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9話-4 パフューム・トラップ

「いや、俺だって変だとは思ったけどさ! どうすればいいのか分からないんだから仕方ないでしょう……その点、紫音くんは普段から口調が変わらないから(ずる)い」 「おや、狡いときましたか。可愛い言いがかりですね」  俺の難癖を難なくかわし、相手は俺の隣へとやってくる。今の顔を至近距離でまじまじと見られる羞恥はかなりのものだ。入谷は俺の心境など知らない様子で、そのまま革張りのソファへ腰を下ろした。 「その話はもういいでしょう? 今日はこれからが本題ですので」  そのままこちらに身を寄せた入谷が、獲物を狙う目をして囁く。う、と喉の奥から呻き声が漏れそうになった。昼間の苦い気持ちがそこまでせり上がってきたのだ。 「香水、つけてきて下さいましたか?」 「う、ん……昼過ぎに」 「ふふ、偉い子です。さて、どこにつけたのか僕に探させて下さいね」 「え……? あっ」  湿り気を含んだ声が何やら宣言したと認識した時には、びくりと全身が反応してしまっていた。入谷に首筋を舐め上げられたのだ。その濡れた熱い感触は、仕事に必要なもの以外がないオフィスには、まったく似つかわしくないもので。 「ここではないみたいですね。こちらでしょうか」 「ちょっ、紫音くん……!」  身を(よじ)るが、背中側からよく動く指が伸びてきて、寛げたシャツのあわいから侵入してくる。出会い頭に上着を預かるなんて初めての申し出があったのは、きっとこれの下準備だったのだ。胸元をまさぐる動きがいやらしく感じられ、じわじわと下腹部が熱くなってくる。  普通に考えたらそんなところに香水なんてつけるはずがない。入谷は確実に、分かっていてやっている。  このまま下半身までいじくり回されたら……と想像がもたげてきたところで、さんざん上半身を触り舌を這わせていた入谷が、俺の左手首に鼻先を近づけた。すうっと深く空気を吸い、にんまりとほほえむ。 「ああ、ちゃんとラストノートの香りが分かります。奥行きのある香りに煙草の匂いが混ざって……あの香水をあなたが使うとこうなるのですね。大人の男の香り、素敵です」 「紫音くん……でもこの香水のせいで、恋人ができたんじゃないかって噂されてたんだけど」 「不思議なことじゃ、ないでしょう? そうでないと意味がありませんから。……ね?」 「……っ!」  甘く耳元に吹き込まれ、総身がじんと痺れる。  入谷は俺を押し倒すようにソファへ仰向けに寝かせると、腹の上へ半ば跨がるようにして笑みを深くした。彼の指先は、俺のネクタイを掬い上げている。他の手持ちのネクタイとは決定的に違う、それを。 「ねえ、柾之さん。このネクタイ……僕がプレゼントしたものですよね。それはお会いした瞬間に分かりましたが――」  入谷が袖口に触れる。ああ、気づいてもらえて嬉しいのに、それと同時にこんなにも恥ずかしいのはなぜだろう。 「ネクタイに、先日贈ったタイピンと、カフス。すべてつけてきて下さったんですね。香水と一緒に身につけてもらえるなんて……あなたは僕を喜ばせる天才です」 「ん……っ」  俺の返答など不要と言わんばかりに、入谷が身を乗り出してきて口が塞がる。触れた唇はちゅ、ちゅ、と角度を変えて交わるが、それだけで済むはずがない。俺と入谷は淫猥な水音を空間に響かせながら、深く浅く口づけを続ける。幾人もの取引相手が座ったであろうソファの上で。  ああ、入谷から贈られたものをすべて身につけるのを、ちょっと良い思いつき程度に考えていた朝の自分を蹴り飛ばしたい。そして言ってやるのだ。後でものすごく恥ずかしい思いをするぞ、と。  そんなことを考えているうち、相手の指が下腹部を弄り始め――ちょっと待った、止める気がないんじゃないか、これ? 嘘だろう、ここは彼の仕事場なのに。 「しお、ん、くん」制止のための呼び声はみっともなく上擦り、熱を孕んでいた。 「ここでしたいです。駄目ですか?」  至近距離から俺の目を覗きこむ年下の恋人が、ストレートに欲求を伝えてくる。  色が深すぎて紫色に見える瞳の中に、自分の顔が映っていた。表情までは見えないがきっと、(とろ)けて締まりのない顔をしているのだろう。  駄目だよ――その一言が言葉にならず、かちゃかちゃとベルトを緩める入谷のなすがままになる。呆気なく外気に曝された俺のそこは、既に隠しようがないほど固くそそり立っていた。入谷は切れ長の双眸をぎらりと輝かせる。 「ふふ、もうこんなに物欲しそうにして……柾之さんもしっかり興奮してるじゃないですか。ちょっと憧れがあったんですよね、オフィスセックスって」 「お、ふぃ」  そうして言葉にされると、背徳感が物理的な手触りを持つように感じた。仕事をするために誂えられた部屋で、仕事とは最も遠い行為をこれからしようとしているのだ。  俺は往生際悪く、施錠されていないエントランスのドアを思った。 「でも、誰か来たら――」 「そうですね、来るかもしれませんね。僕は別に見られてもいいですが。……ほら、柾之さんのここ、今のでまた大きくなりましたよ。想像しましたか?」 「ちが……」  否定したいのに、触られると条件反射のように気持ちよくなってしまう。鈴口をちゅくちゅくと音が出るほど弄られて、腰が抜け落ちそうなほどの快感に襲われ、顎が上を向きかける。上擦った声にはもう熱がこもり始めていた。 「本当に? ここであなたとセックスしたら、僕はソファが視界に入る度に思い出すでしょうね。別の人が座っていたら、ああ、そこは柾之さんの肩のくぼみがあったところだ――とその度に考えてしまうでしょう。今からそんなことを予想して興奮しているなんて、僕はとてもいけない人間です」  入谷の囁きは彼自身に向けられているのに、俺を苛んでいるように聞こえるのは、なぜなのだろう。  入谷の器用な指は俺の昂りを優しく、ねちっこく扱いている。泣きぼくろのある右目に捉えられたら、もう駄目だ。オフィスセックスなんて常識外れだと分かっている。分かっているのに、してしまいたくてたまらない。恋人の指は気持ちいいけれど、物足りなくてもどかしい。  常識的にしてはいけないことを破ったら、ものすごく気持ちいいに決まっているのだから。  入谷がふと、寂しげに眉尻を下げた。 「本当にお嫌なら、無理にとは――」  目の奥あたりがかっと熱くなる。ここでやめる? 冗談じゃない。俺はもう、君の奥深くに自分を刻みつけたくて仕方ないのに。 「もう、いいから。早く……ッ」 「入れさせろ、と?」入谷の眸が野生動物みたいに爛々と光った。その輝きの光源は、欲情の炎であるのかもしれない。「ふふ、柾之さんは欲しがり屋さんですねえ。いいですよ。いけないことを、ぐちゃぐちゃになるまで、二人でたっぷりしましょうね?」  挑発的に口の端を引き上げて、入谷は自らのシャツのボタンに手をかける。  生身の情欲をぶつけ合う予感に、胸の内で歓喜が弾けた。  午睡(ごすい)から目覚めたときのような気怠さを全身に感じつつ、熱めのシャワーを浴びる。  熱に浮かされて一頻りの行為を終えた後なので、なんてことをしでかしてしまったんだ、という賢者タイムの反動が酷い。  幸いにもと言うべきか不運にもと言うべきか、俺以外に来客はいなかったから盛り上がれるだけ盛り上がってしまった。最後には上に乗られるのだけじゃ満足できず、入谷の後ろから激しく腰を打ちつけたため、腰回りの倦怠感がすごい。 「興味があった」という入谷の言葉通り、彼はいつもより感じ入っていたように思う。お互いの汗でしっとりした肌の火照り。こちらを熱っぽく見つめる潤んだ切れ長の双眸。ほのかに混じり合う二種類の香水の匂い。抗議するように鳴るソファのスプリングの音も、恋人の甘くとろけたしどけない嬌声もまだ耳に残っていて――いや、もう考えるのはよそう。さんざん体を重ねたのに、また(ほとぼ)りが蘇ってきそうだ。

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