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9話-3 パフューム・トラップ
若干驚いた表情のできる後輩・常葉がそこにいた。
「お、お疲れ様」何もなかった振りもできず、ぎこちなく声をかける。
「お疲れ様ス。なんかありました?」
「いや、特別……ないんだけど」
「そっスか?」
常葉は小首を傾げたが、それ以上は興味を失ったようにトイレの奥へとまた歩きだす。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、「橘さん……」と今度は相手から呼び止められた。
はっと体を反転させると、俺のことを形のいい双眸で見つめる後輩と視線が合う。髪で隠れて片方しか見えない眉は訝 しそうにひそめられていた。
張り詰めるような沈黙があって。
「いえ、やっぱ何でもないス」
先に目線をあっさり外して、常葉は俺の視界からさらりとフェードアウトしていった。
完璧な計画には常に横やりが付き物、ということなのか、何か言いたげだった常葉との邂逅イベントを乗り越えても次があった。荷物を取りに自分の机へと向かったところで、事務員の女性に声をかけられたのだ。なんでも、フロアでオイルライターを拾ったらしい。この階で喫煙者と言えば片手で数えられるほどだが、オイルライターを使っている者は更に限られるだろう。掌に乗せて差し出されたものを確認したが、自分のものとは種類が違っていた。
「僕のではないみたいです」
「そうですか、じゃあ常葉さんのですかね」
かもしれませんね、と相槌を打とうとしたところではたと気づく。彼は――常葉はいつも、煙草に火をつける時に何を使っていた? まさかマッチではあるまいが、どんなライターを使っていたかまるで思い出せない。何度も見かけているはずなのに、ただ視界に入っているだけで、俺はちゃんと見ていないのだ。
「……常葉くんならさっき会ったんで、まだ会社にいると思いますよ」
「そうですか、ありがとうございます!」
相手は曇った俺の内心には気づかない様子で、にこやかにぱたぱたと走り去っていった。今度こそ荷物を、と気を取り直したところでまたも、気になる光景が目に飛び込んでくる。
「どうぞ」
女性事務員が背伸びをして棚の上のものを取ろうとしていたものだから、認識した以上無視するわけにいかず、目当ての品に手を伸ばして相手に渡した。
相手はさも嬉しそうに口角を上げる。それを見て、俺も意識的に微笑を作った。
「ありがとう、橘くん。助かったよ」
「いえ、これくらいならいくらでもやりますよ」
「じゃあ、今度困ったら頼もうかな」
ええぜひ、とややおかしな返事を放って、三度目の正直とばかりにぐっと鞄の持ち手を掴む。そのまま客先へ向かうつもりだったが、廊下へ出たところで気が変わった。
自分の脆弱な計画が儚くも崩れたせいか一服したくなったのだ。足先を喫煙ルームへ向け、まだ昼食を摂っている人がいる休憩室の前を通り、無人の目的地のドアを開ける。煙草に火をつけながら、香水と紫煙の匂いが混ざったらどうなるのだろうとぼんやり考える。いい香りにはならない気がする。けれど、入谷からは何も言われていないのだから構わないだろう。
少々やさぐれた気分で一服を終え、頭を仕事に切り替えようとする。部屋を出て休憩室の近くを通り掛かった、そのとき。
「橘さんのこと、先輩気づきました?」
ガラスの向こうから飛び出てきた自分の名前。はっとして反射的に足が止まる。そちらから見えないようにこっそり中の様子を窺うと、昼食を食べていた人々は去り、先ほどフロアで会話をした二人の女性社員が飲み物を飲みながら何やら話をしているようだ。
気づくって何を、と思うか思わないかのうちに、先輩の方が苦笑混じりに言葉を返す。
「あー、香水でしょ?」
その単語を認識した一瞬だけ、心臓が止まる。驚きで声を発しそうになるのをすんででこらえた。あんなわずかなやり取りのあいだに感づかれてしまうとは。
後輩社員は大袈裟に天を仰いでみせた。
「それです! うう~、やっぱり私の鼻がおかしいんじゃないんですね……はあ、橘さんにもとうとう恋人かあ。この前の飲み会じゃそんな気配なかったのに~」
「そんなに残念がるならアタックしてみれば良かったのに。あ、アタックって言い方はもう古いか」
「いやー、それはなんか違うというか。橘さんはみんなの癒し枠~って感じなので。そういう人が誰か一人のものになっちゃったってところが一番、ショックみたいな。あ、伝わりませんよね、これじゃ」
「まあ、分からないでもないよ。橘くん私ら事務にも優しいし気が利くから、話すと和むよね。機嫌悪そうなところ見たことないし」
「いやもう全部それですよー! 同期なのに望月さんとは全然違いますよね。満杯になったシュレッダーのごみ捨てとかコピー機の紙の補充とかしてくれてますし。この前なんか給湯室の掃除してくれてたんですよ? 営業の人がそんなことするの、私びっくりで」
「分かる分かる、そういう些細なことって案外みんな気づいてるよねえ」
「ねー、ですよねえ」
自分の喘鳴 が聞こえる気がした。これは、俺が聞いていい会話じゃない。それなのに脚がちっとも動かない。さっきからずっと動悸がしている。
癒し枠、だなんて。他人からそんな風に思われていたなんて知らなかった。俺は何も、知らなかった。
シュレッダーとかコピー機とか、そんなの当たり前じゃないか。自分の機嫌を自分で取るのだって、大人として当然のことだろう。休憩室を拭き掃除していたのだって、自分が汚したと思われたくないからであって、いい人に見られたいとか思っていたわけじゃない。それら諸々を、誰かの癒しのためにしてきたわけじゃない。
じゃあ全部、やらなければ良かったのか? 望月みたいに自分の管轄外のことは他人に自然に押し付けてくれば良かったのか?
それはきっと違うのだろう。異性に好感を持たれるのだって、一般的には良いことなのかもしれない。けれど俺にはそう思えず――堂々巡りにぐるぐる考えてしまいそうで、その場をそっと離れた。
休憩室の前を通らないとエレベーターホールには行けなくて、この先は非常階段しかない。まあ、もやもやを消化するためのいい運動にはなるだろう。動揺する心を叱りつけるように、そう無理やり自分を納得させた。
入谷と会う前に、今日はなんだかどっと疲れてしまった。
客先回りの最後に彼のオフィスを訪ねると、いつも最初に顔を合わせる事務員の須藤さんの姿が見えない。エントランスまで出てきて「上着をお預かりします」なんて何やら甲斐甲斐しい様子の入谷にそれとなく訊いてみると、半休を貰っているらしい。彼女が自発的に取ったのか、事業主が与えたのか。なんだか嫌な予感がするな。
入谷との仕事上のやり取りは慣れたものだ。サインを貰って、次回納品する薬品の数を増やす旨の依頼を了承する。
俺は業務中の癖で、愛想笑いを口元に貼りつけたまま頷いた。
「数量の件、承りました。それでは、またひと月後に伺いますね」
「はい。よろしくお願いします」
「あ、こちらは私どもの新しい取り扱い商品でして、よろしければご覧下さい」
テーブルの上のクリアファイルからパンフレットを一部取り出したところで、耐えきれないとばかりに入谷がぷっと噴き出した。いや、気づいてはいたのだ。さっきから笑いをこらえて肩がぷるぷる震えていたことを。
「ちょっと、笑わないでよ!」
「だって僕以外に誰もおりませんのに……無理です、可笑 しすぎます」
入谷は息も絶えだえにころころと笑い転げ、目元を拭う。そんなに面白かったのか? 大笑いされたのが恥ずかしくて、頬がかああと熱くなる。
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