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9話-2 パフューム・トラップ

「僕の残り香で抜いていたあなたも、照れている今のあなたも、どちらもとても可愛いです」 「そんなこと……。っ!」  肩が跳ねる。入谷のたおやかな指が、俺の手の中指と薬指をするりと握りこみ、ゆるゆると往復し始めたのだ。入谷の指はさらさらして、俺の手に吸いつくよう。指に触られているだけなのに、(たかぶ)りを(しご)かれているみたいだった。快い圧迫感が、今は無性に淫らに感じられる。  ちょっと、という抗議の声は掠れ、もう熱が混じり始めていた。 「紫音くん、駄目だって。こんなところで」 「何が駄目なんです? 手を触るくらい、友達同士でもやるでしょう」  だから見られても大丈夫だと言いたいのか。そんなはずがない。いつ店員が残りの品を持ってくるか分からないのに、入谷の手の動きはいっそう艶かしくなる。ちゅく、ちゅく、という淫猥な幻聴まで聞こえてきそうだった。  そこで新たな刺激が加わり、全身がぞわりと震える。掘り炬燵になっている足元部分で、俺の足に触れるものがあったのだ。きっとこれは、入谷の足先だ。視覚では捉えられない部分を想像力が補おうとする。土踏まずから足首にかけてつう、とご丁寧に伝っていく彼の靴下に包まれた足先。味わったことのない種類の刺激に、ぞわぞわと背中あたりが震撼した。刺激は(くるぶし)をなぞり、足首からふくらはぎを這い登ってくる。  俺の手の指はまだ入谷に扱かれ続けている。このまま足が進んできたらどうなるのか。きっと入谷の脚は届くだろう、俺の股間に。足裏でされるなんて無造作で嫌なはずなのに、脳が勝手に揉まれるところを想像してしまう。店員も客も近くにいるのに、半個室の一角では目も当てられない痴態が繰り広げられている――その一翼を担っているのは、他ならぬ自分なのだ。  入谷がうっとりた様子で囁く。 「こんな場所で感じるなんて、柾之さんはいけない大人なんですね?」  違う、と言いかけた喉からおかしな声が(ほとばし)りそうになり、慌てて掌で口元を覆った。ああどうか、店員よ早く来てくれ、と願う。 「いけなくて、可愛い人だ。店員さんに見せつけたら、どんな反応をなさるでしょうね」  次に囁かれた入谷の言葉が、まるで俺の心の内を読んだような内容で、途端に(きも)が冷えた。 「どうして、店員さんの話なんか……」 「だって彼女、あなたのことが気になっているみたいですから。気づいていなかったのですか?」 「へ……?」  予想外の返答が来て、間抜けな声が漏れる。  ぱたぱたと注文を取り配膳をしている店員は、以前常葉に連絡先を渡していたらしい彼女だ。その人なら、気にしているのは二枚目な後輩であるはず。 「いや、そんなわけ」 「移り気は駄目ですよ? 柾之さん」 「そんなのしない、しないって……!」  ふるふると首を振る間にも、股間に血がどんどん集まっていくのを感じる。下半身だけでなく、全身がどうしようもなく熱い。こんなところで、と思うものの、入谷との最初の邂逅でも公のスペースで興奮した姿を見せてしまったのだから、今さらではあるのだ。  もう、いいか。誰に見られても、別に。  快楽が理性を完全に覆い尽くそうとした、その直前。  ギリギリのタイミングで入谷の指と足が離れ、「お待たせしましたー!」と店員の朗らかな声が響いた。あまりにも心臓に悪すぎる。  悪印象を与えるだろうが、店員から顔を逸らして乱れた息を必死に押し殺す。かき混ぜられた感情と感覚の整理がつかない俺を尻目に、入谷は焼き鳥や揚げだし豆腐などをにこやかに受け取っている。彼の変わり身の速さには舌を巻くしかない。  その後もやや脈が速まったままの俺の前で、入谷は背筋を伸ばし、涼しげな様子のまま料理やアルコールを味わっていた。  彼にこうしてやや過激な悪戯を仕掛けられるのも――あまりおおっぴらに認めたくはないが――嫌ではなく、さらに恥を忍んで言うと少し期待している部分もある。それはきっと、俺が嫌だと感じる境目を入谷が見極めて、僅かに手前で止めてくれるからだと思う。それを信頼、と名を付けてしまうにはへんてこな気持ちだが。  その後はおかしな空気になることもなく、談笑しながら場を楽しんだ。そういった時間ほどすぐに過ぎる。  帰り仕度を進めるも名残惜しさを感じ、「次会うときは紫音くんのオフィスだね」と声をかけると、容姿に似合わず茶目っ気あふれる青年はどこか蠱惑的な微笑を浮かべた。 「それなんですけど、ひとつお願いがあるのです」 「お願い?」思わず目を瞬く。 「今日プレゼントした香水を、会う予定がある日につけてきて頂きたくて。実際にどんな香りがするか知りたいのです。よろしいでしょうか?」 「ああ、それくらいなら。もちろん」  軽く請け合うと、何やら相手の目が肉食動物めいた光を宿したように見えた。不穏さを感じて体のあちこちに緊張が走る。  既に立ち上がっていた俺の腰へ、入谷の腕がするりと回ってきた。耳元に寄せられた恋人の唇から、ごくごく小さい声が耳管に吹き込まれる。  湿度を含んで甘くかすれた、プライベート用の声音。 「今、よろしいと仰いましたね? 僕が知りたいのは、あなたがつけた香水のラストノートの香りですよ」 「ラ、ラストノート?」  聞き慣れない言葉だ。無意識のうちに握りこんでいた掌が汗ばんでくる。なんだか雲行きが怪しい。 「香水の匂いというのは、時間経過で段階的に変化します。ラストノートは数時間経った後に残る最後の香りです。ですから……お分かりですね?」  甘えるような、それでいて愉悦を含んだ囁きが、耳から俺の思考を侵食する。  入谷のオフィスを訪問するのは平日だ。つまり彼は、会社にいるときから香水をつけろと言っているのだ。俺はそれを、既に了承してしまっている。  香水など関心を持ったこともないのだから、無論会社にそんなものをつけていったことがあろうはずもない。極力目立たないように生きてきた男が、突然人工的な香りを振りまいていたら。何かしら勘づく人が出てきても、おかしくないだろう。  しかし、拒むという選択は残されていない。入谷から貰った香水を持って会社に行き、どこかのタイミングで香りを身に纏う。それは既に、決定事項だ。  小刻みに頷くと、柔らかいものが愛おしげに頬へと触れる。それを咎める余裕もない。 「楽しみにしています。約束ですよ」  空調が効いているといえど室内は暑くはないのに、変な汗が背中を伝い落ちるような心地がした。    入谷との約束の日。午前中ずっと、彼から貰った香水のアトマイザーが脳裏のどこかにちらつき、そわそわと浮き足立っている。  香水自体はまだつけていない。デオドラント製品は使ったことがあるものの、俺が香水の香りをぷんぷんと放っていれば、違和感を持つ人もいるだろう。そうならないよう計画を立ててある。昼休み、昼食後にこっそり香水をつけたら、すぐさま社外へ出て客先を回り、入谷のオフィスへ直行するのだ。そうすれば普段交流のある社内の人に気づかれる可能性はなくなる。我ながら完璧な計画である。おそらく入谷は俺の身の回りの人間に勘づいてほしいのだろうが、そうは問屋が卸さない。  味がよく分からない社食のAランチを平らげてから、こそこそと男子トイレの鏡の前でアトマイザーを手にする。香水のこの字も知らないので、暫時(ざんじ)ためらった後に手首へと一吹きした。袖の匂いを嗅げば複雑な香りはするものの、これで充分なのか足りていないのか、よく分からない。おそらくほのかにでも香れば入谷は満足するだろうと予測し、アトマイザーを内ポケットに仕舞う。  と、その動作が終わるか終わらないかのうちに、背後を通り過ぎる影があった。普段ならそんなことをしないのに、気を張っていたためか防御反応のようにばっと振り向いてしまう。

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