブルを挟んで対面している、おしぼりで手を拭く恋人を見やる。彼の背筋はここでもすっと伸びていて、清々しい空気を半個室の空間へ放っているようだ。それでいて白木造りの店内の雰囲気にもすんなりと馴染んでいる。付き合っていても美人だな、と事ある毎に思ってしまう俺はやはり、浮かれているのだろうか。
彼のオフィスへの納品の予定がなくとも、こうして好きなときに気兼ねなく連絡が取れ、予定が合えば顔を合わせられる。今となっては当たり前の事実に、ほこほこと胸の内が温かくなる。
常連として通う店に恋人がいる、という事実を不思議に感じながら口を開く。
「紫音くんは今日休みだったんだよね? ごめんね、付き合わせちゃって」
「とんでもない。柾之 さんこそお疲れでしょうに、時間をとって下さりありがとうございます」
恋人はつややかな黒髪を揺らしてほんのり艶っぽく笑む。端から聞けば他人行儀にも思える言葉遣いだろうが、今の俺はそれが彼の素だと知っている。
「いや、今週は今日を楽しみに乗り切ったと言っても過言じゃないから。前々からこの店の紹介もしたかったし。気に入ってるんだ、ここ」
「僕も楽しみにしていましたよ。楽しみすぎて、休みなのに早起きしてしまったくらいです」
相手は冗談交じりに言ってちろりと舌先を出す。その様がやたら可愛く見え、喉の奥からぐう、と変な声が出た。
何気ないやり取りに心が潤う。一週間の仕事の疲労が、入谷の纏う清涼な空気感の前にすうっと消えていくようだ。この店での一件以来、常葉と若干ぎくしゃくしていたことも気にならなくなる。入谷にとっても、俺と顔を合わせることが何かしらプラスになっているなら嬉しい。
俺たちの生活は、恋人関係になってもさほど変わらなかった。
お互い仕事があるし、事業主である入谷の休みは不規則だ。会えるのは週に一回以下、こういった食事も月に数回できたらいい方だろう。順番が前後したが、俺には二人の時間が持てるときに、撮影先で印象に残った国や出来事など、訊いてみたい話がたくさんあった。
店員に飲み物と食べ物の注文を伝え、さて、とお通しに意識が向きかけたとき。
テーブルの上に、すうっと小ぶりの紙袋が差し出された。腕を辿って見ると、入谷の顔にはほほえみが浮いている。
「食事の前に、こちらをどうぞ。ささやかなプレゼントです」
え、と声が出てしまう。プレゼントなんて、体感では会う度に貰っている。素直に受け取るのは気が引けた――そう、入谷はもう俺の気を引く必要なんてないのに。
「紫音くん……あんまり俺に気を遣わなくていいんだよ。貰ってばっかりだし、さすがにちょっと申し訳ない」
「僕が差し上げたいだけですので、あなたが気に病む必要はありません。貰って頂けるのが嬉しいのです。……でも、柾之さんの負担になっているのなら今後は控えます」
「あ、ううん……負担とか、そういうわけではないんだけど」
「では、受け取って頂けますね?」
笑みを深くされ、念押しされては折れるしかない。実際のところ、彼の手土産やプレゼントは俺のセンスでは到底選択肢に入ってこないものばかりなので、貰うと新鮮な気持ちになれるのは事実だ。
見てみて下さい、と促されて袋の中身を取り出せば、小さい紙袋と有名ブランドのロゴが入った紙箱のふたつ。紙袋は軽いが、箱の方は液体らしい重量感があった。
紙袋の中身はアンティークっぽいシンプルなデザインのカフスとタイピン、箱の中身は洗練された形状の香水瓶だった。今までとんと縁がなかったものが手中にある。なんだかふわふわした心持ちだ。
「カフスとタイピンはフランスの蚤 の市で見つけて、あなたに似合うと思って購入したものです。香水は僕が好きなブランドのもので、柾之さんをイメージして選びました」
入谷は指先で示しながら説明してくれる。ああ、と溜め息が漏れそうになった。出国前にあのような別れ方になったのに、彼も異国の地で俺の顔を思い浮かべてくれたのか。
「……ありがとう。俺のこと、撮影先でも考えてくれてたんだね。嬉しいよ」
どうしようもなく自分の口元が綻んでいるのが分かる。締まりのない、だらしない表情になっているかもしれない。それでも、入谷も嬉しそうだから良いと思えた。
漂い始めた甘い雰囲気に居たたまれなくなっていたところへ店員が来て、内心ほっとする。俺はそそくさとプレゼントを仕舞って鞄の脇に寄せた。
テーブルにビールと枝豆、だし巻き卵、サラダがに並ぶ。入谷が目をきらめかせながらジョッキを手に取った。
「柾之さん、見て下さい。このジョッキはすごいですよ」
「そう? 普通じゃない?」
「だってこんなに大きくて、濡れていて……すごく硬いです。この白いのも、美味しそうじゃないですか?」
恋人は今夜も絶好調らしい。にんまりと口元を弧にする入谷の前で、はは……と乾いた笑いを漏らしてしまう。
「前から思ってたんだけど……紫音くんってそういう、オヤジくさいのけっこう好きだよね」
「おや、心外ですね。僕が好きなのはあなたをからかうことですよ」
「言い直してもどっちもどっちなんだよな……」
苦笑するが、こんな掛け合いも嫌ではなく、むしろ心地好い。何より相手が楽しげにしているのが文句なしに満たされる。弛緩した空気のままジョッキをかちんと合わせ、乾杯をした。冷める前にどうぞと厚焼き卵を勧めると、頬張った入谷が少し目を瞠 り目を輝かせる姿が見られ、「美味しい?」「すごく美味しいです」と言葉を交わす。自分も箸を伸ばして口に放りこむと、だしの上品な旨味と卵の甘味とが体にじわりと染み渡るようだった。
不意に「柾之さんは……」と名を呼ばれて正面を見る。入谷は深い色の瞳をじっとこちらに向けていた。
「僕が海外にいるあいだ、僕のことを考えたりしましたか?」
思わず枝豆に伸ばしかけていた手が止まる。
会えなかった期間、入谷のことを――考えた。考えたどころではない。貰ったネクタイの残り香を嗅ぎながら、入谷が外国人に組み敷かれるところを想像して、抜いたのだ。
でもそんな倒錯的な想像、正直に言えるわけがない。
「それは、うん。考えたよ……君のこと」
「考えただけですか? 僕はホテルで一人寂しく、自分を慰めていましたが」
「ッ、いや、俺も……した」
「それは嬉しいですね、どんな風に?」
どうしてこんな、急に変な雰囲気に。入谷は身を乗り出してこちらを見つめている。まるで誘導尋問だ。脈拍が上がってきて、頬が熱を持つ。店の中なのに、それが不快ではない。
ええい、もう、言ってしまえ。
「紫音くんに貰ったネクタイの、匂いを嗅ぎながら、してた……」
「可愛いですね」
入谷の目の奥がぎらりと光る。彼の右手が伸びてきて、俺の左手の甲に触れる。それだけで、びくんと大袈裟に反応してしまう。
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